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なぜ40代の会社員女性は落ちているバナナの皮を自宅に持ち帰ったのか

プレジデントオンライン / 2020年10月15日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Olexandr Kazinskiy

不注意からパソコンにウイルスが感染し、会社の情報を漏洩させてしまった会計係の女性は、道端に捨てられたバナナの皮を目にしただけで不安に駆られるようになった。精神科医の遠山高史氏は、「社会の複雑化が心の底にある不安を増大させ、あり得ない妄想を生むようになった」と警鐘を鳴らす──。

※本稿は、遠山高史『シン・サラリーマンの心療内科 心が折れた人はどう立ち直るか「コロナうつ」と闘う精神科医の現場報告』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■なぜ人は火事が起こると現場を迂回するのか

精神を病む人々は、しばしば自分のせいではないことで、罪を負わせられることに著しい不安を示す。その不安は、関係のない出来事にあえて自分を結び付けるように働くことがある。

例えば近所で火事があると、自分が火をつけたと疑われることから逃れるため、現場をわざわざ迂回して通ろうとする。次第に自分が放火犯と噂されていると思い込み、引きこもるようになる。

こういう思い込みは「関係妄想的念慮」と言い、特定の精神病に特有の症状とされるが、最近さまざまな精神的な危機状況で起こりやすくなっている。

悪いことが起こるとその情報を自分に引き寄せ、あり得ないような関係付けをしてしまうのである。

こういった心理は、誰しもの深層心理にある不安によって引き起こされる。社会が複雑化しすぎて、善悪の判断が難しくなり、時にはメディアの増幅機能によって、些細なことで思わぬ責任を背負い込まされることもある。

そのことが人々の心の底の不安を増大させている。

そもそも、起きてしまった事件について行われる裁判も、提示された証拠を基に判決が下されるが、提示されない真実は無数にあり、新しい証拠が加われば事件の責任の所在も変わる。

良かれと思ってしたことで訴えられ、予想外の責任を取らされることもある。そこで、予めできる限りの予防線を張ることになる。

昨今の契約書が、うんざりするほど細かく取り決めてあるのも、事が起きた時に責任から逃れるための工夫であり、社会の複雑化の表れであろう。

■「バナナの皮=自分の責任」という妄想

40過ぎの真面目な会計係の女性は、自身のパソコンがウイルス感染して会社の情報が漏れ、ひどく落ち込んでしまった。

ITの取り扱いには自信があり、今まで真面目に一生懸命やってきた。それが、たかだか1回のクリックで感染を許してしまったことで自信喪失し、過剰な責任を感じるようになった。

窓際に座って孤独な女性
写真=iStock.com/bee32
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

幸い情報漏れは軽微で済んだが、一歩間違えれば大規模な顧客情報漏れを起こしていた。

責任の重大さに打ちのめされた彼女は、パソコンに触れるだけで心臓がバクバクするようになり、キーボードが濡れるほど手汗をかくようになった。そして、通りに落ちている「バナナの皮」にも不安を感じるようになった。

拾って近くのごみ箱に捨てたなら、所定のごみ袋を使わず、勝手に他の住人のごみ箱に捨てたと責められるだろう。

かといって、そのまま放置し、もし老人が滑って転んだら、拾わなかったことを咎められかねない。

近頃、監視カメラもついているのだ。結局、彼女はバナナの皮を拾って家に持ち帰らざるを得なかった。

■「ほんの些細なことで生活のすべてを奪われるかもしれない」という恐怖心

ばかばかしい関係付けともいえるが、たまたま遭遇したバナナの皮という些細な情報に囚われ、自らその責任を拾ってしまったのだ。

複雑化した今の社会では、これに似たジレンマが至るところで起きている。すでに医療の現場でも、責任を問われることを恐れ、ディフェンシブ・メディスン(防衛的医療)の傾向が色濃く出始め、過剰な検査を行って客観性を装える、データとマニュアルだけでの診療が進んでいる。

人々はこの豊かに見える時代に何か不安を感じ始めている。

ほんの些細なことで大きな罪を負わされ、給与や地位、生活のすべてを奪われるかもしれない恐怖心を抱いている。そんな深層心理があり得ない「妄想」を引き起こす。

■落ち度のない事故でハンドルが握れなくなった

まだ私が公立病院に勤めていた頃の話である。ある日、真面目なタンクローリーの運転手が「一睡もできず、車に乗ると激しい動悸が起こる」と受診してきた。

その2年前、彼が運転していたタンクローリーに、診察を終えて帰宅途上の患者が、自殺を図って道路脇から飛び込んだ。

病院前の車道での出来事だった。幸い少し肩が触れた程度で、転倒による打撲で済んだが、次の日、運転手を雇っている小さな運輸会社の社長がやってきて「医療費を払うから、事故扱いにしないよう、家族に話をしてもらえないか」と求めてきた。

