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香港デモを哲学者が「もっとやれ」と煽るワケ

プレジデントオンライン / 2019年8月1日 15時15分

6月16日、香港の金鐘(アドミラルティ)で行われた大規模デモの様子(撮影=的野弘路)

■なぜ人々はデモをするのか?

香港のデモが長引いている。ことの発端は、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする条例改正案への抗議だ。しかし、その背景には人権の弾圧を強める中国政府への本質的な反発が横たわっている。

香港だけではない。欧米社会ではデモが頻繁に起こっている。記憶に新しいところでは、フランスの「黄色ベストデモ」が挙げられるだろう。マクロン政権の自動車燃料増税に反対する地方生活者が、ドライバーの安全確保用の黄色いベストを着て起こした抗議活動だ。日本も例外ではない。近年、憲法改正反対のデモや、秘密保護法案反対のデモが盛り上がりを見せた。

なぜ人々はデモをするのか? 一言でいうと、政治に不満があるからだ。民主主義国家の場合、もし政治に不満があるのなら、それは選挙時の投票行為によって意思表明すればよい。しかし、選挙は日常的に行われるものではない。そうなると、不満の表明は別の手段によって行うよりほかない。

その中でも一番手っ取り早く、現実的で、かつ効果的なのがデモなのだ。選挙と違って大がかりな準備はいらず、集まって行進すればいいだけだから手っ取り早い。また、革命などと違ってリスクは小さい。さらに、大人数が集まって行進するので、とにかく目立つ。ニュースとして取り上げられる可能性も高い。

■社会に属しながら、自分のことしか考えないのはわがまま

デモとはデモンストレーションの略で、日本語だと示威行動などと訳される。大人数が行進することで、威力を示すことができるからだ。こんなに多くの人が怒ってるぞと。しかも集会と異なり、行進するので、動きが見える。いかにもこちらに向かってくるという印象を与えることができるのだ。先ほど革命とは違うと書いたが、行進の先にはどうしても革命がよぎるはずだ。だから権力はデモを恐れるのだ。実際、デモから革命につながった例はいくつもある。

そこで権力側も手をこまねいてはいない。危険だと思えば、デモを鎮圧するのだ。これがデモに負の印象を与える結果になる。デモは危険だとか、逮捕されるという印象だ。日本でもかつて学生運動が盛んだった頃、そうした衝突があった。だからデモにはあまりいいイメージがないのだろう。

しかし、多くのデモはそこまでいかない。特に最近のデモは、だいぶ変わってきている。デモはあくまで政治参加の一つの形態にすぎないととらえているのだろう。社会にかかわるのは、社会に属する成員の義務でもある。社会から恩恵を受けておきながら、自分のことしか考えないのは単なるわがままだからだ。

■公共哲学は「私」と社会のかかわりを考える学問

私は公共哲学を専門としているが、まさに公共哲学とは、「私」が社会にいかにかかわるかを考える学問であるといえる。その視点からすると、デモは「私」が社会にかかわるための一つの方法として位置づけられるのだ。つまり、政治に問題があるような場合に、同じ不満を持つ人たちが集まって行進し、自分たちの意思を権力の側に伝える。そのための装置なのだ。

そんなふうにとらえると、より効果的なかかわり方を考えようとして、建設的になれるに違いない。現に最近のデモは、かなり建設的で精緻なものへと変貌しつつある。もはやそれは怒りに任せて破壊活動を行うような暴力的なものではなく、あくまで民主主義を言祝ぐお祭りのようなものへと変わりつつあるのだ。

だからこそ、女性や子どもも参加することができる。そして女性や子どもが参加すると、より注目を浴びるようになる。日本の脱原発のデモに、赤ちゃんを抱いたお母さんたちが参加していたのはその典型だ。将来世代のことを思い、若いお母さんも立ち上がったという強烈な印象を与えることになった。それと同時に、デモが決して暴力的なものでないことを証明するいい機会にもなった。

■21世紀型デモのスタイルとは

その大きな転換点となったのは、2011年にアメリカ・ニューヨークで起こった「ウォール街占拠(Occupy Wall Street)」だろう。スローガンは“We are the 99%”。アメリカでは上位1%の富裕層が所有する資産が増加し続けており、デモではウォール街の金融機関などを標的に「1%の金持ちへの優遇をやめろ」と訴えた。つまり、99%の人々が1%の大金持ちにノーをつきつけたのだ。

