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歴史に名を遺した女王5人に学ぶ、ビジネスと人生で勝つために大切な事とは

プレジデントオンライン / 2020年2月24日 11時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/GeorgiosArt)

世界の経済発展に女性活躍が欠かせないのは自明の理。女性にその潜在能力があることは、歴史を振り返ってもわかります。今回は圧倒的なリーダーシップで、自国の経済発展に寄与した女王たちをご紹介。現代の女性活躍につながるヒントを見つけていきましょう。

■見た目だけじゃない! クレオパトラのスゴイ腕前

クレオパトラ(クレオパトラ7世。BC69~30)は、エジプト・プトレマイオス朝の最後の女王(在位BC51~30)です。その美貌ばかりが取り沙汰されますが、統治の手腕は見事だったそうです。内政的には官僚組織をしっかりとコントロールし、外交面では地中海世界の多言語を流暢に使いこなす語学能力の高さと美貌で、カエサルやアントニウスを魅了し、王国維持に必要な強国ローマの後ろ盾を得ました。さらには経済面では、通貨価値の切り下げ政策を実行し、エジプト経済を支えていた輸出を大いに促進させたようです。牛乳風呂や毒蛇に身を咬ませて自殺した話ばかりが有名ですが、かなり有能な人物だったみたいですね。

■稲作農耕発展の立役者は卑弥呼

卑弥呼(生年不明。没年242~248)は、弥生時代末期にあったとされる、邪馬台国の女王でした。『魏志倭人伝』によると、邪馬台国は約30の国々からなる倭国連合の都でした。当時の日本は稲作農耕が定着し、生産力が向上したせいで人口が増えて新田開発が求められた結果、土地をめぐるトラブルが多発し、いさかいが絶えませんでした。そこで倭国連合の首長たちは、邪馬台国の支配者・卑弥呼を、連合全体の女王として擁立したのです。

なぜ彼女に白羽の矢が立ったのか? それは彼女が巫女(シャーマン)だったからです。農業に必要なのは自然のコントロール。つまり古代の農業国にとって、神に祈りを捧げる祭事は、政(まつりごと)そのものだったのです。

卑弥呼の経済的な貢献は、2つの点から稲作農耕を発展させたことです。1つは、絶対的なシャーマンとして倭国連合のいさかいをなくした点、そしてもう1つは、中国との外交を重視した点です。

『魏志倭人伝』で「親魏倭王」と呼ばれた卑弥呼は、中国・魏との外交を重視しました。なぜならこの時代、青銅器や鉄器の原材料は、大陸からしか得られなかったからです。

この外交重視のおかげで、この時代は農具の鉄器化が進みます。つまり卑弥呼は、いさかいをなくしただけでなく、生産技術の向上にも貢献した女王だったのです。卑弥呼のおかげで稲作農耕が栄えたなんて、すごいですよね。

■世界の大英帝国のベースを築いたエリザベス1世

エリザベス1世(1533~1603)は、小国イングランドを「世界の大英帝国」にまで発展させた、偉大な女王です。

16世紀、イングランドをわがものにしようと、諸外国が彼女との政略結婚を目論む中、彼女はきっぱり言い放ちました。「私はイングランドと結婚した」。彼女はその後、国内の宗教対立を抑えて国家の分断を防ぎ、さらにはスペインの無敵艦隊を破って、世界の覇権を勝ち取ります。さらにはその後、大胆な商業保護政策を推進するために「東インド会社」を設立し、貿易の発展と植民地の拡大に大きく貢献しました。その後のイギリスの発展は、エリザベス1世のつくった下地なしには語れないのです。

