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「不自由展」以外の"あいトリ"に問題はないのか

プレジデントオンライン / 2019年10月2日 19時15分

井出明『ダークツーリズム拡張 近代の再構築』(美術出版社)

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題で、文化庁が7800万円の補助金を不交付とするなど、事態が揺れている。現地を視察した観光学者の井出明氏は「たしかに問題点もあるが、『ダークツーリズム』の観点からは画期的な展示も多い」と評価する――。(第1回、全5回)

■ダークツーリズムで観るあいちトリエンナーレ

筆者は観光学を専門としており、特にその中でもダークツーリズムと呼ばれる特殊な領域を集中的に研究している。ダークツーリズムとは、戦争や災害を始めとする人類の悲劇の記憶をめぐる旅である。

今回、ダークツーリズムの観点から「あいちトリエンナーレ2019」を探訪する紀行の依頼を頂いたわけだが、これは当然のことながら展示中止となった「表現の不自由展・その後」に関する騒動が美術史における悲劇であるという観点から企画されたわけではない。

ダークツーリズムは元々、効率性重視や科学万能主義と言った近代の価値規範が限界に来ているという問題意識から生み出された新しい旅の概念であり、いわゆる近代を乗り越えようとする“ポストモダン”の思想運動と密接に関わっている。

20世紀以降の近代戦争は科学の力によって大量殺戮を伴うようになったし、人間が作り出した巨大文明が災害に遭遇することは、単に「神の意志」として語れるものではなく、前近代とは全く異なった意味合いを持つようになっている。

あいちトリエンナーレの展示では、こうしたモダンへの懐疑を有している作品が数多くあり、それは文明の中に身を置く我々の魂を揺さぶる。今回はこういった問題意識からあいちトリエンナーレを巡ってみる。

■美術館のある公園一帯は「芸術と科学の杜」というが…

名古屋は紛れもない工業都市であり、今回の芸術祭の会場の一つである豊田に至っては、企業城下町と言って良い。このような街で芸術祭を開くことは特別な意味を持っている。

まず、名古屋市美術館について考えてみよう。美術館のある白川公園一帯は「芸術と科学の杜」と位置づけられており、名古屋市科学館も同じ敷地内にあるのだが、その規模は科学館のほうが美術館よりはるかに大きい。つまり「芸術と科学の杜」といっても、現実に重点が置かれているのは科学である。

撮影=井出明
名古屋市科学館の全景。 - 撮影=井出明

ダークツーリズムは科学技術文明論も扱うため、私は名古屋市内の科学技術系博物館を複数回訪れたことがある。その中でも、名古屋市科学館は圧巻で、6階建ての建物の中には、理学系の理論的な展示から工学系の産業応用に至るまで、子供が楽しめるアトラクションが所狭しと並べられている。

しかし、同時に問題も感じた。科学技術が人類に対してどのような厄災をもたらし、また潜在的にいかに大きな危険性を有しているという点について全く言及がないのだ。これは上野の国立科学博物館も似ていて、展示の軸はあくまでも「もとより頭脳優秀な日本人が、近代以降に西洋から知識を輸入し、科学技術大国を作った」であり、そこでは原爆の悲劇や水俣病の悲惨さは語られない。

近代(モダン)の科学文明を手放しで礼賛する科学技術者に対して、あいちトリエンナーレに集められた現代アートはポストモダンの視点から批判の目を向ける。

■「産業立県」である愛知の人々に警鐘を鳴らす

たとえば名古屋市美術館で展示されている青木美紅の「1996」は、人工授精によって生まれてきた自身のアイデンティティを問い直す秀作だ。碓井ゆいによる「ガラスの中で」は、生命の神秘の中にバイオ技術が入り込みつつある現状への違和感を表現しているようだった。これらの作品が展示されている美術館の目と鼻の先の科学館には、バイオ関係を含めた生命工学を称賛する説明がある。

Photo: Ito Tetsuo
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。ジェームズ・ブライドル《ドローンの影》2019 - Photo: Ito Tetsuo

メイン会場の愛知県芸術文化センターでは、こうした「科学技術への懐疑」を扱った作品はかなりの数に上る。日本にいるとドローンという新しい技術は、空中写真を撮ったり、農薬を散布したりするために使われる民需品だと思われがちだが、世界的にはサウジアラビアの油田破壊にも使われたように、将来が嘱望される軍事技術として認識されている。

