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「不動産界のダイハード」宗吉敏彦が運用資産4000億円からすべてを失うまで

プレジデントオンライン / 2020年8月26日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pondsaksit

不動産会社クリードを率いる宗吉敏彦氏は、「不動産界のダイハード」と評されている。クリードは、リーマンショックに巻き込まれて、2009年に負債650億円で「黒字倒産」。しかしその後、舞台を東南アジアに移し、奇跡の復活を遂げた。日本経済新聞記者の前野雅弥氏は「(宗吉は)稲盛和夫や孫正義に匹敵する男だ」という。その破天荒な半生とは——。(第1回/全2回)

※本稿は、前野雅弥、富山篤『アジア不動産で大逆転「クリードの奇跡」』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■不動産界の「ダイハード」、宗吉敏彦という男

久しぶりである。話を聞いていてわくわくするような男に会ったのは。

77個の衛星を使って世界中を結ぶ「夢の通信システム」の構築を目指した京セラの稲盛和夫、10兆円というとてつもない規模のファンドを運営、売上高200兆円を目指すソフトバンクの孫正義。彼らが目を輝かせながら語る話は、黙って聞いているだけで胸がときめいた。

クリードの奇跡の主人公、宗吉敏彦(55)もそうだ。2009年1月9日、リーマン・ショックに巻き込まれ650億円の負債を抱えて「倒産」、いったん経済の表舞台から姿を消したものの再びアジアで復活したかと思ったら、世界的な新型コロナウイルスの感染拡大で日本に引き揚げてきた投資マネーをすくってさらなるビッグビジネスに挑もうとする。

まさに「ダイハード」。わくわく感だけなら決して負けない。稲盛や孫に匹敵する男なのだ。1年のお小遣い数千万円——。現在の話ではない。宗吉の大学生時代の話だ。宗吉はこのお小遣いを自力で稼いだ。「規格外」は学生時代からだった。

当時、宗吉は早大理工学部の学生。1984年に落第すれすれで私立武蔵高校を卒業、2年ぶらぶらした後、大学に入ってみると世はバブル真っ盛り。学生も浮かれ日々、パーティー三昧だった。宗吉はここに目を付けた。

ディスコのパーティー枠を手付金を支払って1年分押さえ、その枠を学生サークルに転売、その鞘(さや)を抜いていったのだった。今思えば自分で仕入れたスペースを第三者に転貸する「サブリース」、「スペースブローカー」のディスコ版。不動産業だった。年商は1億円。「卒業後もしばらくやってみようか」。そう思ったこともあったという。

■伊藤忠のサラリーマンから独立

とはいえ、一生やっているわけにもいかず、「世界を見てみよう」と総合商社の伊藤忠商事に就職した。希望の海外勤務はかなわなかったが、結果的にはここでの経験が良かった。

当時、伊藤忠では部門ごとに独立採算をやっていて、それぞれバランスシート(BS)や貸借対照表(PL)、資金繰りを持ち、新入社員がそれらの経営指標をつくる。

取引先の社長とは一緒に経営計画を作成したり、バブルがはじけてからは資金繰りに頭を抱えながら再建計画を組み立てたりした。売上高数十億円から数百億円の企業の経営を、経営者と同じ立場で一緒に悩むことで学んだ。

1996年6月、宗吉は7年間務めた伊藤忠を辞め、武蔵の同級生で公認会計士だった松木光平と株式会社「クリード」を立ち上げる。当時、バブルが崩壊したばかり。不動産マーケットは荒れていた。

■バブル崩壊後、荒波の中の船出

企業は財務体質を改善するため手持ちの資産の売却に動いていた。オフィスからマンション、商業施設、社宅やスポーツ施設など市場には売り物件が溢れていた。

また金融機関は不良債権の山で、その多くが「半値8掛け5割引き」。ピーク時の1~2割の価格にまで下がっていた。1980年代後半のバブル期では考えられない値段だった。

これを買いに来たのが欧米の外資系投資ファンドや投資銀行だった。外資系投資ファンドはみんな同じことを知りたがった。「売却するときに、誰が何の目的でいくらで買うのか。売却までにかかる時間とコストはどのくらいか」。

そしてこうだった。もしその不動産が適正な運用をされていたらいくらが適正価格なのか、その不動産を適正化するのにかかるコストや時間はどれくらいなのか、更地であれば誰がどういう目的で買うのか、その時の価格はいくらが適正なのか。不法占拠者がいるのかいないのか、いるなら強制退去は可能なのか、そのコストは……。誰も答えられなかった。今で言う「デューデリジェンス(収益還元法)」での不動産の評価だった。

■デューデリで運用資産4000億円に

当時は誰もそれを知らなかった。しかし宗吉はやった。誰もやらないからこそ、結果も非凡なものとなる。だからこの時も日本で誰もその言葉すら知らないデューデリジェンスを宗吉はやった。

「バブル崩壊に伴って、日本の不動産マーケットは抜本的に変わった。不動産の価値はその不動産そのものではない。その不動産が将来生み出すキャッシュフローから決まる。きっと自分たちは日本でその大転換に最初に気づいた」

