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税金を使った美術展は「不自由」でも仕方ないか

プレジデントオンライン / 2019年8月27日 9時15分

中止となった「表現の不自由展・その後」で展示されていた「平和の少女像」 - 写真=時事通信フォト

“表現の自由”を問う企画展が中止に追い込まれた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(愛知県、開催中)。いったい何が問題だったのか。同志社大学の河島伸子教授は「『公金を使うな』との批判に応えるためには、展示の社会的意義を説得力をもって説明することが求められる」という——。

■“タブー視”されていた作品がまたも炎上

愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に含まれる企画展「表現の不自由展・その後」が、これに対する一般からの抗議と脅迫を伴う電話が殺到したことを受け、8月1日の開幕からわずか3日で中止となった。

もともとこの企画展は、2015年に「慰安婦」問題、天皇と戦争、政権批判など、公共の美術館等ではタブーと見なされがちなテーマを題材としているために展示が控えられていた美術作品を集めた「表現の不自由展」に、その後の事例作品も加え、改めて日本における言論と表現の自由がどの程度保障されているかを問う企画として同芸術祭に加えられていた。

中止の大きな理由は、電話やFAXで抗議する声があまりに激しく、観客の安全、地域商店街なども利用した会場全体の安全を確保できないというものであったが、この決定をめぐり、関係するアーティストたちから反対の声が上がり、一方で、そもそもこのような企画展があったこと、あるいはその中止を決定したことなどに対して一部の政治家が批判の声を上げ、このやり取り自体も一層論争に火を付けた。

■「表現の自由」「検閲」「公金」を整理する

さらに、ある意味この騒動の飛び火となったのだが、現代アートの祭典に関連したシンポジウムを8月18日に開催するはずだった神戸市で、その開催が中止となるという事態も起きている。こちらは、作品の内容うんぬんに関わる話ではなく、あいちトリエンナーレ2019の芸術監督を務める津田大介氏の登壇が予定されていることが、一部の政治家から問題視されたことも背景にあると言われている。このような余波が今後広がることが懸念されている。

あいちトリエンナーレは2010年から3年ごとに開かれており、毎回60万人前後の観客を集め、名古屋市の中でも衰退していた地域の活性化に一役買っている点なども注目されてきたが、このような形で全国に知れ渡ることになるとは予想もつかなかった。

今回の騒動をめぐっては愛知県が早速、有識者による検証委員会を開いており、今後は展覧会の開催から中止に至るまでの詳細、その評価が報告されていくことと思われるが、執筆時点(2019年8月18日)で、筆者が見るところ、中止決定の是非やその対処の仕方という運営の問題以外に、①表現の自由、②検閲、そして③「公金を使った美術展の在り方」などの論点があり、いずれも互いに密接な関係にあるため、話が混乱しがちである。

筆者は文化政策、アートマネジメント論を専門としている。表現の自由と検閲は憲法学者に任せ、③を中心に論じたいところであるが、これらは文化政策にとっても重要な問題である。

■今回、「検閲」行為はあったといえるのか

まず「表現の自由」は国民の基本的人権の一つとして守られ、「検閲」はこれをしてはならない、と日本国憲法に定められている。いずれも戦前・戦中を通じて、国家が情報を操作し戦争に突入して悲惨な結果を招いたことへの反省に基づいており、日本国憲法でこの2つの基本原則を堂々と宣言しているのは重要なことである。

検閲は、本来、公的権力が表現を事前に審査し、その発表の可否を決めることを指すため、今回これに当たる行為があったわけではないものの、一部の政治家が「補助金交付には精査が必要だ」と発言したり、神戸市の事例に見られるように特定の人物の発言を封じるためにシンポジウムを中止するよう働きかけたとすれば、検閲に近い行為が想起されてもおかしくない。

検閲を絶対的に禁止することは現代の国家にとって当然のように思われるが、身近なところでは中国、シンガポールにおいて今も堂々とした検閲制度がある。

前者は、国の支配体制にとって不都合なことがないかをチェックするためである。後者は、民族間の中傷などを防ぐことを主目的としているものの、それは多民族国家の安定を図るためという点でやはり支配層にとって都合よい体制維持策と見えなくもない。日本国憲法における検閲禁止規定とその精神を、私たちは改めて大事にしなければならないと思う。

