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ノムさんが円形脱毛症になるほど苦手だった講演会をやり続けたワケ

プレジデントオンライン / 2020年9月10日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tomwang112

苦手なことからは逃げたくなる。苦手なことより得意なことに集中しようとの風潮もある。しかし、今年2月に逝去した名将・野村克也さんは「苦手なことでも、無理してやっていればいいことがある。苦手で仕方なかった『人前で話す』ことから逃げなかったおかげで、生涯野球に携われた」と語っていた――。

※本稿は、野村克也『老いのボヤキ 人生9回裏の過ごし方』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■理論に自信はあったが、うまく話すことができなかった

現役を引退すると、私は野球評論家として活動し始めた。

野球に関する知識や理論には自信があったので、それを生かせる仕事を考えたときに野球評論家が一番いいと思ったからだ。選手兼監督としてもやってきたので、選手の目線からも、監督の目線からも語ることができるわけだ。

ところが、ひとつ問題があった。それは、自分の理論に自信はあったものの、それを人にわかりやすく伝えることができなかったことだ。現役時代も日本シリーズのゲスト解説などを何度かしていたので多少はできると思っていたが、元来口下手、コミュニケーションが苦手なもんだから、これがなかなかうまくできない。

評論家になってはじめての講演会のことだ。前日に話す内容を考え、3枚のメモにまとめてから本番に臨んだ。しかし、持ち時間90分のうち30分を過ぎたところで、用意していた内容をすべて話し終えてしまった。残りの時間は質疑応答に切り替えて何とか時間をつないだが、恥ずかしいやら、情けないやら。講演会が長く感じられて仕方なかった。

■「沙知代は俺を殺す気か?」

確かな理論や知識があっても、それを多くの人たちにわかりやすく伝えられなければ意味がない。野球に詳しくない人が相手のときにも、すぐに理解できる言葉、説明で伝えなければならない。さらには、聞いてもらった相手に、「面白い」「興味深い」などと思ってもらえることが望ましいわけだが、これが本当に難しい。

野村克也『老いのボヤキ 人生9回裏の過ごし方』(KADOKAWA)
野村克也『老いのボヤキ 人生9回裏の過ごし方』(KADOKAWA)

何度か壇上に立ってもうまく話せず、すっかり自信をなくした私は、「俺には無理だ。もう講演会は断ってくれ」と、スケジュール管理をしてくれていた沙知代に言った。だが、沙知代はそれからもどんどん講演会の依頼を受けた。上達しない講演会の自分が嫌になり、一時はプレッシャーからか円形脱毛症にもなった。

それでも、沙知代は次から次に講演の予定を入れていく。「講演会はやりたくない」といくらボヤいても、「声がかかるということは、それだけ期待されているということよ。応えるのが当然でしょ」と言って取り合ってくれない。

1日2回は当たり前、多いときは年間に300回は講演会をやっていたと思う。無茶なスケジュールをサッチーに組まれてヘリコプターで移動したこともある。「沙知代は俺を殺す気か?」と文句も出るくらいの忙しさだった。これだけやってれば、そりゃあ田園調布に家も建つわけだよ。

■野球以外については知らないことばかり、だから本を読む

気の進まない講演会の仕事がどんどん増えていっていた頃、自分の知らないことが世の中には非常にたくさんあると気づいた。

私は野球のことならいくらでも話せる。南海時代、マンションが隣同士だった江夏豊とは、毎晩夜遅くまで野球談議に花を咲かせたもんだった。私は来るもの拒まずのスタンスなので、野球の話をしたいという人がいれば応じてきた。落合博満は向こうから声をかけてきてくれ、ときには話し込むこともあった。

しかし、野球以外のことについては知らないことばかり。何かをたとえようと思っても、野球のたとえしかできない。逆に、野球のことを一般的な話に置き換えるようなこともできない。講演のメインは野球についてといえど、これでは話に広がりが出てこないだろう。

どうしたものかと悩んでいたとき、沙知代が以前言っていた、「野球選手も本くらい読まなきゃダメよ。いい本を読めば、それが野球にも生きるんだから」という言葉が頭に浮かんだ。

「読書、やってみるか」と思い立ち、もっといろいろな見識を深めて自分の知識を増やそうと思った。草柳先生にも助言をいただき、私は早速読書に精を出した。

■ピンときた言葉をメモしてまとめて引き出しを増やす

読んだ本は、誰もが知るような名著、偉人の伝記や歴史物など幅広いジャンルにわたった。『論語』をはじめ、中国のことわざなどをまとめた中国古典は特に好きで、かなり読み込んだ。長い年月をかけて大勢の人に読まれ、支持され続けてきた本には普遍的な内容が必ず書かれているものだ。

ピンときた言葉、心に響いた言葉があると、片っ端からメモを取った。とにかくメモして、改めてノートにまとめ、それを壇上で話せるように暗記した。こうして自分の頭の中に野球以外の“引き出し”を増やしていったのだ。

