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10年前にコロナ流行を予言した小説家が「1日も早く英語を学べ」と訴えるワケ

プレジデントオンライン / 2020年10月23日 15時15分

小説家の高嶋哲夫氏 - 撮影=原 貴彦

小説家の高嶋哲夫氏が10年前に書いた『首都感染』が新型コロナの発生を予言した本として話題になっている。一体どうやってつくり上げたのか。イーオンの三宅義和社長が聞いた――。(第1回/全2回)

■ポストコロナ社会のヒントは、6年前の小説に書いた

【三宅義和(イーオン社長)】高嶋さんは、2010年に書かれた『首都感染』(講談社)が新型コロナウイルスのパンデミックを予言していた、として話題を集めました。これは高嶋さんの元科学者という経験が活かされたわけですね?

【高嶋哲夫(小説家)】そうですね。歴史を調べ、現在を分析し、多少の想像力を働かせれば、どんなことが起きるかは大体わかります。これは僕の多くの作品に当てはまります。

【三宅】高嶋さんからすれば、当然起こりうる話だったと。

【高嶋】ええ。いまは「ポストコロナの社会をどうするか」みたいな議論がありますが、それも2014年に出版した『首都崩壊』(幻冬舎)の中に、ある種のヒントを書いています。ひとことでいうと、「新しい日本の形を」という話なんですけどね。

■読書体験は小学校の高学年に集中

【三宅】そんな高嶋さんですが、小説家になられるくらいですから、幼少期から本の虫でいらっしゃったんですか?

【高嶋】僕の読書体験は少し極端で、小学校の高学年に集中しています。小学4年生のとき、いい先生に巡り会えて、図書室の使い方を教えてもらったことがきっかけです。図書室の児童書の棚を端から読んでいったり、家にあった少年少女世界文学全集50冊を繰り返し読んだりしました。

【三宅】素晴らしい読書の原体験ですね。

【高嶋】仲の良かった同級生と競い合って読んでいたことも大きかったと思います。でも、それ以後、小説はほとんど読んでいません。中学は海や山で遊んだり、高校時代は一応受験で勉強一筋です。小説を書き始めた30代の時点でも、古典といわれるような作品は読んだことがなかったんです。

【三宅】では、天性の才能ですね。

【高嶋】小説を書くことが、たまたま僕に合っていたんだと思います。

イーオン社長の三宅義和氏
撮影=原 貴彦
イーオン社長の三宅義和氏 - 撮影=原 貴彦

■「なんで英語の勉強をする必要があるんだろう」

【三宅】中学生以降の興味はどんどんサイエンスの方に向かわれて、慶應義塾大学の工学部に進まれています。

【高嶋】当時はNASA(アメリカ航空宇宙局)が人類史上初めて、月に人を送り込んだ時代で、ロケット工学をやりたかったんです。それにいちばん近い分野の流体力学の研究室に入りました。学部生のときはプラズマ物理の勉強をしていました。

【三宅】英語は得意でいらっしゃったんですか?

【高嶋】高校時代の英語の先生が非常に厳しい人が多く、勉強しなかったら、怒鳴られたり殴られたりは当たり前だったので、必死で勉強しました。まずは単語の暗記。一年生のひと夏をかけて、覚えました。だから読み書きはそれなりにできていたと思います。でも正直、「なんで英語の勉強をする必要があるんだろう」とずっと思っていました。英語の必要性がわかってきたのは、大学に入ってからです。

【三宅】理系だと論文がありますからね。

【高嶋】はい。英語の論文を読まないといけないし、教科書も英語で書かれたものがありました。僕はそれを訳して、コピー機を買って友達に印刷させて、大教室の授業で1冊1000円で売ったのですが、飛ぶように売れました。先生は笑って見ていました。呆れていたのかな。

【三宅】それだけ文法や単語がお出来になられたんですね。

【高嶋】読むことはできたのかもしれません。ただ当時の僕の意識としては、「言葉より内容だ」ということが強かったです。研究者の先輩から「発表の内容が優れていれば、下手な英語でも、みんな必死に聞いてくれる」と言われたことを覚えています。これは事実でしょうね。

【三宅】たしかにそうかもしれません。

【高嶋】小説もそうだと思って、日本語をおろそかにしていた傾向があります。最終的に英語での出版が目的でしたから。でも、今では後悔しています。日本の小説は、やはり日本語が大切です。英語に翻訳する場合は、英語のネイティブでなければできないと思っています。

■修士論文を英語で書く

【三宅】修士論文も英語で書かれたんですか?