■作品群は他人の権利を侵害するものであったか

「表現の自由」が憲法上全面的に保障されていることも、改めて今日の日本社会の大前提として認識すべき時期にある。もっとも、日本でも、表現の自由に一定の制限がかかることは当然である。これまでの司法判断の積み重ねとなるが、表現の自由が他人の権利・自由(例えばプライバシーが守られる権利)とぶつかる場合、どちらの方がより守られるべき利益であるか比較衡量(こうりょう)され、前者に制限がかかる可能性がある。

今回の事件では一部の人たちの価値観と相反する表現があり、その人たちの感情を害したと評価できるかもしれないが、それが表現の自由を上回るほど大きいものであったのかというと、そうは思われない。

もっと平たく言えば、極右勢力が自分たちの気に入らない表現を抑圧するため、場合によっては組織的に、あるいは個別に暴力的な脅しをもって圧力をかけたにすぎないのではないか。こうしたヘイト・スピーチとも呼ぶべきものに対し、社会として今後どのように対処していくべきか、大きな課題として改めて突き付けられた。

■「公金を使うからには……」に続く発言の違和感

さて筆者が最も気になるのは、「公金を使った限りは」という、今回の騒動に触れ頻繁に見られる言い回しである。例えば橋下徹氏の「橋下徹「津田大介さんはどこで間違ったか」」(8月7日)において、「税金を使う以上(中略)「とにかく自由に使わせろ!」という主張を許すわけにはいかない」と述べている。

最後までよく読むと、議論を呼ぶ政治的内容を含む場合には両者の立場を代表する作品を並列させる「手続き的正義」が必要だと言っている。この主張には一定の合理性があると思う。

しかし、同氏独特の過激な言い回しがちりばめられた最初から半分ぐらいまでの範囲を読む限りでは、「税金を使う以上は」政治・行政にとって不都合な表現まで許すわけにはいかない、という主張であるかのように見えた。

この筆者が恐れた主張は、実際、吉村洋文大阪府知事の次の発言(同氏のツイッター、8月5日)に見られる。「愛知県知事が実行委会長の公共イベントでしょ。(中略)愛知県が中心に主催する公共事業なんだよ。そこで慰安婦像設置や国民の象徴の天皇の写真を焼いて踏みつけるはないでしょ。」

■税金で現代アートを展示する本来の理由

ここで、税金を使った芸術文化イベントは、決して主催者である行政の政治的立場・意図などを伝える手段としてあるわけではないことを強調しておきたい。一方で、芸術文化事業に対して公的資金を支出するからには、それが公共の利益に資することを説明する義務が生じることも押さえておかなくてはならない。

芸術は(橋下氏によれば、学問なども)崇高なものだからとにかく守られなければならない、公金によるサポートは当然だ、という理屈が通らないことには賛成できる。

今回のような、特に現代アートを中心とするフェスティバルに公金を投入する理由は、「人類に普遍的価値を持つ芸術作品により人々の心を豊かにする」という公立美術館の設置目的に書いてあるようなことではない。

現代のように複雑化した社会の多様な価値観、大量に氾濫する情報の中に埋もれてしまいがちな大事な価値への気付き、といったものをアーティストがえぐり出し、社会全体に対して突き付け、議論を巻き起こすことに大きな価値と目的があるから、と考えるべきである。

もっとも、デリケートな問題もあり、目を背けたいという人の意思も尊重すべきであるから、海外ではそうした展示空間の手前に「ここから先は、人によっては不快に感じるかもしれない表現があります」という警告が掲げられていることが多く、これは適切な対処法であろう。

■あまり議論されない「私的展示とは違う規準」とは

しかしここでもう一歩踏み込むと、公金を使った場合の展示内容には、私的に行う場合とは異なる規準が求められるのだろうか、という問題が残る。これについてはこれまで国内であまり議論がされていないため、今回の一件で筆者も改めて考えさせられている。