■啓蒙活動にも力を注いだエカチェリーナ2世

エカチェリーナ2世(1729~1796)は、ロシア帝国の女帝です。神聖ローマ帝国領邦君主(ドイツ内の地方国家の君主)の娘だった彼女は、ロシア皇太子ピョートル3世と結婚しますが、情緒が未熟で感情の起伏が激しいピョートル3世は、皇帝即位後もロシア正教会や貴族と対立ばかり起こします。王周辺では次第に、知的で教養深く努力家(ロシア語も完全にマスター)の“エカチェリーナ待望論”が出始め、ついに彼女に忠誠を誓う近衛軍のクーデターで、ピョートル3世は幽閉・暗殺され、彼女が即位します。

「私の仕事は専制君主であること。そして神様の仕事は、そんな私を許すこと」。こんな言葉が残っているほど権力志向の強い彼女でしたが、その権力志向は圧政よりもむしろロシアの近代化のためのリーダーシップに向けられました。彼女は西欧諸国の近代化を範とし、絵画・音楽・文学の発展を促しつつ、自由経済の促進や宗教的寛容、教育施設の充実などに力を注ぎました。特に絵画のコレクションは、今日のエルミタージュ美術館の基礎となり、教育では女性のための学校・スモーリヌィ女学院を設立し、社交界にデビューできる貴婦人養成をめざしました。彼女はその働きから“啓蒙専制君主”と呼ばれます。

愛人を多数抱え、彼らに“寵臣(ちょうしん)”という公的な地位を与えた女帝にも、こんな側面があったのですね。

■西太后は国の行く手を塞ぐ反面教師

ここまでは、自国の経済発展に寄与した女王たちについて書いてきました。しかし世界史には、発展の邪魔ばかりする反面教師的な女帝もいました。西太后(せいたいこう)(1835~1908)です。

正確にいうと西太后は、女帝ではなく皇太后(先代皇帝の皇后)です。しかし彼女は、実に50年以上、中国最後の王朝・清(しん)の最高権力者として君臨します。

彼女は夫・咸豊帝(かんぽうてい)の没後、皇位継承したわずか5歳の息子・同治帝(どうちてい)の摂政となり、同治帝死後は妹の子でわずか4歳の光緒帝(こうしょてい)の摂政となります。当時の清はアロー戦争(第二次アヘン戦争)に負けたばかりだったので、国力アップのため、当初は官僚たちの進める洋務運動(近代化のため西洋技術だけを取り入れる運動)を支持します。しかし伝統的な京劇や建築・美術の大好きな彼女は、なんと海軍費用を横流しして皇族用保養地を大々的に整備し、そのせいで弱体化した清海軍は、日清戦争に敗れてしまいます。

このままではまずいと、今度は官僚たちが政治体制そのものから西洋化する「戊戌(ぼじゅつ)の変法(へんぽう)」をめざしますが、西太后は猛反発し、クーデターを起こして光緒帝を幽閉し、改革派を弾圧します。この頃から排外的になった彼女は、義和団事件(排外主義的民衆団体・義和団が日独の外交官などを殺害した事件)を支持し、諸外国に宣戦布告します。しかしあっけなく敗れ、その後彼女は清朝延命のため、ようやく西洋文明の導入に努めました。

ただ、“中国三大悪女(呂后(りょこう)・則天武后(そくてんぶこう)・西太后(せいたいこう))”の一人とまで言われた西太后ですが、近年再評価が進んでおり、最近では残忍なエピソードの大半(帝の寵愛を受けていた麗姫の手足を切断して甕の中で生かし続けた、光緒帝の側室を生きたまま井戸に投げ込んで殺した、光緒帝を毒殺した、など)は捏造であるといわれています。

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蔭山 克秀(かげやま・かつひで)
代々木ゼミナール公民科講師
「現代社会」「政治・経済」「倫理」を指導。3科目のすべての授業が「代ゼミサテライン(衛星放送授業)として全国に配信。日常生活にまで落とし込んだ会社のおもしろさで人気。『経済学の名著50冊が1冊でざっと学べる』(KADOKAWA)、『マンガみたいにすらすら読める経済史入門』(大和書房)など経済史や経済学説に関する著書多数。

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(代々木ゼミナール公民科講師 蔭山 克秀 写真=iStock.com)

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