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SNSで有名人を追い詰めるバカを野放しにしてはいけない

プレジデントオンライン / 2020年5月30日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/peepo

恋愛リアリティショー『テラスハウス』に出演していたプロレスラーの女性が、自ら命を絶った。SNS経由で視聴者から容赦なく送られてきた誹謗中傷、罵詈雑言が女性を追い詰めたとみられている。ネットニュース編集者の中川淳一郎さんは「SNSの普及でバカが拡声器を手にした。相手を死に追いやるような、一方的な罵詈雑言などもってのほかだ」という──。

■とある女性の死から浮かび上がるSNSの異常性

“恋愛リアリティショー”を謳(うた)う番組『テラスハウス』の出演者で、プロレスラーの木村花さんが亡くなった。自殺とみられている。

この痛ましい出来事については、すでにテレビのワイドショーなどで大きく取り上げられ、ネットにもさまざまな記事が掲載されている。そのため、ここで経緯などは詳記しないが、木村さんが自ら死を選んだ背景として「自身のSNSアカウントに寄せられた視聴者とおぼしき人々からの罵詈(ばり)雑言、誹謗(ひぼう)中傷があまりに酷(ひど)く、それが彼女を精神的に追い詰めたのではないか」といったことが伝えられている。

私は本件の第一報に触れた直後、「クイック・ジャパン ウェブ」に〈『テラハ』木村花さん逝去「糾弾者に最高のツール」であるSNSはもうやめよう〉という記事を寄せた。内容はタイトルどおりなのだが、SNSというものは日々の暮らしを便利にしてくれる反面、極めて異常性をはらんだツールでもある──そういったことを伝えたかった。

■理不尽な言葉で攻撃されても、泣き寝入りするしかないのか

SNSの異常さを、いくつか整理してみよう。

・個人の連絡先を全世界に公開しているような状態。冷静に考えてみれば、見ず知らずの人間が勝手に接触してくるかもしれないなんて、不気味である。常識的に考えて、個人の電話番号や住所、メアドなどは不用意に公表しないもの。しかしSNSを介すると、多くの人々は慎重さを忘れてしまう。

・公共的には何の価値もないような人間であっても自由に発言することができ、しかもそれが過激であるほど注目されてしまう。

・誰かの名誉を傷つける発言、事実に反する発言など、不穏当な発信をしてもなかなか責任が問われない。名誉毀損や業務妨害などで訴えられそうになっても、ひとまずIDを削除してしまえば、逃げることができる。被害者が法的な解決を求めることも可能だが、その際は発信者情報の開示請求、弁護士の手配、裁判の準備など、多大な手間とカネがかかる。

結局、どんなに理不尽な言葉でボコボコに叩かれたとしても、言われた側(被害者)が泣き寝入りするしかない状況が長年続いてきたのである。「悔しいけど、ネットにはもともと、そういった負の一面もあるのだから、仕方ないよね」「いちいち相手にしていたら、こちらが疲弊してしまう」といった諦観も、誹謗中傷を受けた被害者たちの妥協につながってきた。

■ネットは決してユートピアではない

私が本稿で考えたいのは「誰もが自由に発言できるインターネットで、何かを発信する際にわきまえておかなければならない『責任』」について、である。

今回の木村さんの一件を受け、SNSとは、かくも残酷なものなのか……と改めて思わずにはいられなかった。SNSの影響で、人が死んでいいわけがない。おかしい。あり得ない。間違っている。その異常さをきちんと認識すべきである。

ネットはたしかに便利なツールであり、使い方次第でたくさんの利便性をわれわれにもたらしてくれる。ただ、愚かさ、狡猾さ、欲深さ、残酷さなど、人間のどうしようもない本質や業を顕在化してしまう一面も、確実に備えている。決して、ユートピアのような世界ではないし、万能な道具でもない。

そういったことは2009年に刊行された私の本『ウェブはバカと暇人のもの』のなかで、すでに喝破していた。しかし、SNSユートピアを信じる“ウェブ2.0陣営”の呑気(のんき)な連中は、「この本で書かれていることに触れてはいけない……」と明らかに距離を取り、私のことを腫れもの扱いした。

