新卒に年収1000万円を保証するくら寿司の焦り
プレジデントオンライン / 2019年9月5日 11時15分
■新卒学生だけでなく、同社の社員も募集対象
回転ずしチェーン「無添くら寿司」を運営するくら寿司が、2020年春の新卒採用で、入社1年目から年収1000万円の「幹部候補生」の募集を始めている。26歳以下でTOEIC800点以上の英語力、簿記3級以上などの条件を満たす人材を最大10人ほど採用するという。募集期間は9月30日までで、飲食業界の注目を浴びる異例の試みも、初年度は残り1カ月を切った。
くら寿司の広報担当者によると、応募総数は8月22日時点で約300人。中でも海外の大学生からの応募が非常に多く、語学力のアドバンテージを生かしたい学生が集まっているようだ。日本の大学では慶應義塾、早稲田などの有名私大が目立つが、東京大学からの応募も相当数ある。男女の内訳は「どちらかというと男性が多い」(広報)。
同社の新卒採用サイトにあるエントリーフォームを見ると、氏名・住所、大学名や保有資格などの基本情報のみを入力し、いったん送信する必要がある。これ以降の選考フローについては、それぞれの応募者に個別に案内しているという。今回の採用は、新卒学生だけでなく、同社の社員も募集対象とあって、社内外を含め競争率は高そうだ。
8月1日には、アメリカの子会社「くら寿司USA」の米ナスダック証券取引所への上場を果たしている。同社担当者は「海外での事業戦略を策定し、実践していくための人材が不足しており、中途採用だけでなく新卒の中にもそうした人材がいるのではと思い実施した」と説明している。
■年収1000万円は果たして「高い」のか
しかし、「入社1年目から年収1000万円」はそこまで騒がれるほど高額なのだろうか。例えば、すでにNECは新入社員でも1000万円以上の年収が得られるよう人事制度を改定すると発表している。IT業界だけでなく、金融業界でも1000万円は特別な数字ではない。くら寿司が注目されたのは、「飲食業界で1000万円」だからだろう。
厳しいことを言えば、この程度の収入で耳目を集めてしまうほど、飲食は生産性の低い業界だと自ら示してしまったともいえる。
飲食業界は年々人手不足が深刻化し、新入社員の採用も困難になってきている。厚生労働省の「平成30年賃金構造基本統計調査」によると、「宿泊業,飲食サービス業」は男性が275万1000円、女性が202万1000円で男女ともに低い賃金水準となっている。
最も賃金水準の高い「金融業,保険業」に従事する男性の470万4000円と比較すると、年収にしておよそ200万円の開きがある。従来と同じやり方で採用を続けていても、学生および社会全般に響かないと考えたのだろう。くら寿司としては、この幹部候補生採用で話題性を持たせることで、リクルーティング全体を優位に進めようともくろんでいるのではないか。
■海外事業の強化中に投じた「カンフル剤」
ちなみに飲食業界で最も給料が高いといわれているのが、サイゼリヤと日本マクドナルドホールディングスだ。有価証券報告書によると、直近の平均年収はサイゼリヤが615万円、日本マクドナルドホールディングスが603万円だ。一方、くら寿司の平均年収は450万円。こうした状況を鑑みれば、確かに「新卒社員で1000万円」は飲食業界では破格の条件ではあるのだろう。
安直なやり方と言えなくもないが、カンフル剤として一定の効果は見られるかもしれない。本来、飲食業界などには見向きもしなかった優秀な学生が、1年目から1000万円もらえるのなら、最初の社会経験として数年間、飲食業界に身を置いてもいいと考える可能性はある。
また今回の採用では、「グローバルで経営を担う人材」というキーワードが盛り込まれている。最近の優秀な学生は「海外」という言葉にひかれる傾向がある。「1000万円」とダブルで学生の心に響かせ、能力が高く、野心のある若者を採用しようという戦略ではないか。
海外進出は、くら寿司の悲願でもある。既に米国で24店舗、台湾に19店舗出してはいるが、本格化するには経営人材が足りていない。回転寿司のリーディングカンパニーであるスシローとくら寿司の間にはまだまだ大きな差があるが、スシローも海外展開はまだ不十分だ。そう考えると、海外展開はくら寿司がスシローに追いすがるために非常に大きな意味合いを持っているわけだ。
