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倒産の危機にあったスバルを救った「レガシィ」の奇跡

プレジデントオンライン / 2020年2月10日 9時15分

提供=SUBARU

スバル(SUBARU)は看板車「レガシィ」の発売当時、巨額の投資をつぎ込んだことから赤字が膨れ上がり、創業以来の危機を迎えていた。だがその後、売り上げを4年間で800億円増やし、V字回復に成功する。スバルにいったい何が起きたのか――。

※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■次期社長に就任したのは日産OBだった

創業以来の赤字に震えたのは社内だけではなかった。

「貸した金はどうなるのか」ともっとも心配したのが興銀だった。自分のところから出した社長の田島が赤字にした以上、次は大株主の日産から人材を引っ張ってこなければならない。当時、富士重工の経営トップに生え抜きの人間はありえなかった。基本は興銀、それがダメだったら、提携先で大株主の日産出身者と決まっていた。

当時、興銀の頭取、中村金夫が動いた。

「こうなったら、日産から川合さんをもらってくるしかない」

中村は日産ディーゼル工業の社長だった川合勇のもとを訪れ「富士重工の社長になってくれ」と懇請したのである。当時、川合はすでに六八歳で、日産ディーゼルを退いたら、あとは隠居するつもりだった。

東大を出て日産に入社した川合は生産技術一筋で、追浜、栃木、九州、イギリスの工場建設に携わった。エンジニアとしてスタートしたのだが、途中からは日産の営業担当役員や経理担当もやった。生産現場のエキスパートで、しかも、営業と数字に強いというスーパーマンのような男だったのである。

実際、日産時代、上にいたワンマン社長の石原俊(たかし)は川合と久米豊のふたりを後継者として考えていたのだが、最終的に、石原は久米を選んだ。そのため八五年、日産自動車の専務から業績が悪化していたトラック会社、日産ディーゼルに出されたのである。しかし、川合は奮い立った。わずかな期間で同社を立て直し、黒字会社に変えた。興銀の中村は川合の手腕を噂に聞いていて、「再建屋」としての川合に富士重工を託したのである。

■「“中島飛行機”に残った技術者はまさにスバルの原点だ」

川合が社長に就任した理由としては、興銀の頭取に頭を下げられたこともある。だが、彼自身も富士重工の前身、中島飛行機に思い入れがあった。それは学生時代の体験である。東京帝大航工学部空学科在学中に学徒動員された彼は後にプリンス自動車となる中島飛行機荻窪工場で飛行機エンジンの開発に携わり、戦後もそこで働いたことがあった。

提供=SUBARU

川合は経済誌のインタビューでこう語っている。

「苦境にあって航空技術者たちの大半は離散してしまった。焼け野原のなかで毎日食べるのに精一杯で、自分の夢にこだわり続けられるような状況ではなかったんだね。僕は終戦翌年に日産に入ったんだけど、巨大企業集団の、それも民生分野に近い企業でさえ明日のこともわからないくらいだったしね。でも、その中であえて(中島飛行機系企業に)とどまった技術者たちがいた。まさにスバルの原点です」

中島飛行機の技術者を尊敬していたこともあり、川合は社長就任を了承する。田島は会長で残ったものの、実際に経営を指揮するのは川合と決まった。

続いて、こうも語っている。

「中島飛行機の技術者たちが戦後、ひどい状況にあっても耐え抜くことができたのは、技術力への自負があったからだと思う。戦争中に『誉(ほまれ)』エンジンを作っていたとき、当時のエース級の技術者は言っていましたよ。『航空工学はもう欧米をキャッチアップしている。日本に足りなかったのは高分子化学や精密な加工ができる工作機械、電気工学など、裾野の分野だ。この戦争ではアメリカの凄さを見せつけられているが、自分たちだってやれないことはないんだ』」

川合は不思議な因縁を感じていたのだろうし、戦後の焼け野原から立ち直った富士重工を苦境のままにしておくことは忍びなかったのだろう。

■徹底したのは「入るを量り出ずるを制す」

社長になってから彼はすぐ、社内に檄を飛ばした。

管理職以上を新宿スバルビルに近いホテルセンチュリーハイアットに集め、厳しい顔で現実を直視せよと机を叩いて言った。

「すべての判断基準は現状認識にある。富士重工がどういう状態にあるのか。ひとりひとりが何が事実で問題なのかを認識し合うところから適切な解決策が生まれます。表面だけを見ても、事実はつかめない。すべての面で現状認識の姿勢が必要だ」

川合の言う現状認識とは自動車製造の基本を徹底することだった。

「いい品をなるべく安く作る」

そのためには原価の管理と原価の低減が必要だ。彼は現場を歩き、原価管理を怠っていた管理職を大声で叱責した。

川合を尊敬する生え抜き社員は次のように思い出す。

「川合さんは偉かった。人員整理はしなかった。資産の売却もしなかった。その代わり、徹底的に『入るを量り出ずるを制す』政策を取った。じつは、うちの会社は技術優先だったこともあり、現場の原価をわかる人間が幹部にいなかった。原価低減というと、協力会社に電話をかけて『安くしろ』と値段を叩くだけだった。部品原価は安くなるのですが、製品の質は落ちる。川合さんは図面にある部品が適格かどうか、その値段がまっとうかどうかまでひと目でわかる経営者でした」

