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80代の元パチンコ店員「コロナ禍の無慈悲なパチンコ叩きは戦前と一緒だった」

プレジデントオンライン / 2020年6月16日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tupungato

■今回のコロナもパチンコはどうやら生き残りました

「お爺ちゃんがいまさら話せることがあるかどうかわかりませんが」

その老紳士は指定された古い喫茶店に現れると、杖をマスターにあずけてゆったりと腰を下ろした。私は俳句の世界でたくさんの大先輩と出会う。90歳を過ぎた俳人など当たり前の俳壇、彼ら彼女らが話す昭和史などはまさに遠い歴史の彼方、羨望の偉人の逸話や文壇秘話であり、私の好奇心を刺激する。今日はこの老紳士、池田さん(仮名)から、そんな歴史の話を伺うのだが内容は違う。池田さんは俳句の人ではない。パチンコ業界の知人からの紹介で、戦後日本が作り上げたパチンコの話をしていただくことになった。

「私の先祖は士族で日本人ですが、戦後のパチンコというのは私のような日本人と民団(在日本大韓民国民団・大韓民国系の在日韓国人)、そして総連(在日本朝鮮人総聯合会・朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる北朝鮮系の在日朝鮮人)の3つの出自の人たちが作り上げて来ました。でも若い人たちの中には誤解している人も多いと聞きます。パチンコは何度も潰されかけました。公娼もそうですが、敗戦後の日本が民主化する中で消えた古い娯楽などたくさんあります。その中で生き残ったのがパチンコです。今回のコロナもどうやら生き残りました」

■昔は硬貨をそのまま入れて打っていた

池田さんは80歳を越えている。かつてはホール運営に関わっていたが、いまは引退して悠々自適、趣味は散歩で1日1万歩は歩くという。

「パチンコは面白いけど健康によくないよ、座りっぱなしは死ぬんだよ」

小さくて可愛いお爺ちゃんにしか見えない池田さんだが、なぜか緊張させられてしまうのは修羅場をくぐってきた証か。ところでこの取材、文字数に限りがあるので歴史の諸説については割愛している。また池田さんの年齢的に、どうしても現代のコンプライアンスにはそぐわない発言もある。彼らの世代には普通だったことも、今では批判を受ける発言もあるだろうがご容赦いただきたい。私たちも、数十年先には同じような目に遭う、いや、すでに80年代、90年代までの性に対する旧来的な意識のために世間から叩かれることは珍しくない。芸人のコントや発言が時代の空気にそぐわず叩かれたように。

「日野さん知ってます? パチンコの原型って、最初は硬貨を入れてそのまま打ったんですよ。これはさすがに私も明治生まれの親から聞いた話ですけどね」

■戦前、パチンコ店のほとんどは日本人の経営

そういえばパチンコではないが幼いころ、地元スーパーのゲームコーナーにそんなゲームがあったような。それは10円玉を直に入れて、その10円玉を左右に弾くものだった。うまく最後の穴に入れればガムかなんかが出てきたが、いま思えば現金を入れてそのまま弾く子供のゲーム機なんて、昭和とはいえ凄いゲームだ。

「そうそう、そんなのです。まあピンボールですね(コリント、バガテルなど諸説あり)。でもね、昔の硬貨には菊の御紋がついてたんですよ。そりゃまずいよね、菊の御紋をゲームで弾いて景品もらうなんて不敬ですよ。だから小さなボールにしたんです」

当時、不敬罪は逮捕なので当然まずい。俳句すら菊の季語でうっかり詠んだら難癖つけられて不敬にされた時代である。それ以降も規制に次ぐ規制だったようだ。

「戦前もあちこちで禁止になりました。流行りすぎて目をつけられたんですね。そのたびにお目こぼしをもらうことで生き延びました。もちろん店のほとんどは日本人の経営ですよ。朝鮮もシナ(ここでは台湾と中国の一部のこと)も日本でしたから」

