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「西では極悪人、東では神様」平将門にみる日本人の歴史感覚

プレジデントオンライン / 2020年5月25日 9時15分

東京・大手町にある将門塚 - 画像=『神になった日本人』

平将門の墓は「東京都千代田区大手町1-1」にある。高層ビルが建ち並ぶビジネス街のど真ん中に、平安時代中期に「新皇」を名乗った豪族の墓があるのだ。京都では極悪人とされた人物の墓が、なぜ東京の中心地で守られ続けているのか。民俗学・文化人類学者の小松和彦氏が解説する——。

※本稿は、小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)の一部を、再編集したものです。

■「千代田区大手町1-1」に立つ「塚」

大手町と言えば一流企業などのビルが林立するオフィス街である。そこは日本のビジネスの「中心」であり、さらには世界のビジネスの中心の一つと言っても過言ではないだろう。

ところが、その大手町のさらに「中心」、住所表記で言えば「東京都千代田区大手町1-1」に建っているのが「将門塚」と呼ばれる「塚」だというと、意外に思う方が多いにちがいない。管理しているのは、史蹟将門塚保存会という近隣の大企業などを中心に組織されている団体である。

もっとも、「塚」とはいうものの、そこに建っているのは「墓石」(板石塔婆(とうば))である。その表面の中央には大きく「南無阿弥陀仏」、その右と左に小さく「平将門 蓮阿弥陀仏」「徳治二年」と刻まれている。塚に対する信仰は厚く、いつ訪れても新しい花が供えられ線香の煙がなびいている。

■「新皇」を名乗り、関東の分国化を目指した

平将門とは、平安時代中期の関東地方の豪族で、承平・天慶年間に起こった平将門の乱(935―940)を起こした中心人物である。桓武天皇の子孫にあたる平良将の三男として生まれた将門は、父の早世後、所領や女性問題をめぐって、筑波山麓地帯に勢力を張っていた東国平氏の族長的な存在であった伯父の平国香(くにか)や平良兼(よしかね)たちと激しく対立し、互いに武器をとって戦うようになった。戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、宿敵・良兼の病死後は常陸(ひたち)一帯をその支配下に収め、やがて朝廷側から見ると公然たる反国家的な行動をおこなうようになった。

そして、ついに天慶2年(939)、将門は常陸の国衛(こくが)(国司の役所)を攻撃して焼き払い、さらにその余勢を駆って下野・上野以下の関八州の国衛を制圧した。そして「新皇」を名乗り、関八州の国司を任命して、朝廷の支配から離れた関東の分国化を目指した。しかし、将門の関東支配は数カ月しか続かず、朝廷側の藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛(さだもり)らに追討される。

その首級(しゅきゅう)は京都まで運ばれて、獄門にかけられたという。

■京都側のイメージ「将門の死=神仏の罰」

後世の人びとのあいだで語られる将門には、異なる視点から形成された二つのイメージがある。一つは京都側のものである。王朝文化が花開こうとしていた時代、京都から遠く離れた坂東(ばんどう)の地で起こった反乱は、京都の天皇・貴族たちを恐怖のどん底におとしいれた。それは将門が京都にまで侵攻してくるのではないかという物理的恐怖をともなう、まことに深刻なものであった。

天慶3年(940)正月、朝廷は将門を極悪非道な狼籍者と断じて将門追捕(ついぶ)の軍勢を送り、また宮城十四門に兵士を配置して防御させ、さらには諸寺社や高僧・宮廷陰陽師たちに将門の調伏(ちょうぶく)(呪殺)の祈祷を依頼している。武力と呪力の双方を動員しての怨敵退散を図ったのである。

その調伏の呪術のやり方は、悪鬼(将門)の名前を書いたものを護摩壇(ごまだん)に投げ入れたり、賊徒(将門)の形代(かたしろ)である人形を棘のある木の下にくくりつけて呪詛するというものであった。すなわち、こうした呪術的コンテキストでは、将門の死は神仏の罰が下されたもの、つまり調伏・呪詛の呪法の成功というふうに理解されたわけである。

■「怨霊化」した菅原道真との違い

天慶の頃と言えば、あの菅原道真の怨霊が猛威をふるっていた時代である。獄門にかけられたあと、将門の霊は怨霊となって出現してもおかしくなかった。ところが意外なことに、将門の霊は死後怨霊化して朝廷・貴族を襲うことはなかった。というのは、京都には将門の怨霊を「御霊」として祀り上げたという神社が存在していないからである。どうしてだろうか。

もちろん、将門の怨霊化をまったく考えていなかったわけではないらしい。朝廷は天慶の乱での戦死者を敵味方の区別なく供養するようにとの命令を出すとともに、関東地域の役人の大刷新をおこなっている。それによって怨霊化の芽が摘み取られてしまったのだろうか。