だが、現実を見てほしい。同書の刊行から11年、インターネットの世界で起きてきた現象や出来事を振り返ってみれば、結局、私が書中で指摘したことが実証され続けてきた歴史ではないか。バカな人間は便利なツールがあろうとなかろうと、バカであり続けるのだ。

■リアリティショーはドキュメンタリー仕立ての「ドラマ」

人間のバカさかげんは、生まれ持った知性や人格に加えて、それまでの人生で積み重ねてきた学習量や常識の獲得などによって決まる。

今回、木村さんが苛烈に叩かれるきっかけとなったのは、『テラスハウス』のなかで描かれた「木村さんの大切なリングコスチュームを共同生活する男のひとりが洗濯して縮ませてしまい、それに対して木村さんが激怒する」というくだりだった。感情移入しながら視聴してきた人間にとっては、心がざわつくシーンだったのかもしれない。

だが、これは“リアリティショー”という、ドキュメンタリー風味のドラマなのである。シナリオや演技をどの程度つくり込むかは番組にもよるのだろうが、事前に設定された展開に沿って、演出が加えられた映像なのだ。いちいち「※番組上の演出です」のようなテロップでも表示しないと、それが理解できないのだろうか。

自分の役割に徹し、求められた反応を披露しただけの木村さんに本気で激高し、SNSで容赦なく罵詈雑言を浴びせかけた人々がいたわけだが、こうなってくると悪役はもはや、エンタメの世界に登場できないという事態になりかねない。毒舌が売りの芸能人はその言葉を封印され、プロレスからはヒール役が消滅し、高度な演技力が要求されるからこそ“オイシイ”役どころでもある、悪の親玉を演じてくれる俳優がいなくなってしまう。また、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』などのヒーローシリーズでは、終盤になると悪役が正義の主人公に対して「オレはこんなにつらかったんだ……」と悲しい身の上を告白し、最後は握手をして「一緒に世界の平和のために戦おう!」という展開ばかりになるかもしれない。

■バカが直接、罵詈雑言を投げつけてくる恐怖

単なるストーリーを「ガチ」だと思い込むような、メディアリテラシーの低いバカが多いことから、今回のような悲劇が生じた側面は否めない。SNSが普及する前であれば、ここまで低レベルのバカが公共の場で発言することなど、ほぼ許されなかった。また、プロとして一定の評価を得ている人物に向けて、直接、罵詈雑言を投げつける手段も存在しなかった。そうした環境が、世界に安寧をもたらしていたのだ。

芸能人やスポーツ選手であれば、以前は所属事務所や所属組織の工夫ひとつで、彼らを罵詈雑言から守ることができた。タチの悪い手紙やメールが届いたとしても、事務所が防波堤となり「本人には見せない」という手段を取れば、その内容がストレートに伝わることはなかったのだ。だがSNSの場合は、バカが直接襲いかかってくる。

想像してみてほしい。スマホの通知音が「ポーン」と鳴り、「あ、番組を見た友達が感想を送ってきてくれたかな」「『楽しかったよ!』『頑張ってね!』という応援かも」などと思いながら開いてみたら、「テラハから出て行け!」「オマエだけは絶対に許さない!」「死ね!」といった言葉が有象無象から間断なく送りつけられる。そんな状況は、わざわざ説明するまでもなく、地獄である。

■「批評、批判」と「罵詈雑言、誹謗中傷」はまったく違う

今回のような事件に触れると、改めて「あぁ、人間って本当に成長しないし、本当に自分本位で強欲な生き物なのだな」とウンザリしてしまう。

別に批評、批判をすること自体は悪いことではない。批評をする自由は誰にでもある。ただ、以前であればお茶の間や居酒屋など、ごく少数の身近な人々の間でしか口にされなかったような低次元の批評や批判が、インターネットの普及以降、とりわけSNSの普及以降は大きく拡散するようになってしまった。