ちなみに、元プロ野球選手など、誰かの野球理論をまとめたような本を読むことはほとんどない。自分の中に野球理論ができあがっているからだ。

■ヤクルトからのオファーは苦手なことに励んだ結果

熱心に読書をするようになって、自らの野球に対する思いや考えをよりわかりやすく、明確に「言葉」にして伝えられるようになってきた。

「俺はもうバットを持つことも、ミットを構えることもできない。それなら“言葉”の世界で野球を追求してやろう!」なんて思ったわけだ。

体が使えないなら、言葉を使う。腹が決まったら徹底的だ。講演会への移動時間は読書に費やした。場数を踏むことで、講演会自体にも慣れてきた。大勢に自分の思っていることを伝えるために、しゃべり方にも気をつかうようになったし、言葉の選び方も変わった。

「素晴らしい」とまではいかなくても、「頼んだ方の期待に応えるような講演会になってきたかもしれない」と思えるようにはなった。

私の野球理論は、話術が磨かれたことにより、多くの人に説明できるものとなっていった。多少強引だったけれど、沙知代がたくさんの講演会の予定を入れてくれたおかげで、「言葉」の世界で野球を追求することができたと思っている。

苦手なんてものじゃなかった講演会という現場が、私を鍛えてくれた。そのときの経験が、その後の監督人生を後押ししてくれる力になった。

実際、講演と評論を中心にした活動は9年ほど続いたが、1989年にヤクルトから監督就任の打診を受けることになる。

何の接点もなかったヤクルトからオファーが来たのは、当時球団代表だった相馬和夫さんが私の野球理論を評価してくださったことがきっかけだった。

「あなたの野球理論を見聞きしましたが、非常に感心しました。ぜひ監督になってもらいたい。うちの選手たちに野球とは何か、本物の野球を教えていただきたい」

そんなふうに言われて嬉しくないわけがないよな。やってきたことは間違いじゃなかったと強く思ったね。

■俺から野球を引いたら何も残らない

監督の仕事を引退してからも、野球の解説や講演会を続ける生活が続いた。

「解説してほしい」「本を書いてほしい」といった依頼が絶えないため、体が動くうちはその期待に応えたいと思ってやっている。何よりも、野球が好きだからだ。

特に仕事がなければ、家でテレビを見ながらゴロゴロしている。「引退したんだから、もっと好きなことをして過ごせばいい」などと言われることもあるが、これといった趣味も私にはない。

プロ野球選手の中にはゴルフ好きの人がかなりいる。オフになると選手同士でゴルフに出かけることも珍しくない。私も若い頃には誘われて数回行ったこともあったが、それっきりだ。ゴルフにはまってしまうと、野球がおろそかになるような気がして、あえて距離を取ったのだ。

それに、体を動かす趣味はこの歳ではなかなか難しい。芸術関係には疎いので、ミュージカルを見に行くとか、美術館を巡るとか、そういった趣味もない。旅行好きというわけでもないし、家庭菜園や囲碁・将棋の類いもやらない。CDを出したこともあるので歌は歌えるし、何度かカラオケに行くこともあったが、趣味と言えるほどでもない。

結局、関心があるのは野球だけ。

そんな自分を表したのが、「野村-野球=0」という言葉だ。「俺から野球を引いたら何も残らない」ってわけだ。そのくらい野球が人生のすべてと言っていい。学生時代から野球を始め、現役時代は24時間ずっと野球のことを考えてきた。それこそ生き甲斐だろう。

■「死ぬまで働け」という沙知代の声が聞こえる

もし野球をやっていなかったらどうなっていたのか。これほどまでに野球だけの自分には、野球のない人生など想像すらつかない。沙知代が亡くなってからは、なおさら野球が私の支えになっている。野球をしていたからこそ、この年齢になっても仕事がある。

毎日テレビをただぼーっと見ているだけでは、きっとすぐにボケてくるだろう。ときどき、「仕事をするのも疲れたな」と思っても、「死ぬまで働け」と繰り返し言っていた沙知代の声がどこからともなく聞こえてくる。

趣味や生き甲斐があるということは、なんと大切なことなのか。「野球しかない」と言えばそうなのだが、それが私にはちょうどよかった。職業でもあり、趣味でもあり、生き甲斐でもある、それが私にとっての野球だ。最期のときを迎える瞬間まで、きっと野球のことを考えているだろう。

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野村 克也(のむら・かつや)
野球評論家
1935年、京都府生まれ。54年、京都府立峰山高校卒業。南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)へテスト生として入団。MVP5回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回などの成績を残す。65年には戦後初の三冠王にも輝いた。70年、捕手兼任で監督に就任。73年のパ・リーグ優勝に導く。後にロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、西武ライオンズでプレー。80年に現役引退。通算成績は、2901安打、657本塁打、1988打点、打率.277。90~98年、ヤクルトスワローズ監督、4回優勝。99~2001年、阪神タイガース監督。06~09年、東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。

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(野球評論家 野村 克也)

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