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コロナ禍でも子どもを預かる「24時間保育園」の存在意義

プレジデントオンライン / 2020年4月28日 18時15分

エイビイシイ保育園の外観 - 撮影=三宅玲子

■6人の園児の親は「どうしても休めない仕事」をしていた

JR新大久保駅から歩いて10分ほど。新宿区の静かな住宅街にエイビイシイ保育園はある。東京都でただ1つ、24時間保育を行う認可園だ。通う子どもは90人。この保育園もまた、コロナ禍の影響で状況が一変している。

新宿区は4月13日、認可保育園の保護者たちに登園自粛を要請した。期間は4月14日から5月6日まで。例外は「国及び東京都から事業の継続を要請されている事業所」に勤務する保護者と「真にやむを得ない事情により、家庭での保育が困難な場合」である。

要請から9日後の22日、エイビイシイ保育園には6人の園児がいた。親は歯科医師や運送関係など、どうしても休めない仕事をしている。保育時間は24時間ではなく、11時から18時までの7時間に制限している。

新宿区の要請に先がけて、新宿区私立保育園連盟は区に原則休園の嘆願書を出した。エイビイシイ保育園の園長で、連盟の会長でもある片野清美さん(69)は、電話越しに次のように話した。

「保育士の中には電車通勤する職員もいますので、いつ感染するかわかりません。小さな子どもたちにソーシャルディスタンスをというのも無理なことです。万一感染者が出れば、2週間の休園となってしまいます。どうしても保育が必要な保護者や職員を守らなくてはいけません」
「『登園自粛』では会社を休みにくい保護者もいます。本当は『原則休園』にするべきです。ですが、うちの保護者はみんなよく理解してくれました。これは、24時間保育を通して日頃から保護者と深い絆があるからだと思いますね」

■夜間に子どもを預かる認可保育園は都内に1カ所だけ

深夜まで働いている人はたくさんいる。ところが、そんな親たちを支える保育園は少ない。

東京都の場合、昼間の認可保育園は約2811園あり、認証保育所も610園ある。ところが、夜間に子どもを預かるのは、認可はエイビイシイ保育園だけ、認証も1カ所しかない。そのため、深夜まで働く親たちのほとんどがベビーホテル(認可外保育施設)を利用している。

3月23日、東京都が「週末の外出自粛要請」を出す直前に、私はエイビイシイ保育園に片野さんを訪ねていた。夜間保育の取材のためだ。

エイビイシイ保育園の園児たち
撮影=三宅玲子
エイビイシイ保育園の園児たち - 撮影=三宅玲子

昨年度、小池百合子都知事は夜間保育不足の対策として、6300万円の予算をつけ、7つの認証保育所での夜間保育開始を目指すと発表した。だが、この1年で夜間保育に取り組んだのは1園のみだった。

一方の片野さんは1983年に新宿の雑居ビルで24時間保育のベビーホテルを始め、2001年に東京都初の夜間認可保育園となった。

■「夜、子どもを預けて働くべきではない」という根強い先入観

ベビーホテルが認可を取得するのは簡単ではない。どんないきさつで実現できたのか。また夜間保育が増えない原因をどう考えているのか。長年現場に関わっている片野さんに話を聞きたいと思った。

「夜間保育園が増えない理由ですか? 役所にも保育関係者にも、夜、子どもを預けて働くことは子どもによくないという先入観が今も残っている。だからだと私は思います」

エイビイシイ保育園の園長・片野清美さん
撮影=三宅玲子
エイビイシイ保育園の園長・片野清美さん - 撮影=三宅玲子

エイビイシイ保育園の園舎は半地下と地上3階、タイル張りのこぢんまりとした建物だ。隣は一戸建て住宅。園庭はない。近所に十分な広さの公園があれば園庭が確保できなくても認可保育園の条件を満たしているのだと、片野さんが説明してくれた。お天気の日にはこの地区でいちばん広い新宿戸山公園にも出かけるという。