あのとき人々は公園に集まっていたわけだが、アメリカでは街頭演説でマイクを使うと現行犯逮捕される恐れがある。このため参加者はさまざまな工夫をこらしていた。たとえば、伝言ゲームのようにしてスピーチを伝達する「人間マイクロフォン」というやり方は話題になった。古代ギリシアのアゴラさながらのやり方だ。

ハイテクツールが使える場合は、デモはさらにクオリティの高いものになる。最近のデモはSNSで呼びかけられることが多い。インターネットをうまく使って、世界中の支持者たちと連絡を取り合い、ネット上で効果的にメッセージを発信する。それが21世紀型のデモのスタイルだ。

台湾の国家に相当する立法院を学生たちが占拠したひまわり学生運動は、まさにそうしたハイテクの勝利であったといっても過言ではない。奇しくも台湾のこの学生運動もまた、中国の影響に対する反発に起因して生じたものだ。

■世界で起こるデモを称賛せよ

先ほども書いたように、民主主義国家における主人公は国民である。権力がその国民の人権を抑圧、弾圧することは許されない。原則的には、国民の政治に対する不満は、数年に一度の選挙の際に示される。しかし、民主主義や人権という大前提が脅かされるような場合には、国民は非日常的な行動に出ざるを得ない。それがデモという選択なのだ。

したがって、デモとは民主主義や人権を守ろうとする行為であって、逆にいうと、デモが起こるということは、国民がまともな証拠だといえる。権力が民主主義を破壊し、人権を抑圧しているのに、指をくわえて見ているような国民はまともではない。ましてやそのことに気づかないようでは、危険度はさらに増す。

だから私たちは、世界で起こるデモを称賛する必要があるのだ。私の専門は公共哲学だといったが、その中で私は「公共性主義」という立場を表明している。これは私の造語であり、新たな思想だといってもいい。

■「である哲学」から「する哲学」へ

残念ながら哲学はこれまであまりにおとなしすぎた。物事の本質を考えるための学問として、部屋に閉じこもりすぎたのだ。しかし、少なくとも公共哲学のように自分が社会にいかに関わるかを考える学問は、実践をしてもいいはずだ。いや、実践なき机上の空論だとしたら、果たしてそこにどれだけの意味があるのだろうか。

私はそう考えて、「である哲学」から「する哲学」への転換を呼びかけた。それこそが公共性主義にほかならない。主義というのは、そうあるべきという主張の表れなので、公共性に主義がつくということは、公共性をもっと活性化していかねばならないという強い主張を意味することになる。

そうでないと、この個人主義の時代に、社会のことなどないがしろにされてしまうのは火を見るより明らかだ。だからあえて一歩踏み込んだわけである。お気づきの方もいるかもしれないが、「である」から「する」への転換という表現は、かつて政治学者の丸山眞男が好んで用いたものである。

■沸騰する香港の灯を消してはならない

小川仁志『公共性主義とは何か』(教育評論社)

丸山は、日本社会における現状を維持しようとする態度を「である」と表現し、それに対して、現状を変えようとする積極的な態度を「する」と表現した。その意味で、公共性主義の名のもとに私がやろうとしているのは、哲学の革命であるともいえる。

おそらくかつての哲学者たちにとって、今起こっているデモを称賛することなどありえなかっただろう。近代ドイツの偉大な哲学者ヘーゲルが喝破したように、哲学は事態が収束してからようやく飛び立つミネルヴァのフクロウであるべきだからだ。しかし、私の考えは多少異なる。哲学は今起こっていることに拍車をかける勇気、エネルギーであってもいいはずだ。

だからデモを積極的に支持したいと思う。そこに問題がある限り、民衆が不満を抱いている限り、私たちは行動を起こさねばならないのだ。

今一度繰り返そう。沸騰する香港の灯を消してはならない。

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小川 仁志(おがわ・ひとし)
哲学者
1970年京都府生まれ。山口大学国際総合科学部准教授。京都大学法学部卒業。名古屋市立大学大学院博士後期課程修了。博士(人間文化)。商社マン(伊藤忠商事)、フリーター、公務員(名古屋市役所)、米プリンストン大学客員研究員等を経て現職。「哲学カフェ」を主宰するなど、市民のための哲学を実践している。著書に『7日間で突然頭がよくなる本』『これからの働き方を哲学する』『AIに勝てるのは哲学だけだ』など多数。

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(哲学者 小川 仁志 撮影=的野弘路)

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