実は1980年代後半に、アメリカでも芸術表現をめぐる大きな騒動があった。全米芸術基金(NEA)という連邦政府組織の公的助成金が、「わいせつ」(obscene)な、あるいはキリストを冒涜(ぼうとく)するような表現で不快感が持たれる、と見なされかねない美術作品の展示に使われたことをきっかけに論争が起こり、国中を10年以上にわたり揺るがせた。

この論争の中、NEAは助成金交付に当たり、上記のような表現は含まないという宣誓を文化組織、アーティストに一時義務付けていた。その後、助成審査過程やマネジメントの問題も含めたNEAの独立検証委員会が組織され、この義務は廃止となったが、結論としてNEAの助成金審査は、私的な展示とは異なる基準が必要とされるに至った。

■公的助成はアーティストのためだけではない

すなわち、助成先選定に当たっては、芸術的質の高さに重きを置くものの、わいせつな表現は表現の自由として守られるものではなく、NEAはこれを助成してはならないことになったのである。

先にobsceneを「わいせつな」ととりあえず訳したが、これは性的にみだらというだけではなく、品位を欠き不快感をもよおすような、という広い意味の言葉であるから、アメリカの芸術に大きな制限がかかったことは間違いない。

アメリカでは民間財団による助成と個人・法人の寄付が盛んであり、NEAからの助成金とは比較にならないほどの資金が芸術文化に流れることは救いである。一方、NEAの存在感、その方向性への注目度は高いため、NEAという公的基金を通じた展示では、ある種の表現を許さないと決まったことには衝撃が走った。

もっともこれは、NEAの資金はそれを直接受け取るアートだけでなく、アメリカの全ての人々のためにあるものであるという考え方に由来する。資金を受け取った者はその作品の幅広い普及に努め、少数民族や過疎地域などさまざまなコミュニティーの文化も反映していく必要があるという大きな基本方針をNEAは掲げている。

この一件で必ずしも表現規制が強まったということではないが、例えば児童ポルノ、宗教や民族的対立に基づく攻撃的な表現への助成は難しくなったと思われる。しかし、obsceneが何を指すかという解釈はいまだに明確でなく、わが国の参考になる事例といえるかどうか、筆者自身にも迷いが残る。

■社会に与える意義をもっと説明すべき

結論として私たちは今後何をすべきか。まず現代アートと呼ばれる領域は、近代までの美術とは違い、現代社会に潜む問題や多様な価値を観客に突き付けること、それを革新的な表現手法をもって行うことが多い、ということを理解しなければならない。

瀬戸内海の島と港が舞台の「瀬戸内国際芸術祭」などの地域アートフェスティバルや、現代アートを専門とする美術館(東京・六本木の森美術館、石川県の金沢21世紀美術館他)が多くの人を集めブームとなっていることには勇気付けられる一方、こうしたアートは「見る」以上の行為を鑑賞者に要求していることも多い。

しかし、鑑賞のための教育・学びの機会は、日本においてはこれまで決定的に欠けている。人々が作品との関係を構築し、深めていく過程を、アーティスト、美術館、キュレーター、エデュケーターといった専門家たちが、どのように支援できるのかは今後ますます重要になってくる。

一方、特に現代アートは、一部の変わった人たちが好き勝手に表現しているという印象を持たれることが従来あり、その印象は強まっているようにも見える。鑑賞者の心の安定に揺さぶりすらかけてくるアートの価値につき、アート関係者たちはこれまで以上に社会に伝えていかなければならない。「公金を使う限りは」、対象となる事業の「社会的」意義を、説得力をもって社会に対して説明していくことが強く求められるのである。

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河島 伸子(かわしま・のぶこ)
同志社大学経済学部教授、東京大学未来ビジョン研究センター客員教授。PhD (文化政策学、英国ウォーリック大学)
専門は文化経済学、文化政策論、アートマネジメント論、コンテンツ産業論など。著書に『コンテンツ産業論』、共著に『変貌する日本のコンテンツ産業』『イギリス映画と文化政策』『グローバル化する文化政策』『文化政策学』『アーツマネジメント』など。文化経済学会<日本>前会長、文化審議会委員、公益社団法人企業メセナ協議会理事等を務める。

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(同志社大学経済学部教授、東京大学未来ビジョン研究センター客員教授。PhD (文化政策学、英国ウォーリック大学) 河島 伸子)

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