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自立の道を歩んだ末、タニタへ

プレジデントオンライン / 2020年2月10日 11時15分

タニタの生産拠点、秋田工場。マザー工場として健康をつくるための主な商品品が、ここから生まれてくる。 - 写真=タニタ提供

体重計や体組成計などの健康計測機器を手がけ、長年「健康をはかる」企業として知られてきたタニタ。しかし、近年は「健康をつくる」分野へと事業領域を拡大している。この変革を担ったのが、創業家三代目の谷田千里社長だ。彼の後継者としての才覚はいつどこで育まれたのか──。社長就任までの軌跡をたどった。(第1回/全2回)

■タニタとの関わりを避けていた子供時代

——まずはタニタと谷田家の歩みをお聞かせください。

【谷田】タニタは、私の祖父である谷田五八士(いわじ)が1944年に設立しました。ライター、トースターなどのOEMから体重計製造販売で業績を伸ばし、87年には五八士の四男だった父・谷田大輔が後を継ぎました。父はその後20年以上にわたって社長を務め、この間にOEMからの脱却、体脂肪計や体組成計の自社開発、海外進出など、さまざまな成長戦略を成功に導いています。

私は4人きょうだいの次男で、上に兄、下に弟、妹がいます。父から事業を承継したのは2008年のことで、創業家三代目の社長に当たります。今でこそ、自分の経営姿勢に谷田家のDNAを感じるようになりましたが、子どもの頃は家業について意識しておらず、「お鉢が回ってくる」という気持ちもありませんでした。

——幼少期から高校時代にかけては、家業に対してどんな印象をお持ちだったのでしょうか。

【谷田】幼い頃から、おぼろげながら「谷田家は会社を経営しているんだな」と理解していました。とはいえ、当時社長だった祖父からは、会社の話を聞いた記憶はありません。タニタに関する最初の思い出は、小学生の頃でしょうか。商品について父とよく話していたことを覚えています。

父が家に持ち帰ってくる開発中の商品を見ては、自分なりにあれこれ意見を言っていました。4人きょうだいのうち、そんなことをするのは私だけだったそうです。今思うと、仕事で忙しい父が自分の話を熱心に聞いてくれること、商品を通してコミュニケーションをとれることがうれしかったのかもしれません。

当時は、ただ楽しくてそうしていたのですが、後にタニタに入社してから「あれは仕事をしていたんだな」と気づきました。今の自分が商品企画に強いと自負するのも、小学生の頃から商品に対して意見をしていたから。私の意見が実際に反映されたわけではありませんが、企画の良しあしを判断する力はこの頃に養われたのではないかと思っています。仕事に関する私の原体験と言えるでしょう。

おそらく父には、今で言う「職育」のようなつもりはなく、ただ小学生の意見が新鮮に聞こえたのだと思います。商品に意見するとなると、大人はどうしても忖度(そんたく)や先入観が入りがちですから、それが一切ない意見は貴重だったんでしょう。でも、父とそんなやりとりをしながらも、当時の私にはタニタやその経営に関わる気はありませんでした。

——なぜ関わる気になれなかったのでしょうか。

【谷田】一度、家族イベントか何かで会社に行ったことがあるのですが、創業家の息子ということで丁重すぎる扱いを受けたのです。自分と同じようなお子さんをもつ大人が自分に頭を下げるのが嫌で、以降は社内イベントへの参加も、社員に会うことも避けるようにしていました。

もう少し成長すると、ファミリービジネスの承継は親族間の争いのもとだという話も聞くようになり、争わないためにも自分はタニタに入るまいと思うようになっていました。それでも、父とはずっと商品の話はしていましたし、高校時代にはタニタのホームページの改善案を(もちろん父に請われたため)渡したりもしていましたね。

そんな形で、父を通して会社に関わりながらも、心の中では「早く自立したい」「タニタ以外で働いて食べていけるようになりたい」と思い続けていました。そこで、自活への最短ルートとして、高校を卒業したら調理師を目指そうと決心したのです。

