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江戸の人々が「エジプト産ミイラ」を薬として珍重していたワケ

プレジデントオンライン / 2020年4月2日 15時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/KriveArt)

江戸時代は鎖国していたというが、実際にはオランダや中国などを通じてさまざまな輸入品が手に入った。中でも“万能薬”として重宝されていたのが「ミイラ」だ。歴史研究家の河合敦氏は「江戸時代の人々はけがや病気を治す薬としてミイラを食べていた」という――。

※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■鎖国中の江戸時代に輸入雑貨屋が存在した

江戸時代は鎖国していたというが、長崎におけるオランダや中国(明→清)、釜山における朝鮮とは、かなりの大規模な交易をしている。だから、さまざまな舶来品が国内に流れ込んできており、お金さえ出せばそれらを手に入れることができた。

なんと、唐物屋といわれる、いわゆる輸入雑貨屋も存在したのである。『摂津名所図絵』(寛政八~十年・一七九六~九八)には、大坂の唐物屋の店内が描かれている。それを見ると、西洋の椅子やワイングラス、中国製の壺、孔雀の羽などが所狭しと並んでいるし、客寄せのためエレキテル(オランダの医療器具)の実験がおこなわれている。

また、寛政の三美人など美人画で有名な喜多川歌麿には「俗ニ云(いう)ばくれん」と題した作品がある。その女性は、袖をまくり上げて二の腕をあらわにし、左手でむんずと蟹を手づかみにし、右手でワイングラスを持って酒を飲んでいる。そんな姿が描かれるほど、舶来品のグラスは一般的なものだったのである。

そうした輸入品の中で、大きな話題になったのが、享保十三年(一七二八)に将軍吉宗が輸入した動物だ。そう、象である。吉宗は海外の動植物にとても興味を持っており、これ以前にもオランダからアラビア種の馬を輸入、南部馬と掛けあわせて体格の向上をはかっている。

■天皇に見せるため象に「従四位」の官位

吉宗は中国人の呉子明に白い象を所望したが、それが手に入らなかったようで、呉はベトナムから普通(灰色)の象のつがいを連れてきた。このときベトナム人の象使いも同行。ただ、長崎に上陸した牝象(五歳)のほうは舌のできものが悪化して死んでしまった。翌年三月、牡象(七歳)は長崎を発(た)った。途中の京都で中御門天皇が、どうしても象を見たいと希望した。ただ象は畜生で穢れた存在。宮中に入れることはできないので、なんと朝廷は、この象に従四位を叙したという(異説あり)。

大名でいえば、城持ち大名に匹敵する地位だ。こうして四月二十八日、象は天皇に拝謁。続いて霊元上皇、さらに貴族たちも見学した。このおり象は、前足をたたんで挨拶したり、みかんの皮を鼻でうまくむいて食べるなど芸を見せたと伝えられる。

この頃、江戸の町は騒然となっていた。象がやってくるという噂が広がったからだ。そして翌五月、六郷川を舟橋(舟を繋ぎ、板を渡して臨時につくった橋)で渡った象が江戸府内に入ってきた。

■糞を薬にし、死後の骨まで有料展示していた

江戸っ子は珍獣を一目見ようと、その周囲に群がった。それ以前から象を題材とした錦にしき絵や人形、双六などが飛ぶように売れ、『象志』、『馴象編』といった本まで続々と出版された。いわゆる象フィーバーが起こったのである。

さて、江戸城内で将軍吉宗は象と対面した。残念ながら、そのときの感想は残っていないが、その後、大名や奥女中の見物も許された。それからの象は、浜御殿(現在の浜離宮)で飼育されることになった。ただ、大食いなので飼育代に莫大な費用がかかり、吉宗も飽きてしまったようで、民間に払い下げられることになった。

結果、中野村の農民源助らが面倒を見ることになったのだが、源助らは商魂たくましく、象の糞を麻疹・疱瘡の薬だと売りさばき、さらに象を見世物にして拝観料を取ったとされる。さらに象が死んだあとも、その頭蓋骨や牙を「象骨」と称し、湯島天神などで展示して金を徴収したのだった。まさに骨までしゃぶられたわけだ。

■江戸人は薬としてミイラを食べていた

江戸時代の珍しい輸入品としてミイラがある。関西大学の宮下三郎教授によれば、寛文十三年(一六七三)、オランダ船が約六十体のエジプトのミイラを持ち込んで売り払った記録が残っているという。記録に残っていないものを含めたら、江戸時代に相当多くのミイラが日本に入ってきたのは間違いない。

二〇一九年十一月から二〇二〇年二月にかけて国立科学博物館で特別展「ミイラ」が開催されたが、わずか三カ月足らずで三十万人を突破する人気である。これまで何度もミイラ展が開かれていることからも、ミイラが日本人に人気だとわかる。

ただ、江戸時代にミイラが輸入されたのは、展示して見物させることが目的ではない。なんと食べるためだったのである。ミイラを買い取ったのは薬屋や医師たち。そう、ミイラは薬として珍重されていたのである。では、いったいどんな病気に効き目があるのか?

