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本当は50歳まで現役を続けたかった野村克也が引退を決めた理由

プレジデントオンライン / 2020年9月7日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/EHStock

野球評論家の野村克也氏が、今年2月に逝去した。84歳で亡くなった名将は「本当は50歳まで現役を続けたかった。ずっと野球のことばかりを考えて生きてきたが、それはきっと死ぬまで続くだろう。ヘタをするとあの世へ行ってからも考えてるかもしれん」と語っていた――。

※本稿は、野村克也『老いのボヤキ 人生9回裏の過ごし方』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■ユニフォームを脱ぐ日は必ず来る

いくつになっても野球を続けたい。野球を生業とする者ならば、誰もがそう思っているだろう。できるところまで続けたい、体が動く限りは続けたい。

だが、そう簡単にはいかない。打てなければ、投げられなければ、選手生活を続けることは叶わない。打てない、投げられない選手を何人も雇っておけるほど球団に余裕があるわけではないからだ。成績が伴わなければ、戦力外通告を受ける。どんなに続けたいと願っても、辞めざるを得ない。

そしてもうひとつ、年齢が上がれば上がるほど、野球を続けることは難しくなる。絶好調だった頃と比べ、どうしても肉体的な衰えを感じることとなる。ピークの年齢を過ぎると、体力を回復させることさえ大変だ。ケガの予防のためにも、試合後のケアに時間をかけ、入念に行うようになると、多くのベテラン選手が口をそろえて言っている。

時代と年齢には勝てない。これはその通りだ。加齢によるさまざまな衰えには絶対に勝てない。ピークを少しでも長くすることはできるかもしれないが、それは一時しのぎでしかない。いずれはユニフォームを脱ぐ日が必ず来る。

■「このまま引退かも」42歳の弱気

その日をできるだけ延ばしたくて、大いに悩んだ時期があった。42歳の頃だ。

南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)で選手兼監督をしていた時期だが、沙知代との交際が明るみになり、監督を解任されることになったときだった。「もっと野球をやりたい、俺はまだ野球ができる」と思っていた。

しかし南海を出て行くとなると、本当に野球を続けられるのか不安に襲われた。移籍できなければ、このまま引退かもしれない……。弱気の虫が顔をのぞかせた。

■晩節を汚すだけ? いいや、「生涯一捕手」だ

そんなとき、声をかけてくれた球団があった。ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)だ。年俸は南海の頃の8分の1ほどになると言う。周囲の人間は、「晩節を汚すだけだ」と言って反対した。

野村克也『老いのボヤキ 人生9回裏の過ごし方』(KADOKAWA)
野村克也『老いのボヤキ 人生9回裏の過ごし方』(KADOKAWA)

悩んだ私は、尊敬する評論家の草柳大蔵先生に相談した。草柳先生は沙知代が紹介してくれた方で、私は師と仰いでいる。草柳先生は、「大いにやるべきでしょう。禅の言葉に“生涯一書生”という言葉があります。人間、何かを求めている限り、生涯勉強です」と言ったのだ。その言葉を聞いて、迷いが一瞬にして去った気がした。

「それでは私は“生涯一捕手”でいきます」

私の言として有名な「生涯一捕手」は、このとき生まれたのだ。

結局、私はロッテに選手として移籍した。翌年には西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に移籍すると、2年間プレーしたのちに引退となった。

せっかく現役を続けられるチャンスがあるのに、それをしない理由はない。やっぱり野球が好きなんやな。どんな状況、どんなチームであっても、自分の体が動いて、必要とされる限り、一捕手としてその人生を全うしたい。ボロボロになっても、最後まで一捕手としてありたいと願っていた。

捕手=キャッチャーは、非常に面白いポジションだと思っている。知れば知るほど奥が深い。その面白さに気づいたのは日本シリーズを体験してからだ。1球も失敗できない。打たれたら終わり。そのギリギリの駆け引きが実に面白かった。30歳以降にそれに気づいたから、もっともっと捕手を究めていきたい気持ちがあった。

生涯一捕手である思いは、84歳の今も変わらない。野球を見るときはキャッチャー目線で見るのが常だ。だから、「今のリードはおかしい」など、捕手に対するボヤキが止まらない。「俺だったらどうやってリードするか?」と考えを巡らせる。捕手としての学びはいまだ続いている。

■ユニフォームを脱ぐと決めたのは自分だった

45歳のとき、私は現役生活に別れを告げ、ユニフォームを脱いだ。正直、もっと野球をやりたい気持ちはあった。50歳までは何とか現役で頑張りたいと思ってたんや。

でも、それは無理な話だった。誰かにハッキリと言われたわけではないが、周囲の人間たちが、「そろそろ……」と思っているであろうことは感じていたからだ。「引き際を意識したほうがいいかもしれん」と思うことも増えていった。

それでも、「俺にはまだやれる」という自信があった。確かに、バッターとしての成績は落ちてきていた。以前はスタンドまで飛んでいた打球が、手前で落ちるようになってきたこともわかっていた。それでも現役にこだわったのは、キャッチャーとしての技術が衰えたとは思えなかったからだ。

守備範囲が広くないので、歳を重ねてもキャッチャーは務まると私は考えている。何より経験を重ねていくことで、相手選手の情報量も増え、配球やリードについての考え方も深まり、どんどん味が出てくる。

この点は、若手キャッチャーも簡単には真似できないだろう。さすがに衰えが顕著になってきた肩については、距離がダメな分をスピードでカバーするためにスローイングの練習を毎日行うなど、できる工夫を凝らしていた。