ジェームズ・ブライドルは「ドローンの影」という作品で、科学技術文明が進んでいく漠然とした不安感を表現した。ブライドルは高等教育を受けた科学者であり、高度科学技術社会が有する潜在的な危険性を大衆に得心させようとする試みは見事に成功している。これは「産業立県」である愛知の人々に警鐘を鳴らす役割を担ったともいえるだろう。

■「10万年後は安全」と言う科学者を信用すべきか

あいちトリエンナーレは核や原子力問題についても積極的に扱っている。ミリアム・カーンの「美しいブルー」は美の中に核問題への洞察がある。スチュアート・リングホルトの「原子力の時計」は10億年後の時間の概念について来訪者に思索を促している。

こうした作品は福島第一原発事故が世界のインテリ層に与えた思想的な衝撃の裏返しだろう。日本の原発問題は、たとえ福島第一原発がアンダーコントロールの状態であったとしても、本質的な危機は何一つ解決していない。原発がある限り高レベル放射性廃棄物は産み出され、その無害化には10万年が必要とされる。一般市民にとっては、10億年も10万年も「はるか彼方」であるわけで、「10万年後は安全」と言う科学者を信用すべきかどうかは、このインスタレーションが物語っている。

Photo: Ito Tetsuo
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。ウーゴ・ロンディノーネ《孤独のボキャブラリー》2016 - Photo: Ito Tetsuo

こうした作品群を見るにつけ、「名古屋市民よ覚醒せよ、愛知県民よ目覚めよ」という叫びが聞こえてくるような気がしてならない。産業社会の中で安穏と暮らす我々は、あいちトリエンナーレを通じてもう一度現代文明を問い直すべきであろう。

このような観点からみると、あいちトリエンナーレは科学技術系博物館とのコラボレーションがあれば、より意義深いものになったのではないだろうか。科学文明への畏怖を持ちつつ、それでも社会のために科学研究を進めていくにはどのような矜持を持てばよいのかという示唆を現代美術は与えてくれる。特に、名古屋市美術館と名古屋市科学館は同じ白川公園の中にあり、近接しているにもかかわらず何らの協働もなかったことは非常にもったいないように思えるのである。

■国境や国籍について考えさせる作品群の意味

ここまで科学技術の問題を中心に現代アートについて考察してきたわけだが、近代が不可避的に抱える別の問題として「国家」という論点は避けられない。17世紀半ばに結ばれたウエストファリア条約以降、人々は主権国家体制の中に組み込まれ、否が応でも「国民」となり、国境や国籍について考えるようになってしまった。近代に作られたこの主権国家という枠組みは、21世紀の今に至るまで存続している。

主権国家体制の中で、所属する国家から弾圧を受ける者は難民となり、また強国の拡大とともに新たに領土に編入された地域では同化を余儀なくされる例も多い。あいちトリエンナーレでは、この主権国家体制に翻弄される人々を表現した作品も数多くの展示がある。

前述のジェームズ・ブライドルは「継ぎ目のない移行」の中で、出入国管理のための建造物の再現映像を通して、国籍や難民の意味について考えさせようとしている。キャンディス・ブレイツの「ラヴ・ストーリー」は難民のインタビューを俳優によって再構成しようとする試みであり、個人の責任ではどうしようもないレベルで誰でも潜在的に難民となりうることを意識させる力作である。

■日系ブラジル人に支えられている東海地方の現実

展示中止になってしまったタニア・ブルゲラの「10150051」も難民を題材としており、しかも人にナンバーをふるという仕組みがナチスドイツと当時高度な情報処理を実現したIBMとの協働に由来していることから、科学技術による人権侵害を想起させるものである。科学技術先進地である名古屋において、ぜひともこの作品は見てみたかったのだが、展示中止になってしまったことは残念で仕方がない。

これら国籍や国境を意識させる作品が、愛知県で展示されることは特別な意義がある。もう少し一般化して述べると、美術作品については、実は「何を見るか」というだけでなく、「どこで見るか」ということも重要な要素となる。

愛知県は製造業が集積した都市を多く抱えているが、バブル期以降、製造業を担う労働力が不足し、国も産業界もその解決をブラジルの日系人に求めた。それ故、愛知県のブラジル人居住率は相対的に高く、全国でも3番目にランクしている。隣接する浜松市も含めれば、東海地方の工業が日系ブラジル人に支えられている現実も見えてくる。