子どもたちは全員、昼と夜の2食を保育園で食べる。夜、家で親とごはんを食べないなんて、かわいそう。そんな意見を隠さない保育関係者もいる。

「私はそうではないと思います。保育園でしっかり夕食まで食べて、お迎えの後はゆっくり家で過ごすことができたら、親もゆとりを持って子どもと関わることができますよ」

■わざわざ夜間保育に手をあげようという経営者はいない

ただ、保育現場にとって、子どもたちの保育をしながら同時並行で食事の準備をし、配膳し、食事の世話や後片づけをするのは負担が大きい。夜間保育園では食事が2回あるため、職員の負担は倍になる。

片野さんは「夜間保育の現場の負担を考えると1園あたりの補助額が少ない」と指摘した。

「都の姿勢は評価します。でも本気で夜間保育を増やすのであれば、もっと予算を増やさないと難しいでしょうね。そうでないと、昼間の保育士を確保するだけでも大変なのに、わざわざ夜間保育に手をあげようという経営者はいないと思いますよ」

「昼の子も夜の子も同じでないと」。片野さんはそんな思いで夜間保育に取り組んできた。そこには、33歳での自身の決断が影響している。

19時ごろ、園児たちは、園内で風呂に入り、パジャマに着替えていた
撮影=三宅玲子
19時ごろ、園児たちは、園内で風呂に入り、パジャマに着替えていた - 撮影=三宅玲子

■「夜の子どもの預け先ってこんなに劣悪なのか」

福岡市北九州市出身の片野さんは、地元で保育士をしていた。幼なじみと結婚し、3人の子どもをもうけた。夫と八百屋を営んでいたが、経営がうまくいかず、夫は賭け事に走り、暴力を振るった。片野さんは、昼間は八百屋、夜中は焼肉屋のバイト、朝方はアーケード街の清掃と、仕事をかけ持ちして生活を支えた。

しばらくして夫とは別居。片野さんは働きに出ている間、両親に子どもたちを預けた。父は実直な鉄道マン、母は精神科病棟で働く看護師。近所の親のない子どもたちを世話するような面倒見のいい両親だった。

この頃、片野さんは歓楽街で忘れられない経験をしていた。

「お金に行き詰まって、黒崎のキャバレーに働きに行ったんです。子どものいる女の人もたくさん働いていて、店の中に託児所がありました。そこに息子たちを預けたんですが。おやつに出されたぶどうが少ししかなく、隣の皿に手を伸ばした次男の手を職員がパシッとたたくのを見てしまいました。うちは八百屋ですから、子どもたちは果物をがまんしたことがありません。しかもたたくなんて、夜の子どもの預け先ってこんなに劣悪なのかとショックでした」

園内にはひな祭りの工作が飾ってあった
撮影=三宅玲子
園内にはひな祭りの工作が飾ってあった - 撮影=三宅玲子

ある夜、短大時代の女友達と4人で食事をした。片野さんを心配した友達が気分転換に連れ出してくれたのだ。たまたま隣のテーブルで1人食事をしていた男性と、一言二言、言葉を交わした。聞けば八百屋の近くのクラブの厨房で働いているという。後日、2人で会い、恋に落ちた。東京の大学を中退して放浪中の26歳だった。片野さんは家族があることを隠して明るく振る舞っていたが、ある日、彼に問い詰められ、事情を打ち明けた。しかし、相手はひるまなかった。

「2人で東京に行こうと言われました。彼の夢と行動力に惹かれたんよね。それに、私は高校時代、陸上選手として好成績を出して東京の体育大学に進学したかった。東京への憧れがよみがえったところもあったのかもしれんね」

片野さんがいつの間にかふるさとなまりになっている。

■3人の息子を残して、33歳の片野さんは東京へ

商売も家庭もうまくいかず、神経をすり減らす日々。年下のその人に真剣に口説かれ、新しい人生を夢みたのか。小3、5歳、2歳の息子たちを残して33歳の片野さんは駆け落ちした。