■幹部には「辞表を書け」でも作業者には礼を尽くす

川合が導入したのがVA、つまり、バリューアナリシスのシステムだった。品質を落とさずに原価を低減し、それを管理するシステムである。メーカーであれば、自動車会社ならば、当然、あるべきシステムなのだが、富士重工は前身の中島飛行機以来、新車開発には惜しみなく金をつぎ込む体質だったため、いつの間にか開発費用が増えてしまっていた。それを川合は怒った。

同じく富士重工のエンジニアは言う。

「川合さんは社長室に閉じこもるのではなく、会社やディーラーなど、あらゆる場所に姿を見せて陣頭指揮を取るタイプの社長でした。何しろ、現場からの叩き上げみたいな人だから、ひとりで工場に出かけていって質問する。テストコースに来て試作車にも乗る。そして技術者に『スイッチ類の隙間がこんなに広かったら、女性はどうする? 爪が割れてしまうじゃないか』と指摘して怒る。

富士重工のエンジニアは、いい車を作ることは考えていたけれど、ユーザーが欲しいものは何か、何を喜ぶかということについては無頓着でした。それを徹底的に叩き直されました」

また、ある幹部は「あの人でうちの会社は変わった」と言っている。

「現場のことをわかっていない幹部や管理職はバカ呼ばわりですよ。そのうえ『こんなことをやっていたから赤字になったんだ』と怒鳴られ、『この場で辞表を書け』ですよ。役員会でも一度、ありました。辞表を書け、と怒鳴って、そのまま会議室を出て行っちゃいました。あとで会長の田島さんが連れ戻しましたけれどね。でも、それほど猛烈で怖い人だったのに、現場の作業者や販売店の人には礼を尽くして、腰が低い。とても人気がある人でした。ディーラーのセールスマンを売る気にさせるのが上手でした」

■「ふざけるな、席を変えろ」と怒鳴った

川合は販売の第一線では怒鳴ることはなかった。にこにこと話しかけ、自分から頭を下げて、相手のやる気を引き出したのである。ディーラーの社長たちと顔を合わせるパーティが開かれた時、会場を下見した川合は血相を変えて怒鳴った。

「オレは上座じゃないか。ふざけるな、席を変えろ」

従来、富士重工の社長はディーラーの社長よりも上座に座るのが通例だった。だが、川合は入り口近くの末席に自分の席を持ってきたうえで、担当の人間を呼び、今度は静かに説いた。

「いいか。ディーラーの方々はお客さまだ。お客さまがいちばんいい席に座るのが当たり前だ」

そうして、彼はディーラーの社長たちの心をつかみ、全国の店舗を回った時もディーラーの従業員ひとりひとりに声をかけ、「何か問題はないか」と問いかけた。たとえば「こうしてほしい」と要望があったとする。川合はその場で本社の担当に電話をかけ、その場で答えるようにした。

前任の田島が自動車好きだったとはいえ、興銀出身の社長はそこまではしない。川合は自動車会社の人間の心理や体質をよく知る男だったのである。

■バブルで世の中が浮かれる中、憂鬱な状況だった

川合が販売の人間のモチベーションを引き出したことで、レガシィは好調に推移した。発売当初から目標台数を突破することができた。ただ、問題はあった。目標台数は売っていたにもかかわらず、収益には貢献していなかった。つまり、売れても利益にならない新車だったのである。

原因は開発費用が高コストになってしまう構造だったことにある。川合が原価低減を唱えても、すでに開発に投じていた費用が多額だったのである。また、発売してすぐのころは車両に不具合が起こる。手直しするには対策費がかかる。そして、不具合が続けば次第に、ユーザーから支持されなくなり、結果的に売れなくなってしまう。同社の社史には悲痛な調子でこう書いてある。

「課題は明白だった。再建を果たすためには、目前のレガシィの出血を止め、これを断ち切らないといけない。そこでまず、レガシィの品質向上とコスト構造の見直し、加えて不具合の撲滅を、収益向上に向けてのターゲットとした」

一九九〇年、世の中がバブルで浮かれていた時、富士重工の社員は憂鬱な状況のなかにいた。高級車が売れていた業界大手とはまったく違う世界にいたと言っていい。

■二代目レガシィのクレームが初代の5分の1に激減

新車のレガシィが売れないわけではなかったのだから、利益を出すには構造改革しかない。原価を低減し、生産性を向上する。トヨタであれば「トヨタ生産方式」という生産性向上の文化があるから、売れ行きが落ちても利益がなくなることはない。富士重工の人間だって原価低減、生産性向上という言葉は知っていたけれど、カイゼンをやり続けるという体質ではなかった。川合は自ら先頭に立って、徹底的な認識と実行を部下に命令、強要したのである。

