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名車レガシィを生んだ銀行マン社長の大胆経営

プレジデントオンライン / 2020年1月15日 9時15分

1989年に発売された初代LEGACY(レガシィ) - 提供=SUBARU

スバル(SUBARU)はかつて、日産自動車とともに日本興業銀行から融資を受けていたが、日産を成長させたい興銀の意向で大幅な融資を受けられずにいた。だが、1人の社長就任でアメリカ工場建設と新車「レガシィ」の開発が動き出す。元興銀社長が断行した経営改革とは——。

※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■当時、日産と競合するような車種は開発できなかった

「それなら他社と一緒に工場をやるしかない」

1985年のプラザ合意によって急速な円高となり、各自動車メーカーは為替相場の影響を受けない現地生産に乗り出していった。

しかし、富士重工(現スバル)にとって、アメリカにひとつの自動車工場を建設するのは現実的ではなかった。

そこで冒頭のように決断したのが社長(1985年就任)の田島敏弘だった。

田島もまた興銀の副頭取から富士重工にやってきた。ただ、それまでの興銀出身者に比べると柔軟であり、かつアグレッシブなキャラクターを持っていた。

代々の興銀出身の経営者にとって富士重工は「二番目に大切な自動車会社」だった。いちばん大切なのは日本を代表する日産で、下位メーカーの富士重工は「つぶれないで、しかも、貸した金を返してくれればいい」会社だったのである。

それもあって、日産と正面から競合するような車種の開発はさせなかった。そのため、富士重工は軽自動車とレオーネでなんとか食べていくしかなかったのである。工場の建設のような大掛かりな投資は興銀出身者が許すはずもなかった。

ところが、田島は違った。当時、まだ中堅で、後に生え抜きで幹部になった人物は言う。

「田島さんは車が大好きで、革新論者でした。まったく銀行員とは思えないほど積極的な人で、僕ら生え抜きの人間には人気がありました。『スバルはこんなことではダメだ。もっと積極的にやれ』が口癖で、それまで僕らの会社は『興銀自動車部』と呼ばれたくらい、言いなりでしたが、田島さんから、がらっと変わった。いすゞと一緒にアメリカに工場を作ろうと主張したのは田島さんです」

■小型車に体を押し込めて社長自ら営業

「なんといっても、その頃は日産と提携していました。日産と一緒にやるならともかく、提携をしていないいすゞと工場建設を始めたのです。

それだけじゃない。田島さんはこれまた金のかかる新エンジンの開発にゴーサインを出しました。加えて、栃木にテストコースを作ったのも田島さんです。アメリカにあった現地資本のSOA(スバル・オブ・アメリカ)を吸収合併(1990年)したのも田島さん。世界ラリー選手権に参戦したのも田島さん……」

田島敏弘社長(提供=SUBARU)

田島は自動車屋だった。興銀で副頭取までやっていたけれど、子どもの頃から自動車が好きだったこともあって、富士重工を下位メーカーから少なくともマツダ、三菱よりも上位に持っていきたかったのである。

彼は社長室のドアをあけ放ち、「誰でもオレのところに来い」といった態度だった。それまで社長が乗る専用車は日産のプレジデントを使っていたが、田島は怒った。

「社長が他社の車に乗るのはおかしなことだ」と一喝。

プレジデントよりも小さなレオーネを社長車にした。大企業の社長がレオーネのような小型車に乗って経団連ビルに入っていくのは当時、珍しいというか、場違いな行動とも思われたが、それでも田島にとってはそんなことは何でもなかったのである。

レオーネの小さな車体に体を押し込めて、「オレはこの車を作っている」と仲間の経営者に営業することもいとわなかった。

ただ、そういう様子を見ていた出身行の興銀幹部たちの目は冷ややかなものだった。

「田島はあそこまで頑張らなくともいいのに」

興銀にとってはつぶれては困るけれど、だからといって、富士重工が日産のシェアを食うような会社になるのもわずらわしい。地道に、それまで通りの経営をして、貸した金の利息と元本さえきちんと返してくれればそれでよかったのである。

■念願の新エンジン開発にゴーサインが出た

田島が社長になってから会社は活性化した。社員にとってはアメリカ進出も嬉しかったし、栃木のテストコースも望んでいたものだった。

だが、当時の若手社員に聞くと、「ほんとに嬉(うれ)しかったのは新エンジンの開発」と答えた。しかも、そう答えたのはひとりではない。

当時、入社したばかりのある技術者は新エンジンの開発にゴーサインが出たことについて、こう証言した。

「レオーネは新車でしたけれど、エンジンはスバル1000をボアアップしたもの。10年以上も使ってきて、すでに限界でした。出力は出ないし、燃費も悪い。僕らはずっと『新しいエンジンを作りたい』と上層部に懇願してきたのです。そして、レオーネをフルモデルチェンジして、新車を出すならばこれはもうエンジンを変えるしかない、と。それでやっと決断してくださったのが田島社長でした」

