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「少年A」の家族を22年間、支え続けた男がいた

プレジデントオンライン / 2019年8月9日 15時15分

『絶歌』神戸連続児童殺傷事件の加害男性が出版=2015年6月19日撮影 - 写真=読売新聞/アフロ

1997年、神戸市須磨区で起こった連続児童殺傷事件。その加害男性「少年A」の両親と家族を22年にわたって支え続けている羽柴修弁護士。名前を出してマスコミの取材に応じることがほとんどない羽柴弁護士の、筆舌に尽くしがたい労苦を記す――。

※本稿は、松井清人『異端者たちが時代をつくる』(プレジデント社)の第6章「『少年A』の両親との20年」の一部を再編集したものです。

■羽柴弁護士の22年

元号が令和に変わる少し前の、2019(平成31)年2月。私は、神戸市中央区にある中神戸法律事務所に羽柴修弁護士を訪ねた。

羽柴さんが、名前を出してマスコミの取材に応じることは、めったにない。表に出ることはほとんどなく、陰に回って22年間、ずっと少年Aの両親と家族を支え続けている。Aの弟二人を含む家族の落ち着き先など、生活全般をサポートし、被害者遺族への謝罪の橋渡し役となり、一時は絶縁状態だったAと両親の関係を修復しようと、ありとあらゆる手段を講じてきた。

ほぼ無償で引き受けた、その筆舌に尽くし難い22年間の労苦を、私のこの本に記しておきたい。それが神戸再訪の理由だ。

事件当時48歳だった羽柴弁護士は、もう70歳になる。

——羽柴さんはなぜ、この事件に関わることになったのですか。

「兵庫県弁護士会の中に刑事弁護センターというのがありまして、私はその委員長をしていたんです。ちょうどあの年、兵庫県に当番弁護士制度ができましてね。大変な事件ですから、容疑者が逮捕されたら派遣しよう、と事前に決めていたんです。A君が逮捕された土曜日の夜は、台風が来ていたと記憶しています。

犯人が少年だと知って、これは必ず弁護士が必要になると思い、委員長だった私を含めて四人が、先発隊として須磨警察署へ行きました。ですからA君に初めて会ったのは、逮捕されたその日、6月28日の夜です」

■「エグリちゃん」という醜い女の子

——Aはどんな印象でしたか。

「普通の少年は、顔を強張らせたりして、不安な表情を見せるものですが、そういうことは当初からありませんでした。事件については認めるでもなく否定するでもなく、淡々としていました。『ちょっとこの子は、我々がいままで担当してきた少年事件の子とは違う』という認識でしたね。

当初私たちは、『本当に彼が犯人だろうか。少年一人であれだけのことができるのか』と、懐疑の念でいっぱいだったんです」

——黒ジャンパーの中年男とか、ゴミ袋を持った男とか、いろいろ目撃証言もありましたからね。

「ただ、刑事記録を全部謄写した中に、彼が淳君の遺体の頭部を鮮明に描いた絵がありました。捜査官の話によると、それほど時間をかけたわけではなく、記憶のまま一筆書きのように描いたそうです。あの絵を見たときは本当に驚きました。

それから、空想上の遊び友達だという『エグリちゃん』という醜い女の子の絵。こういうものを見るにつれ、彼の中に病的な、相当に奥の深い暗闇があることがわかってきました。7月に神戸家裁で審判が始まる時期には、彼の犯行に間違いないと思っていました」

Aが「エグリちゃん」と名付けた空想上の友達は、身長45センチぐらいの女の子。グロテスクな醜い顔で、頭から脳がはみ出て、目玉も飛び出している。エグリちゃんはお腹が空くと、自分の腕を食べてしまうという。

■両親の住居にあった盗聴器

——ご両親と家族のサポートは、最初から先生の役割と決まっていたのですか。

「二人の弟さんに教育を受けさせるために、両親ともども、どこかへ隠さなければいけませんでした。両親の担当は、最初は別の弁護士で、私がサポートしていた。しかし、『「少年A」この子を生んで……』の出版がきっかけで、彼が抜けてしまってね。あとはずっと私が担当しました」