「ブス」「デブ」「キモい」「バカ」などの言葉が私的な場で持ち出されることは、まったく問題ない。「プライベートな場での誹謗中傷の制限」なんて法律ができたら、それこそ超絶管理社会の到来であり、決して認めることはできない。

誰でも自由に発言できること、議論に参加できることは、ネットの大きな特徴であり、利点でもある。それを否定する気はない。ネットを介すれば、これまで目を向けられることがなかった権力を持たない者、知名度や影響力を持たない者、世間に埋没していた弱い者の声を、多くの人に届けることが可能になった。それが一定の世論を形づくったり、ムーブメントとして拡大し、世の中を変えたりしたこともある。「保育園落ちた日本死ね!!!」や「#検察庁法改正案に抗議します」はそのわかりやすい例だろう。悪いことばかりではないし、「力のない者は黙れ」といいたいわけでもない。誰だって批判や批評はしてもいい。

とはいえ、「批評」「批判」と「罵詈雑言」「誹謗中傷」は別なのである。作品の出来栄えについて、冷静に批評や批判をするのはまっとうだ。しかし、感情的になって「死ね」「ブス」「消えろ」といった言葉を直接本人に寄せるのは、もはや罵詈雑言や誹謗中傷という、悪事のレベルである。

■匿名性ありきのネット文化が全盛だったころ

当たり前の話だが、人間社会では、何かをオフィシャルに発言する以上は、その発言に責任を持たなければならない。

2000年代前半あたりまでの、「2ちゃんねる」に代表される匿名性ありきのネット文化が全盛だったころは、ネット上に転がっているさまざまな発言を「所詮は便所の落書き」的に捉える風潮があった。信頼できない有象無象の放言として受け流したり、距離を保って内容の真贋を見極めたりするような、ある種の冷静さや作法をネットユーザーはわきまえていた。そもそも、いまほどユーザーは多くなかったし、よくも悪くも牧歌的だった。掲示板などでバカがわめき散らしたところで、タコツボのなかでの罵詈雑言として捨て置かれることが大半だった。

当時から、著名人が自分をネタにしている掲示板を、こっそりのぞきに行くことはあっただろう。しかし、よほどのマゾはさておき、そこにレベルの低い悪口や事実に反する指摘が並んでいたとしたら、そっとブラウザを閉じて、わざわざ何度も見に行くことはしなかったと思われる。「はいはい、あなたたちみたいなアンチよりも、応援してくれるファンのほうが圧倒的に多いからね。バカはネットの底辺で憂さ晴らしでもしていてください(苦笑)」と取り合わなかった。

■SNSの普及でバカが拡声器を手にした

そして「2ちゃんねらー」のようなコアなネットユーザーにしても、ネット文脈を理解したうえで、ある程度の「わきまえ」「作法」を心得ている人が多く、掲示板の雰囲気を壊さぬよう、ある種のプライドすら抱いて自分たちの居場所を守ろうとしていた。「閉鎖されたアングラ空間である2ちゃんねる以外には、自分の書き込みを出してもらいたくない」と考えていた節もある。

だからこそ、2ちゃんねる上の発言を何の断りもなく転載してアクセスを稼ぎ、アフィリエイト収入を小賢しく得ているような「まとめサイト」を敵視し、自分たちなりに培ってきた作法や文化を軽んじて、「ただ儲かればいい」と振る舞うヤツを許さない「嫌儲」意識が高まったのだ。「オレたちは、自由に発言したり、独特のコミュニケーションを楽しんだりできる、この閉鎖空間を大事にしてきた。そこに黙って踏み込んできて、勝手に発言を外に持ち出すのか? さらにはそれで儲けようというのか?」といった、義憤に近い気持ちもあっただろう。少なくとも、ネットアングラはただ殺伐としているだけの無法地帯ではなく、一定の自浄作用やバランス感覚みたいなものも兼ね備えていた。