わたしは別の理由があったと推測している。当時の宮廷社会での怨霊の候補者は、その社会内部に属していた者、自分たちと濃密な社会関係にあった者であった。そうした関係性に欠けていた将門に対して、貴族たちは怨霊を発生させる「後ろめたさ」や「同情の心」を抱くことがなかったのである。

■語り継がれるほどに、神格化されていく

怨霊化はしなかったが、将門は京都の人びとのあいだで語り伝えられていく。賊徒として、悪鬼として、超人として、地獄に墜ちた罪人として。そして、そうした伝説のなかで、将門はどんどん神秘化されていった。

例えば、将門を討ったことで有名になった藤原秀郷を主人公とする室町時代のお伽草子『俵藤太物語』では、将門は「身長(たけ)は七尺に余りて、五体はことごとく鉄(くろがね)なり。左の御眼(おんまなこ)には瞳二つあり。将門の変わらぬ人体同じく六人あり。されば何(いず)れを将門と見分ける者は無かりけり」と、その超人ぶりが語られている。「将門の変わらぬ人体同じく六人」とは、後世に言う「七人の影武者」のことである。

豊原国周画「前太平記擬玉殿 平親王将門」、ウォルターズ美術館蔵
画像=『神になった日本人』
豊原国周画「前太平記擬玉殿 平親王将門」、ウォルターズ美術館蔵 - 画像=『神になった日本人』

これほどの超人であった将門も一カ所、こめかみだけが生身であることや、影武者は灯火を通して影がないという弱点があった。これを愛妾・桔梗前(ききょうのまえ)の裏切りによって秀郷に知られ、敗れてしまうのであった。

このように、京都の人びとにとっては、伝説のなかでも将門は「敵」であった。しかも、将門は時代を超えて「朝敵」であり続けた。その烙印は江戸時代になって後水尾天皇から勅免が下されるまで続いたのである。

■関東側のイメージ「将門=悲劇の英雄」

京都の宮廷社会では、将門は朝敵であった。しかし、京都の朝廷に対して思うところがある人びとは、朝廷に反抗して敗れ去った将門に親近感を抱いていた。その筆頭に挙げられるのは、関東に古くから住む人びとである。関東に縁もゆかりもない下級貴族が中央から派遣されてきて、国衛の役人として権力をふるい、私腹を肥やしているのを快く思っていなかった。だからこそ、かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに語り伝えられてきた。

茨城県坂東市の平将門像
茨城県坂東市の平将門像(画像=『神になった日本人』)

梶原正昭・矢代和夫の研究によると、将門伝説はとくに関東地方に濃密に分布していることがわかる。例えば、「佐倉惣五郎」で言及した佐倉の将門山の将門大明神は、将門の死後の天禄年間(970―973)に、藤原秀郷の第三子と第四子が相次いで将門の祟りによって亡くなったので、秀郷の命で将門の霊を祀ったものだという。

茨城県坂東市岩井の國王(こくおう)神社は、将門の戦没の地ということで将門の霊を祀る神社である。たとえ京都の朝廷からは朝敵として極悪人扱いされようとも、在地の人びとやその他の地域の民衆には、自分たちの思いを体現してくれた悲劇の英雄という思いがあり、それが在地・民間での将門伝説を支え続けたのである。

■復讐ではなく、鎮魂を求める「祟り」

冒頭で紹介した大手町の「将門塚」も、こうした将門ゆかりの地の一つである。この塚を管理する史蹟将門塚保存会が設置した「将門首塚の由来」の看板には、次のように記されている。

将門は下総国で兵を起こし、坂東八个国を平定して新皇と称し、政治の刷新を図ろうとした。だが、平貞盛・藤原秀郷の奇襲にあって憤死し、その首級は京都に送られて獄門にかけられた。ところが三日後、その首は白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し、太陽も光を失って暗夜のようになった。村人は恐怖し、塚を築いて埋葬した。これがすなわちこの場所であった。

その後もしばしば将門の怨霊が祟りをなすために、徳治2年(1307)、時宗二祖真教上人が「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈し、塚の前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍らにあった社にその霊を合祀した。それでようやく将門の霊も鎮まり、以後はこの地の守護神になったという。

ここで語られる将門の祟りは、復讐のための祟りではない。それは祀り上げ=鎮魂を求める合図なのである。もっとはっきり言えば、祀り手側の「思い」、すなわち、将門の霊は怨みを残して死んだはずなので、その怨念を鎮めなければならないという「思い」が、飛ぶ首や天変妖異、病気などの祟りとして言説化されたものなのである。将門の英雄的行動を記憶し語り続けること、言い換えれば、祀り続けることが将門への最大の供養であった。そして、将門の霊を合祀したというこの「傍らにあった社」が、のちの「神田明神社」(神田神社)の前身であった。