——あの本をきっかけに抜けられたというのは、出版に反対して、ということですか。

「そう、彼は賛成していませんでした」

——ご両親の周辺には、さまざまな問題が起きましたね。

「当初は、殺到するマスコミ対策に追われました。ご両親が神戸家裁に出入りする際は、隠れていた場所から連れてきて、家裁から脱出させるまで、全部私たちでやりました。

その後、私たちが確保した両親の住居に、先回りして盗聴器が仕掛けられていたことを、警視庁の公安担当者から知らされました。私たちが必死に逃れさせた当初から、どうも組織的な尾行が行われていたようです。

ご両親の住居だけでなく、私の事務所や自宅まで盗聴されていました」

■今に至るも謎だらけの行動

Aに面会するため、両親が東京・府中の関東医療少年院に向かうときのこと。その前日、羽柴さんは事務所の電話で、京都から新幹線に乗車する両親に、指定席の座席番号を伝えていた。

両親が席に着くと、見知らぬ男がスッと近づいてきて、囁くように言ったという。

「A君のご両親ですね。お話ししたいことがあります」

どこかの記者だと思い込んだ両親は、頑なに沈黙を守って事なきを得る。しかし、姿を隠していた両親が、何駅を何時に出る新幹線の、何号車の何番に席を取っているかなど、マスコミ各社にわかるはずがない。

——この一件でも、組織的な盗聴や尾行が行われていることが明らかになりました。

「あれは印象的な出来事でしたね。A君のご両親は私の事務所で、亡くなった山下彩花さんのご両親に直接お会いして謝罪するんですが、その様子もすべて録音されていたんです。

鑑定医の研究室などから、Aの鑑定書や検面調書(注・検察官による調書)が盗まれるという事件もあった。それが大手の新聞や雑誌に流されたという話もありましたね。その狙いが何だったのか、今に至るも謎なんです」

■出版に反対した土師家と山下家

——私たちが神戸のホテルで初めてご両親にお会いしたとき、本を出版してもいいというお気持ちだったのですか。それとも、とにかく会うだけは会おうかと。

「お会いしておいて『いや、駄目です』とは、なかなかならないでしょう。私自身と両親の方向性としてはある程度、お願いしようと思っていました。私としては、被害賠償を実現するためにはどうしたらいいのかと、いろいろな学者にも相談した結果です」

——たくさんのメディアから依頼があったでしょうが、その中から文藝春秋を選んでいただいたのは、どういう理由だったのですか。森下記者のしつこさですか(笑)。

「しつこさは確かにあったでしょうけど(笑)、森下とはひとつの信頼関係というか、書かないと言った約束は守るとか、こちらを騙すことはないと思ったからでしょうか。それと、内外の少年事件をいろいろ調べて、資料をたくさんくれたことですね。今でも取ってありますけど、その中に賠償方法に関する貴重な資料があったんです。

日本では、さまざまな事件で被害弁償がきちんとなされていない実態がありますが、A君のご両親は、決められた賠償額を何としてもお支払いする気持ちでしたから」

——土師家と山下家は、出版に反対でしたね。

「当初は反対です。強烈な反対でした。とんでもないという反応……」

■1億9226万円の支払い義務

——見本の本ができたとき、森下がご両親と一緒に両家へ届けに伺ったんですが、会えませんでした。

「そんなことがありましたか。しかし、あのころの反応は、そんなに厳しいものではなかったと思いますよ。この本の印税のお支払い以外に賠償の方法は考えられない、とお伝えしていましたから、事実上お認めになっていたと思います。三家族とも、現在も受け取ってくださいますから」

——印税すなわち賠償金は、かなりの額になりましたね。

「手元にある1999(平成11)年から2007(平成19)年までの印税だけで、8120万円。そろそろ1億円近くになると思います。

土師さんへの賠償が1億420万円で、山下さんには8000万円。もう一つの示談金も入れますと、1億9226万円の支払い義務があるんですが、平成19年3月時点で、土師さんには4000万円、山下さんには3300万円お支払いすることができました。

A君が毎月送ってくるお金と、ご両親からの分もありますが、原資が一番大きいのは本の印税です。やはり本を出す以外になかったし、出すならちゃんとした本でないといけなかった。そういう意味では、出版するという判断は間違っていなかったと思っています」

■少年Aからのお金と手紙

——A君もお金を送ってきていたんですね。

「そうです。ちゃんと働いて稼いだお金の中から、なんとか工面して送ってきました。もちろん金額は微々たるもので、5000円の月もあれば1万円の月もありました。

土師さんはいまだに会っていただけませんが、山下さんには、彼が何をしているか、毎月どこからお金を送ってくるのかという情報も、可能な範囲で開示していました。手紙と一緒にお金を送ってくれば、消印でわかりますから」

