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テレビCMはなぜシリーズものばかりになったか

プレジデントオンライン / 2019年8月16日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RTimages

10年を超えるような息の長いテレビCMが増えている。社会学者の鈴木洋仁氏は「炎上とコンプライアンスを恐れ、斬新な視点や論争ぶくみの刺激から逃げている。広告から見る平成は、『ダラダラしてゆるい』時代だった」と分析する――。

※本稿は、鈴木洋仁『「ことば」の平成論 天皇、広告、ITをめぐる私社会学』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■広告メディアが高く評価したサントリーのCM

月刊誌『広告批評』は昭和54年(1979)年に創刊され、平成21年(2009)年に休刊するまでの30年間、昭和から平成半ばにかけて放送されたテレビCMを中心とする数々の広告を批評してきました。本書が対象としている、平成元年(1989年)から平成20年(2008年)までの20回の『広告批評』のベストテンに選ばれたCMは、総数で208本あります。

1位の該当作がなかったり、あるいは2位や10位が複数選ばれていたりしているため、10本が20年、というわけではありません。この208本の中で、最も多く選ばれているのは、21本のサントリーです。次点がキンチョーの12本ですから、質の高さもさることながら、『広告批評』との相性が良いとも言えます。

サントリーへの高評価の理由は、どこにあるのでしょうか。もちろん、ただ単に相性が良かっただけ、とする解説もありえます。「昭和」的な、もしくは、1980年代的な、「リクツ抜き」といった語をわざわざカタカナ書きにする昭和軽薄体的なノリを、サントリーのCMがあらわしていたからだとする説明は、それなりに納得できるかもしれません。

■「アルコール消費量が増えた」では説明がつかない

あるいは、市場規模からの説明も可能です。平成7年(1995年)には、15歳以上の生産年齢人口がピークに達します。働いている人の数が、日本の歴史上、最も多くなります。すると、アルコールの消費量も増えます。市場が大きくなるからこそ、サントリーもまた新商品を作り、それに伴うCMを展開していたのだとする説明は、それなりに説得力を持ちます。

ですが、消費量とCMへの評価は比例しないばかりか、必ずしも関係があるとは言えません。確かに「平成」のあいだには、高齢化に伴い、介護や健康食品の市場が拡大しています。

とはいえ、そういった業界のCMのクオリティーが高かったり、あるいは『広告批評』が高評価したりするわけではありません。また、仮に消費量が増えているとしても、なぜ、それがサントリーのCMへの高評価につながるのかは定かではありません。ほかのビールメーカーや、清涼飲料水会社もまた、市場規模の拡大に伴い、CMへの投資を増やしている(と考える方が普通だ)からです。

ですから、ここでは、サントリーと『広告批評』の相性の「本当の」理由を探るよりも、あくまでも現象に注目します。それは、アサヒでもサッポロでもキリンでもなく、サントリーが評価され続けた時代こそ「平成」だった、という点に着目したいのです。

■ランキングの偏りが示す「平成」の時代

たとえば、「アンチドライ」の標的となっていたアサヒは、ビールも飲料も、どちらも20年間でひとつも選ばれていません。また、キリンは、平成13年(2001年)にジャニーズのTOKIOや、いかりや長介、広末涼子に「カンパイ! ラガー!」と歌わせるCMが2位になったものの、それ以外では、清涼飲料水が3本選ばれているにすぎません。

サッポロも山﨑努と豊川悦司の温泉卓球が平成12年(2000年)に1位に、その2年後には、中年男性を主人公に据えた「Love Beer?」が10位に入っていますが、合計で3本にとどまります。

21本のサントリーに対して、ほかの3社を合計しても7本だけです。これだけを見ると、サントリーが『広告批評』に偏愛されたり、えこひいきされたりしているようです。しかしながら、こうした偏りは、サントリーだけではありません。

大日本除虫菊、キンチョーは、先述の通り12本選ばれているのに対して、同業他社はゼロです。また、ナイキも8回入っているものの、これについても同じく、ほかのメーカーは選ばれていません。魔法瓶でも象印だけが選ばれ、ほかは入っていません。もちろん、魔法瓶について言えば、象印以外の会社が、あまり積極的にテレビCMを放送していない、という背景もあります。

ただ、サントリーほどではないにしても、明らかに『広告批評』という雑誌、そして、そこに集い「広告ベストテン」を選ぶ人たちとの相性の良し悪しがあります。その様子が、ランキングの、こうした偏りから見てとれます。

そして、それが「平成」という時代を特徴づけるのです。では、それは何でしょうか。『広告批評』から見る「平成」とは何でしょうか。

その特徴は、変わらなさ、です。

■13年も地球に居続ける“宇宙人ジョーンズ”

平成20年(2008年)、『広告批評』最後のベストテンにランクインしたサントリーのCMは、「宇宙人ジョーンズ 地球調査中」です。

平成18年(2006年)の初回登場時に1位になったこのCMは、今さら説明するまでもありません。トミー・リー・ジョーンズ扮する宇宙人が、地球を「この星」と呼び、調査をしている設定です。平成30年(2018年)の最新版は、忠臣蔵編が作られており、13年続いています。