こうした空気感が変わる契機となったのは、やはりSNSの普及だろう。かつてのネット文化を知らないユーザーが大量に流入し、ネットは「タコツボ」から「世間」にクラスチェンジした。SNSを使うことで発言の拡散力は高まり、「バカに拡声器を与える」という悪い一面も強化された。以前であれば世間に埋没していた声が、顕在化するようになってしまった。つまり、これまで触れることのなかった悪意や害意を無遠慮にぶつけられる可能性も高くなったのだ。

■批評、批判を口にする際の作法と責任

このような状況にあっても、SNS上で長らく軽んじられてきたのが、発言をするにあたって負わなければならない「責任」だ。「自分はオマエらにカネを落としてやっている客だ」「自分は視聴率向上に貢献している視聴者だ」「自分は著名人のように優遇されていない、弱い一般人だ」などと暗に居直り、都合よく匿名性を利用しながら、無責任に罵詈雑言をぶつけてくるバカが、あまりに多すぎる。

いわゆるプロの批評家という人々は、自分の発言に責任を負ったうえで批評を行っている。「その指摘は間違っている」となれば、自分も批判の対象になるし、場合によっては立場や影響力を失うこともある。そうしたリスクなどもすべてひっくるめて責任を負い、批評や批判を展開しているのだ。

現在のSNSでは、そうした責任やリスクを負わず、ただ批判をするだけの人が跋扈(ばっこ)している。なにか問題が起きれば、アカウントを削除して、逃げる。責任は一切負わない。下手をすると「有名人はディスられるのも仕事のうち」「批判は有名税みたいなもの」「批判されるのがイヤなら、表舞台に出てくるな」と自分の愚行を正当化したりもする。

それ、違うだろ!

批判や批評とは本来、自分の発言に責任を持つ者どうしが、お互いの信念なり人生なりプロ意識なりをかけて、一定の敬意やコミュニケーションの作法を意識しながら発すべきたぐいの営みだ。一方的に石を投げつけて逃げることなど、許されるものではない。いや、仮にそういう発言や行為に及ぶのであれば、自分も同じ扱いを受けた場合、それを甘受しなければならない。

■すべての発言には責任が伴う、という原理原則

私の尊敬する批評家のひとりに、故・勝谷誠彦さんがいる。勝谷さんは、コラムニストやテレビのコメンテーターとして、非常にエッジの効いた、忖度(そんたく)のない批判を口にして、毀誉褒貶(きよほうへん)が絶えなかった人だ。

実は私の母が、勝谷さんのファンだった。「毒舌なのがいい」と。それを勝谷さんに伝えたことがある。そのとき、勝谷さんは「『毒舌コメンテーター』って変な言葉だなぁ~。ただ、コメンテーターは毒舌でなければ意味がないよ。本音で表現するからこそ、存在意義がある」と言っていた。人々が口にしづらいこと、違和感や不信感が拭えないことをちゃんと表現するのがコメンテーターの矜持であり、それに伴うリスクや反論にもちゃんと対峙する。それが批評する人間の責任である。そういう考え方を持っている人だった。

すべての発言には責任がともなう。これは立場や環境に関係なく自覚すべき、原理原則である。批評、批判は自由だ。ただし、開かれた場で発言をする以上は責任を持たなければならない。そして、批判する相手がどう受け取るかを注視しながら、冷静なコミュニケーションを意識しなければならない。相手を死に追いやるような、一方的な罵詈雑言などもってのほかなのだ。

■無責任発言、揚げ足取りに付き合う必要はない

私にも何人か、「こいつだけは許さない」「本当に嫌いだ」と見限り、ネット上で関わらないようにしている人間が存在する。そのほとんどは“論客”的な立ち位置にしがみつき、なんでもわかっているような口ぶりで相手を見下してくるアラ還のオッサンたちだ。彼らはいちいち、こちらの揚げ足を取ってくるので邪魔で仕方がない。要するに構ってほしいのだろうが、私は「無視」ないしは「ブロック」で対処することにしている。