■光を放った将門塚から異型の武者が現れた

ところで、この将門塚をめぐる伝説は、内容にかなりの差異はみられるが、そうとう古くからいろいろと語られていたらしい。例えば、『永享記』に「平親王将門の霊を神田明神と崇め奉る」とあり、謡曲「将門」にも「神田明神」が将門を祀った社だと語られているので、この伝説は室町時代にはすでにかなり広く知られていた。

いま少し詳しく述べると、「安房洲崎明神」の社司の旧記によれば、将門の乱より十年後の天暦4年(950)、将門塚がしきりに鳴動し、暗夜に光を放って異形の武者が現れ祟りをなしたので、人びとは恐怖し、その霊を祀り鎮めたという(『将門伝説』)。『御府内備考』にも、かつて神田明神の小さな社の近くに天台宗末寺の日輪寺という寺があった。将門の乱後、平家ゆかりの者がここに将門の墳墓を築いたところ、天変妖異が続いたために、嘉元3年(1305)、真教上人が東国遊化(ゆけ)の際に立ち寄って供養し、法号を授けてこれを板碑に刻んで建てたところ祟りは収まった。以後、日輪寺は時宗の道場として栄え、神田明神はその鎮守として崇敬されたという。

また、『神田神社史考』は、将門の乱後、獄門にかけられた首を都より持ち帰り、現在の将門塚のところにあった池(首洗い池)で洗い、上平川村(現在の大手町首塚付近)の岩屋観音堂で供養し、塚を築いてその首を埋葬し、さらに祠を建てて霊を祀った。この祠が現在は九段にある築土(つくど)神社(江戸時代は築土明神で、祭神は将門の霊)の前身であるという築土神社の社伝を紹介している。しかし、この築土明神の祠はすでに真教上人が来る以前に移転したため、大手町の塚の脇には荒れ果てた祠があるにすぎなかったらしい。

■家康の江戸入府で、事実上の神仏分離

いずれにせよ、中世には、将門塚の脇には「神田明神」という将門の霊を祀る社があった。この神田神社の祭神が将門の霊だけなのか、それとも「神田」の名が語るように、別の神も合祀されていたのかは、もはや定かでない。

この社を管理していたのは将門塚の近くにあった日輪寺である。神仏習合の時代であるから、すでに紹介してきた談山神社や多田神社の神仏分離までの状態を想起すればわかるように、このような墳墓祭祀の形式はむしろふつうであった。この地に特別のことが生じなければ、おそらく、将門塚は江戸時代が終わるまで日輪寺が管理する塚=墳墓であり、神田明神もこの寺の管理する小さな社に留まっていたであろう。

ところが、その「特別なこと」が起こったのである。言うまでもなく、徳川家康の江戸入府であった。江戸幕府はただちに江戸城の普請と城下町の建設に取りかかり、このとき将門塚の脇にあった神田明神も、日輪寺も移転させることにした。神田明神はいったん山王権現(さんのうごんげん)とともに駿河台に、さらに元和2年(1616)、現在地の湯島(外神田)に移された。日輪寺のほうは浅草に移された。ある意味でこのとき、神仏分離がなされたのである。

■「将門様のお社」として定着した神田明神

移転に際して、関東の領主となった家康は、遠い昔、朝廷を向こうに回して関東の「独立」を図った将門に大いに感じるところがあったのだろう、神田明神を山王権現とともに江戸総鎮守とした。神田明神は思いもかけなかった破格の出世をすることになったわけである。神主には将門の末裔という芝崎氏が任命され、代々世襲で神事をおこなった。興味深いことに、神田明神は江戸城の鬼門、山王権現は裏鬼門に配置された。

以後の約百年は、神田明神の祭神は「平将門の霊一座」のみであった。しかも、すでに述べたように、寛永年間(1624―44)には朝敵という烙印も除かれ、さらには霊元天皇の勅命で「神田大明神」という勅額も社殿に掲げられた。この時期は神田明神の黄金時代であったと言っていいだろう。

ところが、いつの頃からか、またなぜかもわからないが、神田明神に「大己貴命(おおなむちのみこと)」も合祀されるようになった。しかし、江戸時代を通じて、例えば『江戸名所記』に「神田明神 この社は将門の霊なり」とあるように、神田明神は江戸の住民には「将門様のお社」として認知されていた。祭礼も山王権現と交代で二年に一度盛大におこなわれ、たくさんの出車(だし)の江戸城練り込みをクライマックスにした、江戸っ子の心意気を示す祭りとなっていた。