■パチンコが全面禁止になった日中戦争と、現代日本

そう、とくにネット民の一部が勘違いしているが、パチンコは戦前からあり、それはあたり前のことだが韓国も、北朝鮮も存在しない時代からあった日本人の娯楽だったのだ。アメリカがピンボールとなり、イギリスがコリントゲーム(これは日本ではスマートボールになる)、日本ではパチンコとなった。まさしくパチンコは日本人が改良し、発明した日本人のものである。

「私の子どものころ、パチンコは戦争で全面禁止になりました。不要不急の娯楽ですからね。シナ事変(日中戦争のこと)あたりからだと思います。コロナと一緒ですが、国が強制できた時代でしたから、最後は全部潰れました」

国家総動員法では国の命令は絶対で、財産権も自由権も、生存権すら国によって制限できた。パチンコ禁止どころか、そもそも国の命令ひとつで誰しも命を差し出さなければならなかった。もちろん現在の日本では不可能なほどに野蛮な前近代的法律なので、このコロナ禍で同じようなことはできず、国も自治体もあくまで「お願い」をするしかなかったことは記憶に新しい。

■知られざる三点方式のルーツと韓国・朝鮮人の登場

「戦争が終わったら、みんな軍の余り物で商売を始めました。そんなときにボールベアリング(機械の回転部分に使う軸受)の玉がいっぱいあまっちゃったんで、それでパチンコを再開した人たちがいました。正村竹一さんって人がいまのパチンコ台の原型も作りました。釘と風車とポケットですね。1個1個打ってたものも連発式になりました。大ブームですよ。景品ももらえるし、とくに食料は嬉しい時代です。いくらお金を持ってても食料が手に入らない時代でしたから。パチンコ屋の前にはそんな食料を買い取る業者も現れました」

なるほど、池田さんはこの点ノーコメントだったが、俗に言う三店方式のルーツだろう。

「その業者には韓国や朝鮮の人も多かった。儲かるからやってみようということになったんでしょうね、彼らはパチンコ店自体も始めました。だから元々は日本人がやってたものが、彼らも参入してというわけなんです。朝鮮戦争が終わって、どっちの国もパチンコが儲かるから国を挙げて奨励したのもあったんでしょうな。朝鮮戦争で日本は儲けて、あちらさんはボロボロになりましたから、金が欲しい。どっちも日本とは正式に国交がないし半島は焼け野原、彼らも日本に残るしかなかったのでしょう」

■「実際に行動しないと飢え死にしちゃう」

池田さんもパチンコ店で仕事を始めた。日本人の店だったという。

「昔からイメージは悪かった。仕事しない人とか朝から集まりますからね、ナイフで脅されたり、殴られたりは普通でした。それに連発式になったら擦る額も大きくなって、勝った負けたの夜逃げとか殺傷沙汰になっちゃった。それで連発式が禁止になっちゃって、みんな廃業した。この時二束三文で店を買い取る人がいました。帰国事業で帰るって同胞の店を買い取った人もいました。経営者はあっちの国の人ばかりになりました」

池田さんの記憶なので実際とはズレがあるかしれない。また、池田さんの時代も規制で大変だったそうだ。パチンコはゲーム性で勝負するためにチューリップや「役物」と呼ばれるギミックを取り入れたが、それでも射幸性が薄い限り客足は伸びない。

「だからあっちの国の人たちとは対立もしましたけど協力もしましたよ。不当な調査が入れば税務署にみんなで押しかけたり、政治家に陳情したりね。実際に行動しないと飢え死にしちゃうもん。まあ若かった」

■あの時、日本人にとって韓国は味方だった

私自身も耳が痛い。そう、実際に行動しなければ駄目なのだ。ネットで吠えても届きはしないし叶いもしない。池田さん世代のこうした政治運動や労働運動を笑ったり、非難したりする団塊ジュニアも多いが、本来の政治参加とは連帯し、行動することだ。それにより団塊世代から上の世代が今日を勝ち取った事実は揺るがない。