手紙と一緒に——少年Aは、退院から2年たった2007(平成19)年以降、反省の気持ちを記した手紙を毎年、被害者遺族に送り続けてきた。淳君と彩花さんの命日の直前に書かれる手紙は、羽柴さんを経由して、土師さんと山下さんの遺族に手渡されたのだ。

ただし、未開封のまま届けるから、羽柴さんにも内容はわからない。読んだ遺族は、具体的な中身には触れずに、感想だけを述べる。その感想を聞いて、羽柴さんは遺族の感情の変化を推し測っていたという。

——手紙の内容は少しずつ良くなっていたようですね。

「最初のうちは形ばかりの、心のこもっていない反省文で、ご遺族の評価は低かったんです。しかし3年目くらいから、手紙の内容がずいぶん良くなった、とおっしゃっていただけるようになったんです。

とくに彩花さんの母親の山下京子さんに、『今までの手紙は無機質な感じがしたが、今回は生身の人間が書いたように感じた』『罪に向き合い償おうとする気持ちが年々強くなっていると感じた』と評価していただいた。それは嬉しかったですよ」

■裏切りの『絶歌』

——ところが、『絶歌』の出版を事前に知らされなかったため、遺族は激怒した。

「いや、もう、凄まじい怒りようでした。事前に何の連絡もなく、突然あの本が出てしまったわけですから、遺族を傷つける卑劣な行為に失望したとか、裏切りだとか、これまでの反省の手紙は何だったのかと……。本当に何も知らなかったのか、なぜ止められなかったと、私も厳しく問い詰められました。山下さんも土師さんも、彼の手紙が届くたびに感想の談話を発表してきたわけですから、ものの見事に騙されたとお感じになったんです。

実は『絶歌』事件が起きるまで、山下さんとA君の両親は年に一度、彩花さんの命日のころに、この弁護士事務所で面会する関係になっていたんです。そこに至るまでには、ずいぶん長いことかかりましたし、彼の状態も良くなっているとばかり思っていたので、本当に残念というしかない。

出しようによっては、あんなことにはならなかっただろうし、中身だって、もう少し書きようがあったんじゃないか……。やはり出版社の責任ですよ。両家とも、『絶歌』の印税は拒否しているけれども、両親の本については今でも受け取ってもらっていますから。

本当に残念です。残念至極です。あのあと、山下京子さんが亡くなられたのも大変なショックでした」

■「もう彼には関わりたくない」

元少年Aが手記を出版したと知ったとき、京子さんは、それまで届いていた手紙をすべて破棄したという。「もう彼には関わりたくない」と。そして、2017年6月、乳がんのため61歳で世を去った。

松井 清人『異端者たちが時代をつくる』プレジデント社

2016(平成28)年、2017(平成29)年と、元少年Aは手記出版後も手紙を送り続けるが、両家とも受け取りを拒否している。

——羽柴さんとしては、A君が遺族に、きちんと謝罪するところまで持っていきたかったでしょうね。

「山下京子さんは生前、A君に『一度会ってもいい』とまでおっしゃっていたんです。もちろん簡単ではないでしょうが、そこまでの気持ちになっていただいていた。その矢先の『絶歌』出版でした。あの年の彼の手紙に対する土師さんの談話でも、本当にここまでおっしゃったのかと思うくらい、高い評価をいただきました。

そこまで来ていたんですよ。残念です。突然に『絶歌』が出たせいで、長い時間をかけて築き上げてきたものが、何もかも壊れてしまったんです」

出版からかなり時間がたったころ、元少年Aの代理人から、印税の一部を賠償金に充てたいが、どうしたらいいかと、相談の電話があったという。

「自分で考えなさいよ!」

羽柴弁護士は、そう吐き捨てるように言って、電話を切った。

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松井 清人(まつい・きよんど)
文藝春秋前社長
1950年生まれ。東京教育大学アメリカ文学科卒業後、文藝春秋入社。『諸君!』『週刊文春』『文藝春秋』編集長などを経て、文藝春秋社長。2018年退任。著書に『異端者たちが時代をつくる』がある。

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(文藝春秋前社長 松井 清人)

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