まず、手を付けたのは品質の向上である。開発したクルマを量産する場合、ひとつの部品の不具合が他の部品に影響を与える。

「量産しても品質を維持できる部品を使う」
「ラインのなかで品質を作り込む」
「検査過程で不具合のあるものはすべて出荷しない」

品質の向上とは基本的なことを守ることにある。川合は生産現場に行って、チェックした。幹部と会議をするだけでは、品質向上の文化ができるとは考えなかったからだ。こうして、川合が目を光らせたため、初代レガシィのクレームは三年後には半減し、二代目レガシィではクレームが初代の時の五分の一にまで減った。その分、対策費がかからなくなり、コストが低減できたのである。

■「いい車だからこれくらいのコストは仕方ない」を排除した

次に手を付けたのは設計段階の原価低減だった。

一九九〇年の秋に社内に自動車部門経営対策会議というものができた。同社はバス、産業機械、飛行機部門を持っていたから、自動車部門と名前はついていたが、実質的には売り上げの過半を占める乗用車のコストを抑えるための対策会議である。マイナーチェンジを控えたレガシィだけでなく、軽自動車のレックス660(新規格車)、さらにはバンタイプのサンバー660も含めた、全車種の開発、量産コストを安くすることが目的だった。

川合は席上で、何度も「VAの徹底」を唱えた。

「品質を落とさず、部品を作る。協力会社を泣かすな。知恵を使ってコストを抑制しろ」

知恵とはつまり、部品の共通化、設計の仕様や材料の見直しだ。そして、協力会社の社員にもVAの提案をつのった。

「いい車だからこれくらいのコストは仕方ないじゃないか」という考え方を排除したのである。

その後のVAの歩みは次のようになっている。

①九一年からは購買本部が中心となってSPS(スバル・プロダクション・システム)活動を始めた。また、原価企画部が開発車を対象にMCI(ミニマム・コスト・インベスティゲーション)活動を開始する。前者は協力企業の生産性向上を支援する活動であり、後者は特定の部品を対象にコストを最小にしようという活動だ。
②九四年からはSCI(サイマル・コスト・イノベーション)活動が始まった。前述のMCIとSPSを包括し、さらに全体のVAをすすめていくコスト低減を進化させた社内運動である。

■涙を流しながら悲壮な覚悟で訴えた

必死の活動を行った結果、この時期以降、富士重工の量産車は必ず利益が出る形で市場にリリースされていくようになった。それまでは要するに、「これだけ使わないと新技術の車はできないんだ」という開発陣の主張が通っていたのである。

だが、危機のなかにいると、人は態度を変えざるを得ない。開発陣の声は小さくなり、一方で、社内の他の部署からはコストの低減に関して多くの提案があった。提案が通り、設備投資、試験研究費、経費などにも適用されていった。社員の意識は徐々に変わり、「コストを抑えて利益を出す」ことを考える文化が生み出されていった。

一方、川合は足踏みせず、ますます改革を進めていく。九一年から本社の管理職をディーラーに出し、車を売らせた。それまでも一般社員がディーラーでセールスをしたことはあった。だが、川合は「管理職にも販売現場に出てもらう」と決めたのである。

悲壮な覚悟でスピーチをし、彼は管理職を送り出している。実際に涙を流しながら、彼は声を振り絞った。

「無理に出向をお願いするが、みなさんだけに汗水を流してもらうという考えはまったくありません。残った人たちも大変になるだろうし、役員も、ついては私も出向しなくてはという気持ちでいることを理解してほしい」

自動車業界では本社の部長、課長が販売店に行って、セールスを行うなんてことは前代未聞のことだった。業界他社の幹部は「考えられないし、うちでは絶対できない」と首を振った。もし、同業他社で同じことをしたならば、管理職は拒否するか、もしくはやめてしまっただろう。

■「636億円の経常赤字」から4年でV字回復

川合がやったことは生産現場、販売、事務の人間に至るまでの意識改革である。

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

「技術の中島飛行機、富士重工という意識ではいけない。お客さまを見て金を儲けることを考えろ」

彼が繰り返し教えたのはそういうことだった。

猛烈な改革が始まって四年が経ち、ようやく結果が出た。

九四年には年間販売台数が過去最高の三五万七六〇五台となる。売り上げは八三〇〇億円、営業利益が一三二億円で経常利益で二八億円。川合が死に物狂いで社内を督促した結果、ようやく黒字に転換することができた。なんといっても四年前の九〇年には経常利益がマイナス六三六億円だった会社だ(売り上げは七五〇〇億円)。

四年間で売り上げが八〇〇億円も増えるなんてことは、一種の奇跡だ。結局、企業の成長は経営者にかかっている。自分の任期の間、前年度より少しでも売り上げが伸びていればいいと思っているサラリーマン経営者では、立て直しなどできない。

他人にも自分にも厳しい川合が怒号を飛ばし、社内を引き締め、休みの日も朝から晩まで働かなければ会社は伸びていかない。ただし、川合は社内にも社外にも敵を作った。それが後に彼を不幸な立場に追い込んでいく。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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