■実は、将門の霊は「第一座」ではない

五月のある日、わたしは久しぶりに神田神社に参拝に出かけることにした。神田神社は御茶ノ水駅のすぐ近くにある。駅の東口から聖橋に出る。神田川と中央線の上に架かっている橋である。この橋を渡るとすぐのところに湯島聖堂の森がある。神田神社はこの聖堂の森の道路を挟んだ反対側に位置している。東側は坂になっていて、野村胡堂の小説のなかでの話だが、かつてこの坂の下の長屋には銭形平次が住んでいた。いまは秋葉原の電気街となっているが、そのあたりを歩いてみると、いまでもそんな趣を残す長屋風の住宅がまだ残っている。

神田神社の鳥居をくぐって進むと、豪壮な随神門(ずいしんもん)があり、その門を入って本殿を望むと、鉄筋コンクリート造り・総朱漆塗り、屋根は銅板瓦二枚重ね本葺き、外観は権現造という豪華な社殿が控えている。

祭神は当然のことながら、将門の霊が第一座と思われる読者が多いにちがいない。ところが、違うのである。現在の主祭神の第一座は大己貴命、第二座が少彦名命(すくなのひこなのみこと)であって、平将門は第三座という扱いになっている。しかも、あまり知られていないが、第三座になったのも昭和59年(1984)のことで、それまでは摂社(せっしゃ)にすぎなかったという。

■明治時代に「追放されなかった」のは幸運だ

いったいどういうことなのだろうか。これには、明治時代に再び天皇親政となったことに由来する複雑な経緯、すなわち、文明開化期の政治的・宗教的状況が深く影を落としている。

当時、宗教行政を担当していた教部省は、神田神社の祭神から朝敵であった将門の霊を除くことを主張し、第一の祭神と信じる氏子の抵抗にもかかわらず、将門の霊は祭神の地位、つまり本殿を追われて摂社にされてしまったのである。もっとも、当時の状況から判断すると、完全に追放されずに摂社としてであれ留まることができたのは幸運であったと言うべきかもしれない。

当時の騒ぎを「郵便報知新聞」(明治7年9月14日)は、次のように伝えている。

氏子一同人心渙散(かんさん)し、例祭期日既に近づくといえども、難ありて事を挙行する者なく、あまつさえ神主柴崎を始め、氏子中千百来衣服豊贍(ほうせん)安楽富有せしは、まったく氏神の恩恵なるを忘却し、朝廷に諂諛(てんゆ)して神徳に負(そむ)きし事の人非人なりとて怨み誹(そし)り、一文銭を投ずるとも快とせず、かえって旧神の新社別構のために醵金(きょきん)既に千円に近しと聞えあり。

■例祭をボイコットした江戸っ子たち

ようするに、徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。

小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)
小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)

案内してくれた神社の方に、そのあたりのことを率直に尋ねてみたところ、とても苦しげで曖昧な答えしか聞くことができなかった。また、神社として現在とくに強調している霊験はなにかを尋ねてみたが、これもとくにないという。しかし、将門の「パワー」にあやかってスポーツなどの勝負事の祈願に来る方が多いそうである。ということは、人びとのあいだでは、神田神社は大己貴命を主祭神とする神社ではなく、まだ将門の霊を祀る神社として知られているということになる。

ところで、神田神社と日輪寺が移転した後の「将門塚」は、さすがに潰すのははばかられたらしく、そのまま大名屋敷のなかに留め置かれた。明治になると大蔵省の敷地になったが、戦後になって民間に払い下げられた。また、関東大震災後に塚を崩すまでは、盛り土した墳墓状の塚と、そのそばに首を洗ったという池があった。

江戸時代から現在まで、神田神社の神輿(みこし)の巡行では、この将門塚に立ち寄るのが決まりになっている。

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小松 和彦(こまつ・かずひこ)
民俗学・文化人類学者
1947年東京都生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。専攻は文化人類学・民俗学。信州大学助教授、大阪大学教授、国際日本文化研究センター教授、同センター所長を歴任。日本の歴史・文化の周縁に姿をくらます鬼・異人・妖怪などを手がかりに、日本人の心の奥底に潜むものを探る研究を続ける。2013年紫綬褒章受章。2016年文化功労者。著書に『神隠しと日本人』『妖怪文化入門』『鬼と日本人』(以上、角川ソフィア文庫)、『憑霊信仰論』『日本妖怪異聞録』(以上、講談社学術文庫)、『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書)など多数。

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(民俗学・文化人類学者 小松 和彦)

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