貝原益軒の『大和本草』(宝永六年・一七〇九)は、日本内外の千三百六十二種の動植物・鉱物の効能などをまとめた大著だが、その中に木乃伊の項目がある。そこには、次のように記されている。

「打ち身や骨折箇所に塗る。虚弱や貧血に桐の実の大きさに丸めたミイラの丸薬を一日一、二度ほどお湯で服用する。産後の出血、刀傷、吐血、下血のさいに服用する。気疲れ、胸痛、痰(たん)があるときは、酒や湯と一緒に飲む。しゃくり胸痛も同様。虫歯には患部の穴に蜜を加えてミイラをつける。頭痛、めまいは湯とともに服用。毒虫や獣に咬まれたときは粉末にして油を加えて塗る。妊婦が転んで気を失ったときは、ミイラを火で炙って、そのにおいをかがせるとよい。痘疹が出たときは、身体を温めてから服用する。食あたりはお湯で、二日酔いは冷水で服す」

いかがであろうか、ミイラが万能薬だったことがわかるだろう。

■防腐剤に「天然の抗生物質」が使われていた

「そんな馬鹿な」と思うだろうが、薬効があるのは確かである。エジプトのミイラには腐敗を防ぐために防腐剤が塗られているが、その主成分はプロポリス。そうミツバチの巣からほんのわずかしか採取できない有機物質で、最高の健康食品として高価な値段で売られている。

プロポリスは、テルペノイド、フラボノイド、アルテピリンなどで構成され「天然の抗生物質」と呼ばれ、抗菌作用が強く、滋養強壮に効くとともに、ピロリ菌を抑えるので、確かに胃腸炎には効果があるはず。迷信ではなく、本当に病気に効いたからこそ、江戸時代の人びとはミイラを輸入したのである。

ちなみに当時の人びとは、ミイラが人間の死体だと知っていて服用したのだろうか。じつは、知っていたのである。ただし、なぜ人間がこのような乾燥状態になるのかについてはよくわかっていなかったようだ。『大和本草』では、諸説を紹介している。

たとえば、砂漠を往来していて悪い風のために人びとは砂の中でとろけてミイラになるという説。けれど著者の益軒は、この説を否定し、「罪人ヲトラヘテ薬ニテムシ焼」きにしたのがミイラだと考えている。まったく見当はずれだが、なかなかユニークだ。

ちなみに我が国にも東北地方を中心に即身仏の風習があり、アジアでも中国西部や中央アジアを中心に各地にミイラ信仰が残っている。

■人魚や河童のミイラが作られていたワケ

さて、江戸時代はミイラを輸入したが、じつは日本からもミイラを輸出しているのである。しかもそのミイラは、人間ではなかった。人魚や河童、鬼、龍といった化け物や妖怪のミイラなのだ。

河合敦 『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)
河合敦『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)

もちろん、そんな妖怪のミイラが実在するはずもなく、本物ではなくつくり物だった。たとえば、人魚のミイラなどは、猿や猫の頭と鮭や鯉の尾をくっつけ、手をつくって精巧に作成されている。

ちなみに日本の人魚は、西洋のそれと違って首から下が魚なので、とてもグロテスク。しかも女性より男のほうが多いのが特徴だ。もともとは輸出品ではなく、両国などに林立していた見世物小屋に展示するために職人たちによって創作されたものだといわれる。妖怪のミイラをつくる職人集団がいたのだ。現在でも各地の寺社に少なからず保管されているのは、必要なくなったあと、さすがに廃棄するのには忍びなく、奉納したからだろう。旧家が所蔵しているのは、たぶん珍しいということで購入したのかもしれない。

そんなわけで輸出品ではないのだが、きっと、あまりに本物らしくつくられているので、外国人が面白いと思って、お土産に買っていったのだろう。とくに医師として来日したシーボルトなどは何体も購入しており、いまでもオランダのライデン国立民族学博物館には、日本から持ち込まれたミイラが保管されている。

■マリー・アントワネットも愛用した日本の工芸品

このほか、日本の伝統工芸品である漆器も江戸時代に大量に輸出された。とくに螺鈿(らでん)の家具はヨーロッパ貴族にとても好評で、マリー・アントワネットも愛用していた。日本産の陶磁器(主に伊万里焼)も「イマリ」と呼ばれ、中国の陶磁器「チャイナ」に代わって大人気になり、世界中に愛された。オランダ東インド会社の特注を示す「VOC」のロゴが入った伊万里焼も数多くヨーロッパの博物館に現存している。陶磁器を輸出するさい品物を包んだ保護材は、浮世絵の反古紙が多かった。

これで浮世絵の素晴らしさに目を見張ったヨーロッパ人たちは、日本が開国すると、来日してお土産として購入し、それがマネやゴッホといった印象派の画家たちに絶大な影響を与えた。

いずれにせよ、鎖国していたとされる江戸時代にも、多くの珍しい品々が輸出入されていたのである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史家
1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院卒業。高校教師として27年間、教壇に立つ。著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など。

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(歴史家 河合 敦)

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