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なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか

プレジデントオンライン / 2020年4月1日 9時15分

1940年6月、ドイツに占領されたパリ。ナチスのハーケンクロイツ旗が凱旋門の上に翻った(1940年6月 フランス・パリ) - 写真=dpa/時事通信フォト

第1次大戦では4年経っても倒せなかったフランスを、ナチス・ドイツは1カ月ほどで攻略した。現代史家の大木毅氏は「グデーリアン装甲部隊の進撃はめざましかった。あまりの急進ぶりに、軍首脳部が何かの間違いではないかと疑ったほどだった」という――。

※本稿は、大木毅『戦車将軍 グデーリアン』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■ダンケルクの停止命令が発出された理由

このダンケルクの停止命令は、第2次世界大戦史の重大な転回点だったとされている。それによって、連合軍、とりわけイギリス軍に致命傷を与えるチャンスが失われたのだ。かかる不条理な命令を発したのは、ヒトラーだったとされている。

そのこと自体は間違いではない。が、ヒトラー決定以前から、クライスト、クルーゲ、ルントシュテットらが、グデーリアン以下の放胆な突進に不安を覚え、足踏みしたがっていたことも指摘しておかねばならない。

5月23日、クライスト装甲集団司令官は、麾下部隊が消耗し、分散していることを懸念すると、A軍集団司令部に報告した。

あらゆる快速部隊を指揮下に入れていたクルーゲ第4軍司令官も、そうした不安を共有していたから、快速部隊をいったん停止させ、後続部隊との間隔を詰めるべきだと意見具申する。

ルントシュテットA軍集団司令官も、この進言を容れ、25日の攻撃再開に備えて、クライストとホートの両装甲集団は現在地点にとどまるべしと下命した。つまり、24日の停止命令より前、23日に、諸自動車化軍団は足踏みさせられていたのだ。

■停止命令は“あらためて”出されたもの

けれども、連合軍撃滅のチャンスが到来していると判断したブラウヒッチュ陸軍総司令官とハルダー陸軍参謀総長は、A軍集団の消極的な措置に怒り、全装甲部隊を握っているクルーゲの第4軍をB軍集団麾下に移す旨の命令を発した。

むろん、より攻撃的なB軍集団に突進を続けさせる企図である。

5月24日朝、ヒトラーが、シャルルヴィルにあったA軍集団司令所を訪れたときの情勢は、このようなものであった。

ルントシュテットから、A軍集団が第4軍を奪われ、脇役に追いやられたことを聞かされたヒトラーは、自分のあずかり知らぬところで、かかる重大決定がなされたことに激怒し、ブラウヒッチュの命令は無効であるとした。

その上で、あらためて装甲部隊を停止させると決定したのである。

はたして、ヒトラーを、かくのごとき誤断にみちびいた動機は何だったのだろうか?

■ヒトラーを誤断させた8つの動機

1940年の西方侵攻作戦について、今なおスタンダードとされている研究書『電撃戦という幻』(1995年初版刊行)を著したドイツの軍事史家カール=ハインツ・フリーザーは、ダンケルク撤退直後から立てられたさまざまな説をもとに、考えられる理由を以下のように列挙している。

①ダンケルク周辺の地表は装甲部隊の行動に適さないと判断した(24日から雨が降りはじめ、地面が泥濘と化した)。
②以後、フランス全土を占領する作戦のため、装甲部隊を温存すべきだと考えた。
③連合軍による側背部への攻撃を恐れ、装甲部隊を控置しておいた。
④攻勢第2段階に関心が移っており、ダンケルク攻略は副次的な作戦であるとみなした。
⑤包囲した敵の規模を過小評価し、さほど重要ではないと思っていた。
⑥海上撤退作戦などは不可能であると考えた。

フリーザーによれば、この①から⑥は必ずしも強固な論拠を持つものではなく、反駁可能である。

重要なのは、⑦空軍力だけでダンケルクの敵を撃滅できるとしたドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(1938年2月4日進級)の大言壮語を信じたとする説と、⑧イギリスを講和にみちびくため、その面子をつぶすことを恐れて、遠征軍殲滅を避けたとする説であろう。

■自己の権力を強調するため?