とかく「ツイ廃」のようになった過去の論客は、支持者から寄せられる感嘆や礼賛など心地よい言葉にばかり浸り、視点や主義主張の異なる意見に耳を傾けられなくなっている。一時期は尊敬していた人物もいるが、もはや「終わった人」「ロートル」「老害」なんだな、と思う。そんな相手とは金輪際、接点を持たなくてもなんら問題ない。

百歩譲って、家族や友人などごく限られた人々しかいない、クローズドな環境での雑談程度であれば、自分本位で狭量な批評、無責任で乱暴な批判も許容されるかもしれない。しかし、SNSのように開かれた環境で批評や批判を口にするのであれば、くれぐれも慎重になるべきである。

■人間の「欲深さ」を前にして、性善説は通用しない

今回の一件を受けて、改めて人間の醜さを痛感してしまった。そして「善意」に基づいたSNSの利用には限界があると再認識した。

最近、「納豆ご飯セット一生涯無料パスポート」を1万円で提供するという納豆定食屋のクラウドファンディングが炎上し、ネットで話題になった。当該の納豆定食は通常600円なので、「17回食べれば元が取れる」とアピールし、多くの出資者が集まった。ところが、店に来ても無料の定食だけを(1日1回という制限はあるが)16回連続で食べ続ける人など、他のメニューを注文しない客ばかりが来訪。店側は「信頼性が損なわれた」として、パスポートを無効にしようとしたのだ。

おそらく店側は「いくらなんでも、毎回無料のものばかり食べるワケないよね~♪ 1回無料で食べたら、5回くらいは有料のものも食べて応援してくれるよね~♪」などと想定したのだろう。だが、これは店の認識が甘すぎだ。あまりにも性善説に立脚しすぎている。

私のように、これまでの経験からネットの性善説をほとんど信じていない人間からすると、この状況は「そりゃ、そうなるだろうな」としか思えない。寄付した人は、善意を持つ人ばかりではない。「とにかく、少しでも安くメシが食いたい」「タダでOKといったのはそっちだろ。無料メニューだけ注文してなにが悪い」「自分さえ得することできれば、他は知ったことではない。店が損しようがどうでもいい」などと考える人間は、想像以上に多いのだ。どんなにクラウドファンディングの目的としてキレイごとを並べようとも、そこに信頼関係は存在せず、ただ人間の欲だけが渦巻いていたのである。

■人の善意はそう簡単に期待できない

どうしても性善説を信じたいのであれば、前提条件を考える必要があるだろう。

相手から善意や好感を引き出したいのであれば、そこに至るまでに良好なコミュニケーションを積み重ねて、お互いに「この相手のことは裏切れない」「この人、本当に頑張っているな。応援したいな」「この人と対話するのは心地よいな」「この人の好意に自分も応えたい」などと思えるような信頼関係を構築しておく必要がある。要するに、人の善意はそう簡単に期待できないということだ。見ず知らずの人間どうしが唐突にネット上でやり取りする程度では、善意と信頼感に基づく関係性など築けるはずもない。

私はSNSが普及してから、ネット上で相手との距離感がつかめない人間が増えているように思えてならない。対話にしても、信頼関係の構築にしても、自分の発言に対する責任感にしても、キモになるのはとどのつまり、相手との距離感である。それがわからないから、いきなり距離を詰めてなれなれしくしたり、勝手に憤って攻撃してきたりするのではなかろうか。

■「本当に大切な人」とのつながりを大切に

郵便にしろ、電話にしろ、インターネットにしろ、遠距離通信とは相手との距離を埋めるために発達したツールである。それらは本来、人を傷つけるためのツールではない。互いに信頼感を持てる者どうしがつながるためのツールなのである。

たしかに、インターネットは人間のコミュニケーションの幅を広げてくれた。以前であれば知り合う可能性がなかった人間どうしがつながれるようにもなった。とはいえ、見ず知らずの人間と無理してまでつながる必要はないのも事実だ。SNSの出現により、本来聞く必要がないようなノイズをイヤでも意識せざるを得なくなり、付き合う必要がないようなバカの相手をしなければならなくなった。