写真=タニタ提供
谷田社長が持つ調理師や栄養士の資格が、「タニタ食堂」「タニタカフェ」などの運営を検討するうえで役立つこともあるという。 - 写真=タニタ提供

■自立を目指してひたすら模索し続けた

——高校卒業後は調理師学校へ進まれたわけですが、ご家族は反対されなかったのでしょうか。

【谷田】父は反対しましたが、私はこうと決めたら人の意見は聞かない性格なので(笑)。しかし、調理師免許はとったものの、椎間板ヘルニアを発症してしまい、その道は諦めることになりました。病気をしていなかったら、今頃はきっとシェフをしていると思います。実は、免許をとってすぐ、祖母から「どこにお店を出したいの?」と聞かれたんですよ。

谷田家に生まれたというだけで、いきなりオーナーシェフになるチャンスが訪れたわけですが、そこは冷静に実力を判断し「いや、もう少し他の店で修行してから……」と断わりました。あそこで祖母の話に乗っていたら、今の私はなかったでしょう。ただ、調理師として学んだことは、その後のレシピ本やタニタ食堂の事業展開に生かされることになりました。

——経営者としては異色の経歴をお持ちですね。調理師を諦めた後は佐賀短期大学(現西九州大学)で家庭科の教員免許と栄養士資格をとり、さらに佐賀大学理工学部で化学を学ばれています。この間に、家業への思いに変化はあったのでしょうか。

【谷田】いえ、ありませんでした。学生時代の私の主軸はあくまでも「自立」。調理師で自立できなかったので、次に家庭科教諭か栄養士になろうと考えました。大学へ編入したのも短大卒よりも良い条件の就職ができることと、短大の勧めがあったことから4大卒になろうとしたのです。その際、理工学部を進んだのは、短大で取得した単位を振り替えることができたからです。

この頃になると、父も「千里はタニタ以外で働いて食べていくんだろうな」と思うようになっていたらしく、たびたびの進路変更にも反対はありませんでした。

——しかし、調理師や家庭科教諭、栄養士を目指して学んだことは、すべて現在の事業に生かされていますね。

【谷田】タニタから離れるために進んだ道が、結局はすべてタニタにつながったので、人生は不思議なものだと思います。小学生の頃から何となく意識し続けてきた「タニタ以外で働くんだ」という思いは、紆余(うよ)曲折の学生時代を送った後、一般企業に就職してようやくかなえることができました。

ところが、それはゴールではなくスタートラインにすぎませんでした。働き始めてすぐ、自分がビジネスパーソンとしてどれほど未熟か、嫌というほど思い知らされたのです。

■父に請われタニタ入社を決断

——2社目の就職先、船井総合研究所では特に多くのことを学ばれたそうですね。

【谷田】最初はコンサルタントとしてはもちろん、社会人としてもまったく“使えない社員”でした。先輩からは、身だしなみから企画書作成まですべてにダメ出しされていましたね。カッコいいと思って選んだスーツは「顧客に会う服装ではない」、時間をかけて仕上げた企画書は「日本語がおかしい」、揚げ句は週1冊本を読めと言われて感想を述べたら「読み込みが浅い」。もう全否定ですよ(笑)。

ショックでしたが、何も言い返せませんでした。先輩の指摘は全部正しかったからです。この先成功するためには、ダメな自分をまずビジネスパーソンとしてのスタートラインに立てるよう成長させなければならない。そう考えた時、こんなチャンスはそうそうないと思いました。ビジネスのマナーからスキルまで全部教えてくれるわけですから。感謝こそすれ辞めるなどという選択肢は浮かびませんでした。

写真=タニタ提供
世界初の乗るだけで体脂肪率がはかれる体内脂肪計に続き、世界初の家庭用脂肪計付ヘルスメーターを1994年に発売。先行したこの市場にやがて競合が登場、激戦区となっていった。 - 写真=タニタ提供

——そこで鍛えられて飛躍的に成長されたのですね。先代も「頼もしくなったな」と思われたのではないでしょうか。

【谷田】経営コンサルタントとして経営者の方々とお話しする機会も多くなり、やがて帰省した際に父から経営上のアドバイスを求められるようになりました。反論もせず、私のアドバイスを聞いていましたので、入社してくれたら助かると思うようになったのかもしれません。当時の父と私の共通の話題と言えば、一番は「経営」でしたから、自然とそうした話が中心になっただけなのです。これは、小学生の頃に商品の話をしていた時と同じかもしれませんね。

それから数年後、突然父から「事業を手伝ってくれないか」と切り出されたのです。ちょうど経営コンサルタントとして波に乗ってきたところで、いずれは先輩のように活躍したいという野心もあったので、かなり悩みました。辞めたくない気持ちが強かったのですが、迷った末、最終的には「これも親孝行かな」と思ってタニタへの入社を決めたのです。