ボアアップという改修の手法はエンジンのシリンダーボア(内径)を大きくしたり、シリンダー(気筒)の数を増やして出力を上げることだ。

■「中島飛行機」の技術力が落ちていくのを見かねた

だが、何度も繰り返しやる改修方法ではない。しかも、ボアアップしている間、格上のライバル、トヨタ、日産、ホンダは次々と新エンジンを開発し、モデルチェンジし、新車開発で富士重工に差をつけていく。

「エンジンは中島飛行機以来、うちが得意とする」と自負する技術者たちにとって、新しいエンジンは何があっても手にしたいもの、喉から手が出るほど欲しいものだった。

また、車体の性能向上も新エンジンの採用がなければ効果は少ない。業界で上を目指すのならば、どこかで決断しなければならないことだった。

「よし、やれ」

大きな投資が続いていることはむろんわかっていたが、田島はゴーサインを出した。車が好きで、車を研究していたからだけでなく、彼は現場を歩いていて、技術陣の力が落ちていくことを見かねたのだった。

■新車レガシィの開発、4.3キロのテストコースも整備

1987年、日産とすでに提携していた富士重工はいすゞとも業務提携し、インディアナ州ラフィエット市のとうもろこし畑のなかに年産24万台の自動車工場を建設することにした。

新会社の名前はSIA(スバル・いすゞ・オートモーティブ・インク)。スバルの名前が先になっているのは出資比率が富士重工51パーセント、いすゞ49パーセントだったからだ。そして、のちのち、1パーセントでも多く出していたことが有利に働く。なお、投資額は約800億円。とても単独で出せるような金額ではなかった。

一方、生え抜き社員たちが期待した社長の田島はこの時期、アメリカでの工場建設以外にも次々と大きな投資を指示していた。

レガシィという新車の開発および新エンジンの開発、栃木県安蘇郡葛生(くずう)町に全長4300メートルの本格的なテストコースを作ること、軽自動車の排気量が360cc、550ccから660ccに拡大されたことを踏まえて軽自動車用新エンジンの開発、そして、フラッグシップカーの開発企画だった。

いずれも前社長、佐々木定道の時代に検討が始まっていたものだったが、すべて「やれ」と決定したのは田島だった。

■リーズナブルだが、発売のタイミングが悪かった

1980年代後半、日本はバブルへ向けて、徐々に景気がよくなっていく。富士重工だけでなく、日本企業は大きな投資計画を打ち上げ、同時に大学卒社員を大量採用した。当然、初任給も高くなる。富士重工もまた人員を増やしたために、コストも上がっていった。

1989年1月、今も続く同社の看板車種、レガシィがリリースされた。

それまでの車よりも大きな排気量を持ち、しかも、内容の割にはリーズナブルな価格の製品だったこともあり、日本市場、そして、アメリカ市場にも受け入れられていった。

ただし、時期がよかったかと言えば、そうではなかった。レガシィが発売された時期はバブルの最中である。

レガシィは排気量もアップした上級車種だったが、浮かれていた世の中の人々にとっては「地味なクルマ」と映ったのである。

■国産「3」ナンバーだけでなく、ベンツ、BMWも売れた

当時、世の中の話題となり、人々があこがれた車はレガシィより一年前の1989年1月に出た500万円以上もする高級車、日産シーマだった。

日銀の支店長会議の席上で、同行したエコノミストは日本人の豊かさを象徴する車、および当時のハイソサエティ的な消費行動を「シーマ現象」と名づけたくらいだ。

また、シーマだけでなく、トヨタのソアラ、ホンダのプレリュードなどが「ハイソカー」と呼ばれ、この3車種をはじめとする3ナンバーの車に人気が集まった。

1989年、税制改正があり、3ナンバー車もとびきり高い税金を払わなくてよくなり、以前よりも格段に売れるようになったのである。

そして、ベンツ、BMWといった外国車はそれまでは富裕層が買う「高級外車」とされていたが、どちらも小さなサイズのそれが飛ぶように売れたこともあり、ベンツ、BMWの小型車は「赤坂のサニー」「六本木のカローラ」という呼び名が付いたのである。

なんといっても1990年、ロールス・ロイスの全生産台数のうち、約3分の1が日本で売れている。

そんな時代だったこともあり、真面目で堅実で質朴なレガシィは順調な売れ行きではあったものの、大衆にとってのイメージは四輪駆動の車、マニアが買う車といったものにとどまった。

思えば富士重工はレガシィしかなかった。トヨタならばソアラだけでなく、クラウンもカローラもランドクルーザーもある。どれかが売れなくとも、必ず売れている車種がある。しかし、軽自動車を除くとレガシィしかない富士重工はそれが売れなければやっていけなかったのである。

■大半のディーラーがレガシィを店頭に並べていない

1989年にはSIAの工場が完成し、アメリカで作られたレガシィがマーケットに出た。輸入車ではないから、為替の影響は受けない。リリース時からアメリカのユーザーが買うような価格に設定することができた。