■異色の人材が倒産の危機を救った例も
採用手法や基準を大きく変えると、それまで採用してきた人材とはまったく違う人材が入ってくることになる。こういった「異分子」が入ることは、「化学反応」が生じることにもつながる。
ファミリーレストラン「ロイヤルホスト」などを展開するロイヤルホールディングスは、2010年に金融業出身の菊地唯夫氏を社長として招き、その後、菊地氏の手腕によって倒産の危機を免れた。それまでの外食業界の発想にはない菊地氏の斬新でロジカルな発想が同社に大きな変革をもたらした。
これまで当たり前だと思われていた慣習、カルチャーの中に、チャレンジング精神を持った異分子が入ることによって化学反応が生まれる。
企業文化が変化し、昇華したものと言えるだろう。
会社全体に対しても、「これから変わるんだ」「攻めに出るんだ」というメッセージを伝えることになるだろう。現に、今回の新卒採用で求める人物像は「問題の本質を見抜いて解決策を考える能力を持ち、すぐにでも海外で活躍したいという意欲がある強いメンタルを持った人材」(広報)としている。くら寿司の経営陣は、こうした社員を取り入れることで新たな化学反応が起きることも期待しているのではないか。
■高スキル人材を育てるノウハウはあるのか
しかし問題は、そんな優秀な人材を教育、トレーニングするノウハウや人材をくら寿司が持っているのか、ということだ。
ファミリーレストランチェーンの先駆けであるすかいらーくが70年代から大卒生を採用し始めた頃から、追随する外食企業の多くは大卒生の採用を始めた。
しかしながら、これらの企業の中には大卒の人材がほとんどいなかったために、どう育成すれば分からないという事態に陥った。大卒生を採ったのはいいが、大卒生を教育できる人材がいなかった。
それまでと違う採用形態を導入した場合、初期はどうしても混乱が起きる。くら寿司は「今回の採用で入社した新入社員に対しては、経営戦略部を中心とする社内の意思決定を行う部門を回って研修を行い、ゆくゆくは海外の店舗でも働いてもらうことを考えている」(広報)と言うが、もとより優秀な人材を、会社の成長戦略を忠実に実行する幹部に育て上げるような教育システムを準備しているのだろうか。
研修内容についても、外部にアウトソーシングすることを考えているのかは分からないが、幹部候補生の教育問題は今後の懸念材料と言えるだろう。
採用選考に当たっても、海外事業に適任な人材かどうかをどのように判断するのかという不安もある。採用の過程で人物を見極める作業においては、やはり外部の人材コンサルティング会社などの助けを必要とするのではないか。
■転職や独立の足掛かりにされない工夫を
また、そのような有能な人材がずっとくら寿司に籍を置くのかと言われれば、疑問を抱かざるを得ない。スタートが1000万円だとして、仮に給料に見合った働きを見せたとしても、そこからさらに上がる余地はどれほどあるのだろうか。先ほども述べたが、数年間の社会勉強と小遣い稼ぎを兼ねて働きながら、どこかの時点で見切りをつけて他社や他業界に転職、あるいは独立・起業するということは十分に起こりうる。
最近の若く、優秀な人材は転職や独立を念頭に置いて行動している。そのことをくら寿司は頭に入れておくべきだろう。
とはいえ、今回の「新入社員で1000万円」は、これまでの飲食業界には存在しなかった採用形態であることは間違いない。「海外勤務」ないし「海外事業」を推進するというミッションにおいてそれなりの成果が見られたら、飲食業だけでなく、人材採用難に悩む業界でくら寿司の事例にならうところも出てくることだろう。
日本特有の採用手法である「新卒採用」のパターンが変化していくきっかけにもなるかもしれない。同社は今後、随時内定者を決定していくとしており、業界初の年収1000万円の新入社員をいかに育てていくのか、しばらく注視する必要があるだろう。
※編集部註:初出時、ロイヤルホストとすかいらーくの説明について、誤解を招く表現があり、文章の一部を修正しました。(9月6日14時50分追記)
(フードアナリスト 千葉 哲幸 構成=衣谷 康)
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