——タニタ以外でビジネススキルを磨いた立場から見て、入社後の印象はいかがでしたか。

【谷田】私の最初の仕事は、戦略室という経営改善・企画を練る部門でした。それまで経営コンサルタントとしてバリバリ仕事をしていたので、どうしても効率の悪さや生産性の低さばかりが気になってしまって、そこを正そうとあれこれ率直に言いすぎた結果、社内で大きな反発を招いてしまいました。

写真=タニタ提供
人心掌握の大切さを学んだタニタアメリカ時代。現地のオフィスで。 - 写真=タニタ提供

■アメリカで得た「気づき」が現在の糧に

——具体的にはどんな意見を言われたのですか。また、反発はどう乗り越えられたのでしょう。

【谷田】タニタは体脂肪計で特許をとっていましたから、仕事ぶりが生ぬるくても市場トップの座を守れるわけです。私の目には、皆がそこにあぐらをかいているように映りました。それまで経営コンサルタントとして関わってきた、絶えず成長を目指す企業とはまるで基準が違う。私はタニタもそうすべきだ、意識を変えようと言って回ったんですが、皆にはただの苦言に聞こえたでしょうね。

当時の私は、社員の意欲を上げることや、人心をつかむことなんてまるで気にしていませんでした。「理論的に正しいことに反対する人はいない」と思っており、誰が相手でも直言を繰り返しましたから反発を招くのは当たり前。やがて、反発の声は父の耳にも届くようになりました。

それをどう乗り越えたかと言うと、乗り越えていないんです。父にアメリカ行きを命じられましたから。建前は「グローバルビジネスを学んでこい」ということでしたが、本音は社内の反発を治めるためだったと思います。行きたくありませんでしたが、辞令なので従わざるを得ません。仕方なく、アメリカで1年間語学研修を受けて英語力をつけてからという条件で、タニタアメリカへの赴任を受諾しました。

——海外ビジネスの現場を体験したことで、どんな気づきを得られましたか。

【谷田】最も大きかったのは、人心掌握の大切さを知ったことです。それまでの私は、人を動かそうと思ったら理詰めでロジカルに説得するのが一番だと思い込んでいました。私自身がそうでないと納得しない性格でしたし、前職では周りも皆同じだったので、人間とはそういうものだと思っていたんです。人を動かすのに、感情や心が入る余地はないと。

しかし、当時のタニタアメリカの社長は、私と同じロジカルタイプにもかかわらず、アフター5の付き合いをとても大事にしていました。仕事にはいつも真摯(しんし)に取り組んでいて、私はとても尊敬していたのですが、付き合いの部分に関しては「よく遊ぶ人だな」くらいにしか思っていませんでした。

私はそうした社外での付き合いをまったくしていなかったもので、ある時彼から「飲みに行くのも仕事のうちだぞ」と怒られましてね。それまで遊びだと思っていたことが、仕事の一環だったと知って大きなショックを受けました。言われてみると、彼は顧客や部下と飲みに行って信頼関係を築くことで、実際に業績を上げているんですよ。

これ以降、私の意識は大きく変わりました。それまで理詰めの説得に勝るものはないと思い込んでいたのが、逆に感情や心こそが人を動かすのだと気づいたのです。まさにコペルニクス的転回でした。人を動かせなければ業績は上がらない、人を動かすにはまず心をつかまねばならない──。この気づきは、経営者になった今も私の大事な指針になっています。

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谷田 千里(たにだ・せんり)
タニタ 代表取締役社長
1972年、大阪府生まれ。佐賀大学理工学部卒業後に船井総合研究所などを経て、2001年タニタ入社。05年タニタアメリカINC取締役、07年タニタ取締役を経て、08年より現職。レシピ本のヒットで話題となった社員食堂のメニューを提供する「タニタ食堂」や、企業や自治体の健康づくりを支援する「タニタ健康プログラム」などの事業を展開し、タニタを健康総合企業へと変貌させた。近年は働き方改革にも取り組み、希望社員を雇用契約から業務委託契約に転換する「日本活性化プロジェクト」を開始。編著に『タニタの働き方革命』(日本経済新聞出版社刊)がある。

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(タニタ 代表取締役社長 谷田 千里 構成=辻村 洋子 撮影=小川 聡)

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