ここで改めて問いたいのは、あなたにとって、本当に大切な人は誰か、ということだ。

冷静に考えてみれば、それほど多くは存在しないだろう。信頼できる家族や心から尊敬できる友人、自分を本当に評価してくれる仕事仲間や取引先の担当者……せいぜい10~20人くらいではないだろうか。別に少なくても構わない。数人もいれば十分だし、1人、2人でもいてくれれば救われるはずだ。

そうした人々とのつながりを大切にしながら生きていけば、それだけで十分、幸せを感じることができる。本当の充実感が得られるかどうかは、日常のなかにある、ささやかな幸せを感じることができるかどうかで決まる。逆にいえば、現実的で、身の丈に合った日常を大切にできない者は、絶対に幸せにはなれないのである。

■ネット上で誰かを攻撃しているだけでは幸せになれない

人と人とのつながりには、実際に会って、直接言葉を交わした者どうしでなければ共有できない感覚がある。その肌感覚を大事にすることが、互いの信頼感を深めてくれる。どんなにSNSで頻繁にやり取りしようが、ネットを介したコミュニケーションには限界があるだろう。

私が以前から「どんなにネットが発達しようとも、SNSが隆盛を極めようとも、人生の軸足は現実の日常生活に置くべきである」と主張しているのは、いま述べたような理由からだ。ネット上で、まともに対話したこともない相手のことを一方的に攻撃しているだけでは、あなたは絶対に幸せになれない。ましてや今回の一件では、ひとりの人間が自ら命を絶ってしまったのだ。その重大さを本気で認識しなければならない。

ここからは少し余談になるが、先日、リアルなつながりのありがたさをしみじみと実感するような出来事があった。

私は1987年から1992年まで、父の仕事の都合でアメリカに住んでいた。父にはミスター・グリーンという素晴らしい上司がいた。父はグリーンさんのことを尊敬し、グリーンさんも父のことを非常に信頼してくれていた。

そのグリーンさんには娘さんがいるのだが、在米時、私はその娘さんと数回会ったことがある。当時、私は10代半ばの小僧で、彼女は20代半ばの“すてきなお姉さん”という印象だった。彼女も“父親が信頼する部下の息子”ということで私をかわいく思ってくれたのか、会ったときはとても親切にしてくれた。

■30年ぶりの会話で再認識する、信頼関係の本質

この連載でも以前書いたように、私は今年8月いっぱいでセミリタイアすることを決めている。その後はビザが取れて入国できれば、しばらくアメリカで暮らす予定だ。この渡米に関連して、30年ぶりに、グリーンさんの娘さんに連絡を取った。

彼女は、私が暮らしたいと考えているシカゴの近郊に住んでいる。それがわかっていたので、「近々、そちらの“ご近所さん”になるかもしれません」「いろいろと相談に乗ってもらえたら嬉しいです」とメールで伝えた。その後、「WhatsApp」という無料通話アプリで会話もしたのだが、彼女は私の渡米をとても歓迎し、「不動産屋巡りとか、私で手伝えることがあれば、何でも遠慮なく頼ってね」と申し出てくれた。本当にありがたいと思うと同時に、「やはり、直接会ったことがある相手とのつながり、相手に抱いた信頼感は、たとえどんなに時間を置いても、距離が離れていても、失われることがないのだな」と痛感した。

信頼関係とは、そういうものなのだと思う。

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【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」
・ネットを介して一方的に罵詈雑言を投げつけ、自殺にまで追い込むような所業は絶対に許されるものではない。
・開かれた場での発言には、責任が伴う。言いっぱなしで逃げるような態度は、極めて醜悪で、卑怯である。
・SNSで性善説を信じるのは、あまりに楽観的すぎる。
・人生の軸足は、ネットではなくリアルな日常生活に置くべきだ。

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中川 淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
ネットニュース編集者/PRプランナー
1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライター、「TVブロス」編集者などを経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』『バカざんまい』など多数。

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(ネットニュース編集者/PRプランナー 中川 淳一郎)

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