Photo: Ito Tetsuo
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。青木美紅《1996》 2019 - Photo: Ito Tetsuo

こうした事実を鑑みたとき、国籍や民族について苦しんでいる立場から描かれた美術作品に触れることは地域における連帯を強めることになる。今回のあいちトリエンナーレでは、数多くの作品が展示中止となってしまったが、個人的にもっとも残念であったのはレジーナ・ホセ・ガリンドの「LA FIESTA #latinosinjapan」が見られなかったことである。この作品は、名古屋在住でラテンのルーツを持つ人々のパーティの様子を描いたものであったそうで、公的な芸術祭でマイノリティの日常が紹介される意味は大きかったであろうと推察される。

■国際芸術祭としては客観的にみて「成功」とはいえない

主権国家体制は19世紀の後半以降、高度化した資本主義システムの中で国家同士がしのぎを削る帝国主義の段階を迎えることになる。これ以降に起きた戦争は、専業の兵士のみが担うのではなく、一般市民も否応なく巻き込まれる総力戦となり、多くの生命が失われることに加えて、国土も人心も荒廃していく。

あいちトリエンナーレにおいて戦争を扱った作品としては、先述の「ドローンの影」に加え、こちらもドローンによる撮影技術によって戦争を考えさせようとする袁廣鳴(ユェン・グァンミン)の「日常演習」が心に刺さった。また近年の戦争においては少年兵の役割が大きくなっており、予定ではパク・チャンキョンが「チャイルド・ソルジャー」なる作品によって問題をあらわにしていたはずであるが、これも展示中止になってしまった。

帝国主義政策の下、植民地になった地域は、本国からの収奪を受けるわけであるが、バルテレミ・トグォの「アフリカ:西欧のゴミ箱」は、廃棄物が植民地に押し付けられてきたことを告発するかのようなインスタレーションとなっている。宗主国による文化財の略奪についても、クラウディア・マルティネス・ガライが「・・・でも、あなたは私のものと一緒にいられる・・・」によって表現していたようだが、こちらも展示中止になってしまった。

こうしてみると、素晴らしいコンセプトの下で集められた多くの美術作品が日の目を見ない状況となっており、国際芸術祭としては客観的に見て成功とはいいがたい。

■「俯瞰図」がないので、全体を理解するのが難しい

また注文をつけると、すべての作品が展示されていたかどうかに関わらず、ビジターが鑑賞するための「俯瞰図」を用意してほしかったと思う。筆者はダークツーリズムという視点から自分なりに作品を分類して全体を理解できるが、そうでない場合、一つひとつの作品の素晴らしさについては得心がいったとしても、あいちトリエンナーレ全体を理解するのは難しいだろう。

芸術監督の現代世界への理解が提示され、芸術祭のそれぞれの作品が群として緩やかに区分された後に、作品相互の関係性などが理解できるような補助的な工夫は欲しいところであり、展示の全体概念を理解するためのディバイスとして「俯瞰図」があれば、鑑賞者の手助けとなったと思われる。

■原因は「芸術監督の準備不足とキュレーションのミス」

今回のあいちトリエンナーレでは、「表現の不自由展・その後」の展示中止ばかりに目が行きがちであるが、問題の根はもっと深く広いところにあったのではないだろうか。

もっとも大きな議論となったのは大浦信行「遠近を抱えて」およびキム・ソギョンとキム・ウンソン「平和の少女像」の2作品についてだったが、上述したような19世紀末以降の帝国主義の拡大と植民地の苦難という文脈があれば、公的な美術展で展示できる可能性はあるはずだ。

これは、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第2回会議」の配布資料「これまでの調査からわかったこと」で、「不自由展は“情の時代”というテーマに沿ったものであり、またその規模が限定的であることにも照らし、その企画自体が不適切であったとはいえない」(21ページ)と評価されている通りである。

その一方、検証委員会コメントには「芸術監督は、少なくとも企画素案の当初からそのことの是非について、美術館長や会長and/or知事に相談すべきだった」と記されており、さらに「専門のキュレーターの見立てによると、専門キュレーターが質の高い企画をした場合には今回の4‐5倍の予算8倍の面積を要したはずとのこと」(50ページ)という記述があるように、客観的には芸術監督の準備不足とキュレーションのミスに失敗の原因が集約されるようである。

ただ、この「準備不足」という言葉で全てを済ませてしまうのは、失敗の教訓を次世代につなぐというダークツーリズムの趣旨にもとり、あまりに不十分な記憶の承継と言わざるを得ないため、観光学者の立場から少々付け足しておきたい。