「これでやっと苦境から脱することができる」とアメリカにいた富士重工の担当者は小躍りしたが、売れるはずの新車レガシィの数字がなかなか上向きになっていかない。

おかしいと思って営業担当はアメリカ国内のディーラーを100社回り、販売実態調査を行った。

すると、大半のディーラーでは、米国製レガシィを店頭に並べていなかった。販売スペースにあったのは日本から輸入して時間が経ったレオーネであり、新車のレガシィは人目に付かないところに隠して置いてあった。

「どういうことなんだ」

日本から来た営業担当は、あるディーラーを経営する中年のアメリカ人に向かって、声を荒らげた。すると、アメリカ人の答えはふるっていたのである。

「いや、ここでレガシィを並べたら、在庫になっているレオーネがますます売れなくなる。まず、レオーネを売ってから、レガシィを売ろうって思ってるのさ」

■過剰在庫は自動車会社の生死にかかわる

アメリカの自動車ディーラーは日本のように専売店が主ではない。フォードやトヨタを売っているディーラーが隣接した敷地でスバルやマツダを売ることが多い。

そして、並べてある車は金を出せばその場で乗って帰ることができる。どこの会社の車であれ、売れる商品を持ってくる仕入れの力がディーラーの経営を左右する。

「レオーネより、出したばかりのレガシィを売ってくれないか」と頼んでも、「まずは在庫を片付けてからだ」と一蹴されてしまえば交渉する余地もないのである。

日本のように自動車会社からの指示がそのまま通用することはない。こうして、米国製にもかかわらず、新車レガシィの在庫は積みあがっていった。

ついには8万台もの車がSIAの工場敷地に並んだまま出荷を待つ事態にまでなってしまったのである。

車は外に置いておけば雨が降り、泥をかぶる。雨滴がレンズ効果となり、塗装も傷む。8万台をメンテナンスしながら、販売するのはコストもかかるし、大変な手間だ。長く置けば置くほど値引きもしなくてはならない。自動車の過剰在庫は自動車会社にとっては生死にかかわる問題だ。

■「自動車運搬船が沈めば保険金が入る」

そして、さらに事態は悪化した。在庫車がずらっと並ぶ写真が自動車業界の専門紙『オートモーティブニュース』の1面に載ってしまったのである。そうなるとまず悪評が立つ。

買おうとしていた客はさらに値引きを要求するし、販売店は引き取りを嫌がるようになってくる。アメリカ駐在の富士重工社員にとって、アメリカ工場で作った新車レガシィは経営の足を引っ張る存在になってしまった。

富士重工のある担当者は「このまま売れなかったらどうしよう」と心配したあまり、眠れなくなり、毎晩、夜中になると日本からの自動車運搬船が沈む夢を見るようになった。それは彼にとって強い願望だった。なぜなら「船が沈めば保険金が入る」からだ。

それくらい、アメリカのSIAは在庫に悩んでいた。

■レガシィを発売した年は296億円の大幅赤字に

1986年度の同社の売り上げは7157億円。営業利益は111億円。翌1987年度の売り上げは6634億円で、利益は26億円。

同じ時期、業界トップのトヨタのそれは6兆3048億円で営業利益は3293億円。同じく翌1987年度の売り上げは6兆249億円で、利益は2500億円。

プラザ合意以降の円高の影響で、自動車業界はどの社も苦しんだのだが、その後、トヨタ、日産などのトップ企業はバブル景気に合わせて高級車、スペシャルティカーを出して、売り上げ、利益を増やしていった。

一方、富士重工は1989年にレガシィが出るまでは1971年に初代が出たレオーネで戦わざるを得ず、販売が伸びていくわけもなかった。

国内ではレガシィの発売でやや業績は良くなったが、肝心のアメリカ市場が前述のようにふるわず、販売台数は急減した。レガシィを出した1989年、富士重工はついに296億円の大幅赤字となってしまう。

販売台数も前年度から8万8000台、減っている。その年の同社の国内生産台数は50万7000台。

トヨタのように四百数十万台の車を作っている会社ならばともかく、59万台が50万台になってしまうのはダメージとして大きい。社員が会社の存亡に危機を感じる数字と言えた。

■アメリカ市場での成功を夢見ていたが…

しかし、それでも社長の田島は強気だった。

「この赤字は一過性のものと考えている。来期は回復し、黒字に転換できる。新車開発にも通常以上の投資をしており、その効果も出てくる」

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

アメリカでの工場建設、新エンジンの開発など、大きな投資はすぐに効果が出るわけではない。

しかも、誰もが予想しなかった円高の進展という環境の悪化もあった。運が悪いと言えば悪い。

しかし、どちらの決断も誰かがやらなければならないものだった。長い目で見ると、同社の車がアメリカマーケットで売れていく環境を整備したのは田島だったのである。

2010年以降、同社が成長するための骨格作りをした男だったが、田島は成長を見ていない。

彼は1995年に亡くなっている。生きている間、自分がやったことが成果をあげたのを見ることはなかったし、また正当な評価を受けることもなかったのである。

そして、田島の次に富士重工の社長を務めることになったのが、日産ディーゼル工業で社長をしていた川合勇という男だった。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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