そんなわけで、少しでも長く選手として活躍したいと思ってやってきたのだが、監督やフロントの判断は違った。少しずつ控えに回ることが多くなっていき、西武に2年在籍したが、現役引退することになった。

引退を決意した理由は、まわりの空気を察したからでも、控えの回数が増えたからでもない。私自身の意思で決めたことだ。

■チームの勝利ではなく、失敗を願ってしまい愕然

忘れもしない、1980年9月28日の阪急ブレーブス戦、8回裏のことだった。

私ははじめて代打を出された。1アウト満塁、1点を追う状況で、犠牲フライで同点という場面だ。外野フライなら打てる自信があった。しかし、監督は代打を告げたのだ。

代わりに打席に入ったバッターに、「失敗しろ」と私は無意識に念じていた。結果、ショートゴロの併殺打に終わり、「ざまあみやがれ」とそのときは喜んだ。

だが、帰りの車中で気づいたんや。

「俺はチームの勝利ではなく、失敗することを願っていた……」と。

それまでずっと、個人の成績よりもチームの勝利を第一にすることを信条としてきた。兼任監督のときには選手たちにも、「チームの勝利が第一」と何度も伝えてきた。それを忘れて、自分の代わりに出たバッターの失敗を願っていたのだ。

愕然としたが、これはもう潮時だと感じた。これ以上続けても、自分の出番を優先したいと思うことで、いずれチームに迷惑がかかることが目に見えた。

■やっぱり50歳までは現役でいたかった

翌日、私は監督と球団代表に引退の意思を伝え、その年で引退となった。

個人の活躍の前にチームの勝利が絶対だ。それを忘れたら終わりである。

それにしても、50歳までは現役でいたかったなぁ。

後に続く選手たちのために、「頑張ればあの年齢までできるんだ」「俺もまだまだやれるぞ」という指標になりたかった。

試合ごとに万全の準備をして結果を出し、ケガをせず、常に勉強熱心にして練習を怠らない。その姿勢があれば、プロ野球選手は長く続けられるものだと身をもって証明したかった。

ただ、ベテラン選手がいつまでも現役でいいのか、という議論もある。新陳代謝がはかられないと、若手の成長も鈍くなる。

キャッチャーなどはそれこそ経験が重要になってくるポジションだ。大ベテランのキャッチャーがずっと一軍でマスクをかぶっていたら、次の世代を担う若手キャッチャーの育成が難しくなる。試合には勝たなければいけないが、若手に経験を積ませることも不可欠だ。この按配がなかなか難しい。

ベテランキャッチャーが引退した途端、弱くなるチームではいけない。世代交代をいかにスムーズに進めていくか、チーム全体の采配がものを言うだろう。

■学生も社会人も、試合はなんでも見ている

現役を退いてから39年、監督業を終えてから10年が過ぎた。プロ野球の現場からは離れたわけだが、解説や評論の仕事は続けているので、野球との関わりがなくなったわけではない。

球場に足を運んで観戦するのは、年齢的にも体力的にも難しくなっているが、テレビ観戦は欠かさない。プロの試合はもちろん、甲子園などの学生野球も社会人野球も、野球の試合であれば何でも見ている。

試合を見ながら、「そんな配球じゃいかん」「ここはストレートやろ」「キャッチャーは何をしとるんじゃ?」と、ひとりで采配についてあれこれボヤいていることは珍しくない。そういう意味では、数多くの野球ファンと変わらないかもしれん。

■それでもまだ、野球のこと考えるもんなんだ

実際、今でも野球のことばかり考えている。自分がもう二度とマウンドに戻ることはないとわかっていても、それでもまだ野球のことばかり考えるもんなんだ。

「今のプロ野球界、どう思いますか?」「メジャーに挑戦する○○選手について一言お願いします」「今年の優勝予想は?」など、最新のトピックについて取材されることもあるため、常に野球の情報には触れておかなければいけない。いつ聞かれてもコメントできるように準備も必要だ。

そんなことをしているわけだから、日々野球のことばかり考えてるわけだ。

いくつになっても野球は楽しい。自分でプレーできなくても、野球は頭を使うスポーツだから、頭がハッキリしているうちはいつまでも楽しめると思う。

体が思うように動かなくても、頭の中で試合はできる。それこそ、私は現役時代と監督時代に、頭の中で毎日試合を行っていた。想像試合と反省試合だ。その日の試合前にどうやって勝つか、試合展開を想像した。

「これなら勝てる」と思っていざ本番の試合に臨む。試合後、勝ったときも負けたときも、何が良くて何が悪かったか、反省を踏まえて試合を振り返る。こんなふうに、実戦を含めて1日3試合していたわけだ。自分の頭の中だけでも試合はできる。そういう意味でも、野球は年齢に関係なく楽しめるものだろう。

もうずっと野球のことばかりを考えて生きてきたが、それはきっと死ぬまで続くだろう。

ヘタをするとあの世へ行ってからも、野球のことを考えてるかもしれんな。

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野村 克也(のむら・かつや)
野球評論家
1935年、京都府生まれ。54年、京都府立峰山高校卒業。南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)へテスト生として入団。MVP5回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回などの成績を残す。65年には戦後初の三冠王にも輝いた。70年、捕手兼任で監督に就任。73年のパ・リーグ優勝に導く。後にロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、西武ライオンズでプレー。80年に現役引退。通算成績は、2901安打、657本塁打、1988打点、打率.277。90~98年、ヤクルトスワローズ監督、4回優勝。99~2001年、阪神タイガース監督。06~09年、東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。

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(野球評論家 野村 克也)

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