そもそも、この仕事は宗吉に合っていた。宗吉は数字にはめっぽう強かったし、データで物事を考えるのが好きだった。オフィスや商業施設、マンションなど不動産が稼ぐ力をデータで算出していき値付けする仕事は新鮮で面白かった。寝る暇も惜しんで日本全国を飛び回り、土地を見て回り算定していった。顧客はどんどん増えていった。

そのうち人にアドバイスしているだけでは満足できなくなった。自分でも投資を手がけたくなった。「コンサルティングができるなら自分でも投資できるはず」。

その後、事業は急成長した。設立5年目の2001年に当時のナスダック・ジャパン市場に上場、2004年に東証2部、翌2005年には東証1部に上場した。ピーク時には連結総資産は1200億円に達し、運用資産約2000億円の私募ファンドと、グループでの運用資産の規模は、約4000億円余りとなっていた。

■リーマンショックによる貸し剝がしが直撃

しかし、そこまでだった。2007年から米国ではサブプライムローンの問題が騒ぎ立て始められ、2008年9月5日、米国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングスが経営破綻すると、これが引き金となり経済の歯車は逆回転を始めた。

銀行はグズグズしなかった。これまで果敢に攻めの融資を展開してきた銀行は資金ショートを恐れ、一気に180度身を翻した。その変わり身の早さだけは前回のバブル崩壊とは全く違った。追い貸し、金利減免、人材派遣……。前回のバブル崩壊後の不況期には、銀行は融資先にあの手この手を差し伸べたが、今回はそれがなかった。

それどころか、銀行はただただ資金を回収して回った。不動産会社というだけで狙われ、銀行は融資を貸し剝(は)がして回った。ニューマネーの供給を銀行が止めるのは仕方がないとしても、それだけでは終わらなかった。銀行自身、我が身を守るのに必死で何でもやった。

ほぼ実態は恐慌に近かった。「あの会社、経営が苦しいらしい」。噂が立つと翌週には本当に経営が厳しくなった。「なんだか危ないらしい」。さらにその翌週、今度は資金が回らなくなり、身動きができなくなった。

■負債総額は650億円、黒字倒産

ブラックフライデー——。いつの間にか、こんな言葉がささやかれるようになった。東京証券取引所では毎週、金曜日になるとカタカナ系の不動産会社のトップが倒産会見するのが通例となった。黒字の会社ですらマネーの蛇口を止められ、破綻した。

「資金繰り破産」。そんな言葉が当たり前に、あちこちで聞かれるようになった。もはや企業の実態やビジネスの中身は問題ではなかった。

不動産会社であるか、そうでないのか。名前がカタカナなのか、そうでないのか——。それがすべてだった。銀行は我先に不動産市場からマネーを引き揚げようと死に物狂いだった。

宗吉敏彦が率いるクリードもそのなかの1社だった。カタカナ系、そして不動産会社……。狙われる要素をきっちり備えていた。「クリードさんは大丈夫。うちが支えます」。リーマン・ショックの前後、クリードと取引のある銀行のいくつかは最初、そう言っていた。その言葉に宗吉もいったんは胸をなで下ろす。

しかし、事態はたった数週間で一変する。銀行自身が危ない。あっという間にクリードはまる裸になった。なす術(すべ)はなかった。2009年1月9日、クリードは東京地方裁判所に会社更生の手続き開始を申し立てた。

単体の負債総額は650億円。2008年5月期の連結業績は売上高が423億円、経常利益が74億円、最終利益が27億円。いわゆる黒字倒産だった。クリードの第1幕が下りたのだった。

■シンガポールからの捲土重来

第2幕はシンガポールで上がった。2011年。「もはや日本には未練はない」。宗吉は東京から自宅をシンガポールに移し永住権を取得、ゴルフと読書の日々を送りながら牙を研いでいたのだった。

当時、宗吉がぼんやりと狙いを定めていたのがマレーシア。ジョホール州で道路や下水道などインフラを整備、東京都とほぼ同じ面積の広大な土地を開発する「イスカンダル計画」が動き始め約5年が経過していた。

前野雅弥、富山篤『アジア不動産で大逆転「クリードの奇跡」』(プレジデント社)
前野雅弥、富山篤『アジア不動産で大逆転「クリードの奇跡」』(プレジデント社)

「一敗地にまみれた日本ではまだ信用はない。しかし新天地のマレーシアなら法的整理をした会社だとか、過去のことなんか、気にする奴らもいない」

そう感じていた宗吉は、マレーシアの政府が進める巨大プロジェクトに目をつけた。国家プロジェクトなら必ずインフラ整備は進む。そうなれば不動産価値は上がるはず。周辺で2億~3億円を投じ、2ヘクタール程度の土地を取得、宅地開発を画策していた。

たまたまディナーを共にしていた旧知の仲の投資家、村上世彰にそれを伝えると、村上は間髪入れずにこう言った。

「チマチマやってないで、ガツーンと行きなよ。ガツーンと」

宗吉の本当の挑戦が始まった。舞台はアジアだった。(続く)

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前野 雅弥(まえの・まさや)
日本経済新聞記者
東京経済部で大蔵省、自治省などを担当後、金融、エレクトロニクス、石油、ビール業界等を取材。現在は医療、不動産関連の記事を執筆。著者に『田中角栄のふろしき』(日本経済新聞出版社)がある。

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(日本経済新聞記者 前野 雅弥)

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