続いているからには、缶コーヒーのBOSSの売り上げは好調なのだし、また、消費者からの支持も集めているのでしょう。また、ハリウッドスターのジョーンズにコメディーを演じさせる芸当は、サントリーでなければできません。

ところで、広告とは、「特定の商品の宣伝と販売という明確な意図/動機に基づいて私企業が不特定多数に向かって発信する陳述の形式」(遠藤知巳「解説」北田暁大『広告の誕生 近代メディア文化の歴史社会学』岩波現代文庫、2008年、246p)のことです。

すなわち、この「宇宙人ジョーンズ」についていえば、もはや「特定の商品の宣伝と販売という明確な意図/動機」は消えています。13年も続けていれば、日本中のかなりの数の人が、缶コーヒーのBOSSを知っています。というよりも、BOSS自体、ロングセラー商品であり、わざわざ「不特定多数に向かって発信する」必要はありません。にもかかわらず、このCMは続いています。

■目新しさがなく、ゆるゆると続いていく

広告ベストテンに選ばれ、休刊後10年を経てもなお続いているCMは、これだけではありません。

たとえば、ソフトバンクの「白戸家の人々」もまた、平成19年(2007年)以来、続いています。同年の広告ベストテンには9位、翌年の最終年には3位に入っています。白い犬扮するお父さんに、北大路欣也が声を担当しています。こういった説明が不要なほど、広く知られています。

「宇宙人ジョーンズ」同様、「白戸家の人々」もまた、同じCMを続ける必要はありません。目新しさはないどころか、逆に、惰性によるゆるみやたるみの方が目立つからです。それでもやはり、このCMは続いています。そして、この続いている背景に『広告批評』の終わりが関係しているのではないか、というのが結論です。

■作品として鑑賞し、論じる存在が消えた

「平成」の中期において、もはや「昭和」ではない、ことだけではなく、「平成」の目新しさが失われた点を、このランキングは示唆しています。

サントリーのCMが『広告批評』に高く評価され続けた「平成」とは、すなわち、「昭和」との違いにとどまらず、もはや目新しいことばを必要としなくなった時代でした。その象徴的なあらわれとして、サントリーそのもののCMが「平成」の中盤から変化を失った点をあげました。

そしてそれだけではなく、ソフトバンクの白戸家も、さらには、同業他社であるauの三太郎もまた、ゆるさをいとわず続いているところにも、その変化のなさがあらわれています。

もう、「平成」のCMは、新しさや意外性を求めてはいません。それよりも、十年一日どころか13年も続いてもなお、同じCMを流し続ける定番をこそ望んでいます。

その裏側には、『広告批評』という形で、広告を褒めたり、けなしたり、つまりは論じたりするメディアの喪失があります。広告のどこがすぐれていて、どこが足りないのか。それを作品としてとらえ、時代の空気とともに論じるメディアは、どこにもありません。

あるのは、SNSをはじめとした、多くの場合は匿名で、気楽で薄いことばを無神経に投げつける、大衆の気分だけです。

■批評することにも、されることにも耐えられない

だから広告製作者たちは、ただひたすら炎上とコンプライアンスを恐れるばかりで、斬新な視点や論争ぶくみの刺激から逃げるほかありません。男女差別に、パワハラ、セクハラ、さらには、マイノリティーへの配慮などなど、あげればきりがない、落とし穴を潰す作業に没頭します。

平成9年(1997年)に作られた「オー人事」のCMの20年を経た復活は、こうしたコンプライアンス偏重の社会をあらわしています。「働き方改革」という「美しい国」ならではのキャッチフレーズばかりが先行し、実態は伴いません。それどころか、人手不足により外国人人材を受け入れなければならないにもかかわらず、働く環境は、よくなりません。

鈴木洋仁『「ことば」の平成論 天皇、広告、ITをめぐる私社会学』(光文社新書)

それもこれもどれもが『広告批評』の不在ゆえだ、というわけでは、もちろんありません。そうではなく、「昭和」までは広告が社会を映す鏡だと信じられていて、それに対する批評もまた、社会のどこかを照らし出すと信じられていました。それゆえに『広告批評』という雑誌も同時に受け入れられてきました。広告「への」批評も、広告「からの」批評も、どちらも求められてきました。

けれども、もはや、そのいずれもが成り立ちません。もはや、「平成」の広告そのものが、薄くなり、批評に耐えられなくなり、批評しても残らなくなってしまいました。それゆえに、広告「からの」批評にもつながらなくなってしまいました。

広告「への」批評も、広告「からの」批評も、どちらも成り立たないからこそ、CMは、昔ながらの定番を続けるほかありません。その惰性の果てに、いつのまにか「平成」は、ダラダラと、ゆるいまま、終わりを告げたのです。

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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)
社会学者
1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て、東洋大学研究助手。専門は歴史社会学。著書に『「平成」論』(青弓社)、『「元号」と戦後日本』(青土社)、共著に『映像文化の社会学』(有斐閣)など。

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(社会学者 鈴木 洋仁)

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