フリーザーは、⑦については、ゲーリングの発言は23日のことで、ヒトラーの決定に影響力をおよぼした可能性はあるものの、当時ドイツ空軍がかなりの消耗を被っていたことを考えれば(当然、総統の耳にも入っている)、決定的な要因となったとは考えにくいとした。

⑧に関しても、時系列に沿って検討してみると、ヒトラーが、講和のために手加減したと取れるような発言をしたのは、ダンケルク撤退の成功があきらかになってからのことであり、いわば失態をとりつくろう意味があったと退けている。

かかる議論の末に、フリーザーが到達したのは、装甲部隊のダンケルク突入に熱心だったOKHに、誰が主人であるかを見せつけるために、ヒトラーはルントシュテットらに同調した、つまり、自己の権力を強調するために停止命令を出したとする説だ。

この⑦と⑧、そしてフリーザー説に示されている要因のどれかが決定的だったのかもしれないし、あるいは、そのすべてが複合的にヒトラーの心理に作用していた可能性もあろう。

■孤立無援の連合国軍、大規模脱出を決行

いずれにせよ、英国の守護天使が授けたかとさえ思われるような好機が、看過されるわけはなかった。王立海軍は、商船216隻、スクーツ(喫水の浅い木製船)40隻、海軍艦艇139隻、さらに数百の漁船や小舟艇、全体で900隻以上をかき集め、「ダイナモ」作戦を発動した。

その目的は、包囲されたイギリス遠征軍とフランス軍ほかの連合軍の一部部隊を海路救出することだ。

風前の灯火だった連合軍部隊が脱出していくのを、グデーリアンとその装甲部隊は指をくわえて見ているほかなかった。こうして助け出されたイギリス軍将兵は、重装備こそ失っていたとはいえ、英陸軍再建の土台になっていく。

ドイツ軍に訪れた千載一遇の機会は空費されてしまったのである。

■ダンケルク占領で西方侵攻作戦は結着

5月26日、ルントシュテットより状況の変化についての説明を受けたヒトラーは、ようやく停止命令を撤回した。翌27日午前8時、攻撃が再開されたものの、袋の鼠であったはずの連合軍諸部隊は、ダンケルクのほころびから逃れだしていた。

6月1日、ドイツ軍はダンケルク総攻撃を実施し、4日朝には同市を制圧した。彼らが見たものは、おびただしい数の遺棄された装備や物資であった。イギリス陸軍の中核をなす、訓練され、経験を積んだ将兵は、海峡のかなたに去っていたのだ。

ともあれ、ダンケルク占領によって、西方侵攻作戦は結着がついた。ドイツ装甲部隊が築いた回廊の南には、なお相当数のフランス軍部隊があり、ソンムとエーヌの両河川に拠って抵抗の準備を整えてはいる。

だが、主力を撃滅されたフランス軍が66個師団しか有していなかったのに対し、ドイツ軍は104個師団(ほかに予備として19個師団を控置)を投入することが可能だったのである。

■赤号作戦(仏本土侵攻)と「グデーリアン装甲集団」の誕生

従って、フランスにとどめを刺すための攻勢、「赤号」作戦(6月5日発動)は、ワンサイド・ゲームの様相を呈することになった。

これに先立つ5月28日、グデーリアンは、あらたな装甲集団を編合し、「赤号」作戦に参加するよう、ヒトラーから命じられる。「グデーリアン装甲集団」の誕生であった。

6月1日にグデーリアンを司令官として発足した、この新装甲集団は2個自動車化軍団を麾下に置いていた。それぞれ二個装甲師団および1個自動車化歩兵師団を有する第39・第41自動車化軍団である。

A軍集団麾下第12軍の指揮下に置かれたグデーリアン装甲集団は、南に向かって突進するように命じられた。スダン南方からスイス国境にかけて展開しているフランス軍の背後に回りこみ、これを包囲することが目的だった。

大木毅『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』(KADOKAWA)
大木毅『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』(KADOKAWA)

6月9日、攻勢を発動したグデーリアン装甲集団の進撃はめざましく、たちまちブザンソンを攻略、およそ一週間後の17日にはもうスイス国境に達していた。あまりの急進ぶりに、軍首脳部が何かの間違いではないかと疑ったほどだった。

「ポンタルリエでスイス国境に着いたと報告すると、ヒトラーは『貴官の報告は誤りで、ポンタイエ・シュル・ソーヌ〔東部フランスの町〕に到達したということだろう』と反問してきた。すぐに『ミスではありません。小官は今、スイス国境のポンタルリエにおります』と回答する。それで、疑り深いOKWも納得した」(『電撃戦』)。

■大国フランスを1ヵ月で降伏させる

一方、独仏国境に展開していたドイツC軍集団もマジノ線攻撃を敢行、突破に成功し、6月19日にグデーリアン装甲集団と手をつなぐ。約50万のフランス軍が包囲されたのだ。

この間、6月14日には、無防備都市宣言を出した首都パリにドイツ軍が入城しており、フランス国民の士気は地に落ちていた。6月22日、パリ近郊コンピエーニュの森で独仏の休戦協定が調印される。

ドイツは、第1次世界大戦で4年余の時を費やして、ついに打倒することができなかった大国フランスを、今度は一か月ほどで降したのである。

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大木 毅(おおき・たけし)
現代史家
1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、著述業。著書に、『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書、2019)、『ドイツ軍事史』(作品社、2016)ほか。訳書にエヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修。白水社、2018─)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社、2018)、フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳。中央公論新社、2003)ほかがある。

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(現代史家 大木 毅)

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