「冷戦だからね、韓国は味方だった。自民党だってみんな親韓だから民団の人たちと協力しました。共産主義者から核ミサイル打たれるぞって時代でしたから」

そう、私も幼いころはそうだったが、韓国は西側勢力で味方という意識だった。軍事独裁政権で情報が限られたこと、在日韓国・朝鮮人が私の田舎には少なかったからかも知れないが、冷戦はシンプルで、敵と味方がはっきり分かれていた。池田さんに「いまのネットにいる保守の人たちは反韓が多いんですよ」と言ったら「なんで保守が反韓なの?」と笑われてしまった。

■晒し者にする手口は戦前と同じでした

自民党は親韓で、旧社会党が親北であったことは事実である。時代と言えばそれまでだが、冷戦の終結と55年体制の崩壊、新党乱立によるそれまでのイデオロギー対立のうやむやという90年代を経て、イデオロギーによる対立が単なるコメントの優劣を競うネットコミュニティのパーツになり果てた2000年代へ。パチンコはこうした社会の変遷の中でもしたたかに生き残ってきた。現在も22万人が従事する20兆円産業として日本のレジャー産業の3割近くを占める(『レジャー白書2019』より)。

「80年代はよかった。本当に稼ぎました。でもいまはまた規制規制でかわいそうです。あとを継いだ連中も苦労しているでしょう。そんな中にこのコロナ。自粛は仕方ないにしても、晒し者にする手口は戦前と同じでした。あの時ざまあみろって笑った人たちも結局ひどい目に遭いました。パチンコが気に入らないはずが、パチンコだけじゃ済まなかったんですよ。悲しいことです。パチンコ業界よく乗り切ったと褒めたいところですが、袋叩きがね、あの時代に戻ったみたいで悲しかった」

■パチンコが叩かれた時、自由が消えることのほうが怖かった。

どこか寂しそうな上目遣いでアイスコーヒーを吸う池田さん。私はすっかり背筋を伸ばして聞き入ってしまった。

実体験は何物にもまさる。私たちはこうした先人の教訓を、このコロナ禍で何も生かせなかった。これには右も左もないだろう。「隣組」やら「国防婦人会」のごとく自粛警察が跋扈し、不謹慎だと店に張り紙を貼り、あるいはネットで晒し者にした。やがて社会不安に便乗する連中の目的はコロナ関係なく「気に入らない」というお気持ち次第となり、ついにはひとりの女の子を死に追いやった。

「娯楽が自由な国ってのはいい国なんです。私だって今どきのバカバカしいテレビとか見ませんけど、ああいうのがいっぱいある国っていい国なんです。だから日本はいい国なんです。パチンコが叩かれた時、私は自分の会社がどうなるかより自由が消えることのほうが怖かった。私はその結果を知ってますから」

■パチンコ叩き、人間叩きの教訓をどう生かす

先人の言葉はひたすら重い。ライブハウス、パチンコ店、そして人間——「歴史に学ばない国民は滅びる」そう言った吉田茂も池田さんと同様、身を持ってこの恐ろしさを知っていた。

私は、パチンコは打たない。しかしバカバカしいテレビの自由を認める池田さん同様、自分が打たなくともパチンコの自由は守られるべきだと思っている。でなければ池田さんの危惧する通り、私の好きなものも奪われる、私の自由も奪われる。アメリカのような分断の地獄に堕ちることなく連帯と寛容を。あのコロナ禍のパチンコ叩き、人間叩きの教訓をコロナ後、これから襲い来るかもしれない第2波へと生かすために。

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日野 百草(ひの・ひゃくそう)
ノンフィクション作家/ルポライター
本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。ゲーム誌やアニメ誌のライター、編集人を経てフリーランス。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。2019年『ドキュメント しくじり世代』(第三書館)でノンフィクション作家としてデビュー。近刊『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)。

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(ノンフィクション作家/ルポライター 日野 百草)

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