上京して半年、2人は別々に歌舞伎町のクラブの厨房で働き、180万円を貯めた。そして片野さんの保育士の資格を活かしたベビーホテルを始めた。

当時、新宿区にはベビーホテルが60カ所もあったという。場所柄、片野さんのところへ預けにくる女性は事情のある人ばかり。1人ひとりの話を聞き、それに合わせて預かるうちに、気づけば24時間保育をするようになっていた。

エイビイシイ保育園の園児たち
撮影=三宅玲子
エイビイシイ保育園の園児たち - 撮影=三宅玲子

「小さな子どもを連れて鹿児島から上京して、いますぐ働かないといけない女性もいた。クラブを何軒か経営しているやり手の女性もおった。みんな、子どもを育てながら必死で働いている人たち。つい、こちらも一生懸命になって引き受けてしまうんよね」

1年間は息子たちと連絡を取らないと彼に約束したため、電話も手紙を書くこともできない。息子たちへの言葉にならない思いが片野さんを保育に打ち込ませた。

■自力で園舎を建てた

親が迎えに来られない子どもは自宅に連れ帰り添い寝をした。七五三には園児を連れて神社に詣る。2歳までに限定していたが、子どもたちが大きくなると、別の建物に3歳以上の部屋を借りて、2つの場所を運営するようになった。つくった給食をもう1つの部屋まで運び、兄弟が2つの部屋に別れて過ごしていれば、夜中に1人をもう1人のいる保育室まで抱いていく。隣には雀荘がある路地裏のビルの一室だったが、夏には表で水遊びをする姿が近隣のあたたかい眼差しを集めた。

息子たちとは1年後に再会した。泣きながら抱きついてきた上の子ども2人に対し、小さな末っ子は母を覚えていないのか、祖母の側から離れなかった。片野さんは子どもと離れるのがつらく北九州に戻りたかったが、母は「同じことを繰り返さんで」と東京に戻るよう諭した。父は、東京でベビーホテルを始めた娘を認め、子どもたちは引き受けるから心配するなと言葉をかけた。

片野さんは息子たちの野球の試合のたび、毎月のように東京から日帰りで応援に行き、息子たちは高校卒業と同時に東京に進学。片野さんの新しい家庭に加わった。夫婦の間に2人の娘と息子を授かり、片野さんは6人の母になった。

現在の小さな園舎ができたのは1990年。ベビーホテルを始めた翌年に彼が興した事業が軌道にのり自社ビルを建てた。その2、3階が片野さんのベビーホテルになった。60坪の土地は3億8000万円、建物は1億8000万円。補助金は受けていない。保護者からの保育料だけで認可保育園に負けない保育を目指すため経費はかさむ。保育園の運営資金が足りないと、会社の売上から補填していた。

■新宿区長からは「水商売の子どもの園長か」と言われた

1991年には無認可と認可の間の「未認可」保育室として、東京都からの補助も受けられるようになった。

ところが、バブル崩壊の余波で会社が倒産。保育の質を守るために片野さんは認可夜間保育園を目指して運動を始めた。真夏に3カ月、駅前で職員や保護者、近隣の人たちがビラを配り、1万人の署名を東京都に提出。テレビや新聞、ラジオなどメディアにも訴えた。

エイビイシイ保育園の下駄箱。小さな靴が並んでいる
撮影=三宅玲子
エイビイシイ保育園の下駄箱。小さな靴が並んでいる - 撮影=三宅玲子

この頃、東京都は認証保育所の仕組みを開始する直前である。東京都の担当者からは、認可より基準が緩い認証を勧められたが、片野さんは「より公共性と持続性をより保つことができる」と認可を目指した。新宿区の担当者は、ベビーホテルとしての実績は認めていたものの、認可には難色を示した。さらに、当時の区長は夜間保育に否定的だった。

「父母会と一緒に区長に陳情に行ったとき、いかにも軽蔑したように『水商売の子どもの園長か』って言われたの。『あなたもそういうところに飲みに行ってるでしょう』と言い返した、そのやりとりは忘れられません」