運転手に落ち度がなかったとしても、人身事故となれば免停は免れない。

運転できない者に給与は払えないが、もともと真面目な奴で、子供の学費やローンも抱えており、首を切るのは忍びない、というのであった。

飛び込みは若い医師の診察直後の出来事で、病院側にも責任が無いとは言えず、私から家族に話をして事故扱いとはならずに済んだ。が、話はこれで終わらず、運転手はこの一件以来、運転に過度の緊張を感じるようになってしまった。

どんなに安全運転を心がけても、まさかの事故は起きる。それによってあわや生活の糧を失いかねないことに、恐怖を覚えたのである。真っ当に生きていても、降りかかる災厄はあるのだ、と。

彼は、日々最悪の事態を想定し、絶えず対処を心がけるようになった。

例えば、体調不良に悩む人は最悪の病、癌(私はそう思っていないが)ではないかと思い込みやすく、過剰なまでに検査に通う。

これを「不安障害」と言うが、かかる対処行動自体が、大きな心理的負荷となって本人を消耗させていることが多い。

■「過剰な警鐘」が生む不安障害という心の病

運転手は、交通ルールに過剰なほど忠実に、必死の思いで運転することになったが、これが心理的ストレスにならないわけがない。

特に彼のように真面目すぎるタイプは、最悪の事態を思い描きながら、眠れぬ夜を過ごす。しかも、運転手であり続ける限りストレスは持続する。

それに対処し続けることが彼の脳を疲弊させパニック様の発作を伴う不安障害を起こしたのである。彼が再び運転できるようになるまで実に1年半を要した。

ストレスは、その強弱にかかわらず、むしろ持続によって、ほとんど致死的な有害事象に変ずることが動物実験で証明されている。

例えば、ストレス下で放出される副腎皮質ホルモンは、ストレスへの防御たんぱくの生産を促進するが、長くその状態でいると細胞を疲労させ、逆に毒性を帯び始め、ついに脳の記憶形成を担う海馬の細胞死をもたらすことが知られている。

遠山高史『シン・サラリーマンの心療内科 心が折れた人はどう立ち直るか「コロナうつ」と闘う精神科医の現場報告』(プレジデント社)
遠山高史『シン・サラリーマンの心療内科 心が折れた人はどう立ち直るか「コロナうつ」と闘う精神科医の現場報告』(プレジデント社)

防御するはずのホルモンが有害物質に変化するのは、自然の玄妙さの一つの表れといえる。自然という予測不能の事象の集まりに対処するため、脳は文明を生み出し、ルールを作って警鐘を鳴らす。

しかし、その行為が行きすぎると逆に有害な事象を招いてしまうのだ。

メディアはありとあらゆる警鐘を発信し、人を不安に陥れる。針小棒大と感じつつも、それらに対処しなければ不作為懸念が生じ、事態の修復を上回るほどの膨大なエネルギーを使って対処することとなる。

昨今、夥しい数の不安障害患者が出現している。

予測不能の自然を克服しようとする脳の試みは、情報過多を生み、脳自身がかかる過剰な情報処理に耐えられず、不安障害に陥ってゆくのである。

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遠山 高史(とおやま・たかし)
精神科医
1946年、新潟県上越市生まれ。すぐに東京に移り、そこで成育する。千葉大学医学部在学中に、第12回千葉文学賞受賞。大学卒業後は精神病院勤務を続け、1985年より精神科救急医療の仕組みづくりに参加。自治体病院に勤務し、2005年より同病院の管理者となる。2012年、医療功労賞受賞。2017年、瑞宝小綬章受章。自治体病院退職後、2014年に桜並木心療医院を開設。現在も診療を続けている。46年以上にわたり臨床現場に携わった経験を生かし、雑誌『FACTA』(ファクタ出版)にエッセイを連載中。著書に『微かなる響きを聞く者たち』(宝島社)、『ビジネスマンの精神病棟』(JICC出版局。のち、ちくま文庫)、『医者がすすめる不養生』(新潮社)など多数。千葉県市原市で農場を営み、時々油絵も描いている。

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(精神科医 遠山 高史)

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