■ボランティアの熱意なしに地方イベントは成り立たない

検証委員会が配布した資料からは、ボランティアの心労に対する考察が薄いように感じられる。今年の朝日新聞社の世論調査において、皇室へ親しみを持つ者は76%にも登っており、およそ日本国民の大多数が天皇を敬愛していることになる。かくいう筆者も、ルソーやマルクスを愛読するので、およそ思想的には左派に該当するはずだが、被災地支援を始めとする現在の皇族の方々のご尽力を考えると頭の下がることばかりで、自然な尊敬の念を持つ。

こういった社会状況の下で、昭和天皇の写真を焼くように見える作品は大衆の支持を受けにくく、大きな非難を浴びることになる。作家たちは覚悟があるから受け止めるであろうが、ボランティアの方々はわだかまりや逡巡を感じてしまうかもしれない。実際、多くの地方イベントはボランティアの熱意によって支えられており、彼らなくしては成立し得ない。今回、議論となった展示の検証に際し、ボランティアの心情に配慮した言説は非常に少ないように思う。これは、検証委員会も主として美術館の論理で問題をとらえ、観光イベントとして考えていないからではないだろうか。

さらに検証委員会では論点になっていないが、アートマネジメント(芸術文化活動に対するマネジメント)の観点からするとかなり危ない運営だったと思われる箇所が数点ある。

Photo: Ito Tetsuo
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。碓井ゆい「ガラスの中で」2019 - Photo: Ito Tetsuo

■直前の「ジェンダー枠」で、女性作家の評価が変わる恐れ

大型の芸術祭は、数年前からキュレーターとアーティストと交渉を始め、口約束の信頼関係で話が進んでいくことがままあるが、今回、昨年の後半あたりから突然ジェンダーの視点が入り込み、直前になってアーティストの差し替えが行われたことは監督自身が認めている(弁護士ドットコムニュース<芸大は女性が多いのに、業界は男性優位…津田大介さんがあいちトリエンナーレで「荒療治」>2019年4月3日)。

あいちトリエンナーレ実行委員会事務局 は「変更があったのはアーティスト検討段階であり、具体的な作品の発注の段階でアーティスト差し替えを行ったという事実はありません」としているが、発注を期待していた作家たちにとっては、「事実上」キャンセルされたことになり、これまで培ってきたアート界におけるあいちトリエンナーレの信用を損なうことになる。

「表現の不自由展・その後」の件で、海外の作家を中心に“検閲”と感じたアーティストは多数おり、次回からの海外アーティストの招待は難しいものになるであろうが、今回の事件がなくても直前の作家の入れ替えがあったことは知られてしまっているので、来期がどうなるかは不透明だ。

さらにジェンダー枠の設定が時間的にかなり切迫した時期であったため、「あいちトリエンナーレ参加作家」の格付けと意味付けが変容してしまった。現代アートの場合「あいトリに出た作家」「横トリ(横浜トリエンナーレ)にでた作家」などと言った業績で、作品の値決めの参考にされることがしばしばあるのだが、今回のジェンダー枠の設定はこうした評価基準を根底から壊すことになる。美術業界のギルドは非常に強固で、アートマネジメント学会で10年以上活動している私でも、いまだ核心部分にたどり着いていない。

ジェンダーへの配慮は当然必要なのだが、クオータ(割り当て)制にしてしまうと、当初から実力で参加が決まっていた女性作家が、周囲から勝手にジェンダー枠だと思われてしまい、作品の評価や価格が低下しかねない。ジェンダーを考える場合、業界の慣行やしきたりを踏まえなければ、女性アーティストに迷惑がかかることがある。こうした部分への配慮があったのかは別途検証すべきだろう。(続く)

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井出 明(いで・あきら)
観光学者
金沢大学国際基幹教育院准教授。近畿大学助教授、首都大学東京准教授、追手門学院大学教授などを経て現職。1968年長野県生まれ。京都大学経済学部卒、同大学院法学研究科修士課程修了、同大学院情報学研究科博士後期課程指導認定退学。博士(情報学)。社会情報学とダークツーリズムの手法を用いて、東日本大震災後の観光の現状と復興に関する研究を行う。著書に『ダークツーリズム拡張 近代の再構築』(美術出版社)などがある。

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(観光学者 井出 明)

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