最後は「新宿区にも夜間保育園をつくってもいいじゃないか」と福祉部長が理解し、前へ進むことになる。

■「ひと口100万円で出資してくれないか」

一方、認可保育園になるためには社会福祉法人格の取得が条件となるが、それには自前の土地と建物を用意しなくてはならない。夫の会社が建てた自社ビルはあったものの、借金のためにつけられていた建物の担保1億5000万円をゼロにする必要があった。1億円は親戚など手を尽くして集めたが、残る5000万円が集められない。

職員会議では、寄付金を募ってはどうかという意見も出るなか、片野さんは父母会で親たちに窮状を打ち明け、提案をした。ひと口100万円で出資してくれないか、利息はつけられないが必ず返す、というものだ。

「大久保の同じ町内に暮らす園児の祖母がすぐに手を上げてくれたんです。歌舞伎町でホステスをしていたシングルの若いお母さんは、家を買うために貯めていたお金を出資してくれました」

こうして保護者や近隣の出資を集めたがあと1000万円というところで力尽き、最後は、保護者たちから保育料を2カ月分前借りして乗り切った。

■深夜のお迎えとなる「フクロウ組」は30人

2001年4月に始まった社会福祉法人杉の子会の理事長を務めるのは、夫の片野仁志さんだ。

「認可保育園になったことで、職員の給料を上げられました。給食などの加算もありますので、子どもたちの処遇もよくなりました。さらに保育料も安くなりました」

そのうち歓楽街で働く親だけでなく、ピアニスト、銀行員、出版社の編集者、国家公務員など、さまざまな職業の親の子どもたちを引き受けるようになった。

エイビイシイ保育園の給食のサンプル。食事は園内で調理している
撮影=三宅玲子
エイビイシイ保育園の給食のサンプル。食事は園内で調理している - 撮影=三宅玲子

深夜のお迎えとなるフクロウ組は30人。フクロウ組の子どもたちも生活のリズムを大切にするために午前中に登園する。親たちは短い睡眠時間でも朝はがんばって送り届ける。

2004年には24時間の学童保育を開始。2015年からは障害のある子どもたちの支援保育と学童保育を始めた。現在、エイビイシイ保育園から徒歩1分内の3つの建物で、0歳児の分園、学童クラブ、放課後等デイサービスを運営している。

新しく建物を建てる際にも問題なく地域の人たちの理解を得られた。保護者たちへの借金は10年かけて返した。

■24時間保育を必要とする人はコロナ後もいなくならない

二十歳になった卒園生が連れ立って保育園に遊びにくるという。

「地域で育った子は地域に帰ってきます。税金をかけて育てた子は、税金を払う大人になるんです。だから、地域も行政も子どもが育つ環境を広い視野で育てる構えを持ってほしい」

経済的な事情、親子の承認の問題など、何も困難のない家庭はない。高学歴で有名企業に勤める親が、子どもの発達障害を受け入れられず片野さんのところで泣くことがある。若い母親が別の男性との間にも子どもを授かり、ステップファミリーとして成長する過程を支えたこともある。

卒園した子供たちの写真が飾られていた
撮影=三宅玲子
卒園した子供たちの写真が飾られていた - 撮影=三宅玲子

「さまざまな人生と働き方があります。そこに私たちが口を挟むことはできません。ただ、子どもたちは親の職業に関係なく、平等に保育を受ける権利があります。それを守るのは大人の責任です。夜間保育を支える仕組みが整わないことは問題です」

コロナ禍で社会は揺れている。いつ収束するのかも見通せない。だが、「エイビイシイ保育園の24時間保育は変わらない」と電話の向こうの片野さんは言った。

「24時間保育を必要とする人はコロナ後もいなくなりません。歓楽街も形を変えて生き残るでしょう。夜間保育に関心を持つ人にはノウハウを教えますので、ぜひ私たちの仲間になってほしい」

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三宅 玲子(みやけ・れいこ)
ノンフィクションライター
1967年熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009~2014年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「BillionBeats」運営。近著に『真夜中の陽だまりールポ・夜間保育園』(文藝春秋)。

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(ノンフィクションライター 三宅 玲子)

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