【高嶋】大学院で必要な単位は最初の1年間でとって、残りの1年は通産省(現・経済産業省)の電子技術総合研究所(現・国立研究開発法人産業技術総合研究所)で実験の手伝いをしながら修士論文を書きました。

【三宅】どんな実験ですか?

【高嶋】核融合です。「地上に太陽をつくろう」という壮大な夢に惹かれて、僕の関心もロケットから核融合に移っていました。研究所にいる人たちは世界の一線の研究者ばかりで、学生の僕はずいぶん面倒を見てもらいました。修士論文を書くときに「日本語で書いても意味がない。英語で書きなさい」と言われたんです。僕は「できるかな」と思ったんですが、彼らが寄ってたかって指導してくれたおかげで、英語で書き上げることができました。その研究室はすごく刺激的で、僕も「世界に通用する研究者になろう」と強く思いましたね。

■原子力研究所から“若気の至り”でUCLAヘ

【三宅】大学院を卒業後、日本原子力研究所(現・国立研究開発法人日本原子力研究開発機構)に入られて研究員になられますが、3年で退所されアメリカに留学されています。

【高嶋】修士課程を出て、入所までひと月ありました。その間にアメリカに行ったんです。「サンフランシスコで解散して、ひと月後にロサンゼルスに集合」という大学生協が企画したフリープランの旅行です。バスでアメリカ大陸を横断しました。シカゴで世界初の原子炉を見て、メリーランドでは研究室の先輩が留学している大学を見学しました。「これは絶対にアメリカに来なきゃダメだ」と思いました。若気の至りと言うんでしょうね。日本に帰って、原子力研究所に就職しましたが、入所初日から遅刻をしてしまいました(笑)。

【三宅】超大型新人ですね(笑)。UCLAに留学というと、かなり大変では?

【高嶋】大学院で修士論文を英語で書いていたことが役立ちました。あと原研時代に書いた論文がアメリカの機械学会誌に掲載されたこともあって、それをUCLAの教授に送ったら入学OKが出ました。上司には休職を勧められましたが、「今度帰ってくるときはみなさんの前で講演します」みたいな大きなことを言って、退職しました。でもずっと後になって、本当に原研で講演をしたんですよ。「科学とモーツアルト」という自分でもよくわからないテーマですが。

■「音楽関係者で英語ができない人はいない」

【三宅】アメリカでは英語でかなり苦労されたのでは?

【高嶋】しましたね。専門分野の講義は何とかわかりましたが、議論には参加できませんでした。授業中に先生の「試験準備に何日に、補講をするよ」みたいな言葉を聞き逃して、試験は散々でした。

英語以上にショックだったのは、教授の授業にもついていけないことでした。理論物理系の授業で、黒板いっぱいに数式を書いていく。2時間の授業を懸命に聞いて、ノートに取って、帰ってノートを開いても1行もわからない。あのころほど必死で勉強したことはなかったですね。日本では「人の倍努力すれば、なんとかなる」と思っていました。でもアメリカで、「努力では超えられない壁がある」ことを知りました。上を目指しすぎたということもありますが、研究者の道は断念せざるを得ませんでした。

【三宅】そうですか。でもアメリカには4年間いらしたそうですから、いつからか慣れたわけですか?

【高嶋】英語はほとんど上達しませんでした。もっと現地の生活にどっぷり浸かっていたらわかりませんが、当時のロサンゼルスは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代で日本人だらけでした。現地で元の嫁さんと知り合った関係で、日常生活も日本語を使うことが多かった。だからリスニングは苦手なままですね。

勝手な想像ですけど、語学のリスニングは音楽と関係があると思います。複数の外国語を話す知り合いの元大学教授は、カラオケが大好きで歌もうまい。

【三宅】以前ピアノの先生と対談した際に、彼女が「音楽関係者で英語ができない人はいない」とおっしゃっていたので、音感と言語は関係していると思います。でも音感が弱い人でもリスニングの鍛え方があることは、我々の実績からわかっています。音源を上手く使って声に出す練習をすれば、聞けるようになるんです。

【高嶋】それは正しいと思います。ただ、僕らの時代には、そのような科学的にシステム化された語学教材がなかったですよね。それに語学専用ツールも。だから僕の英語力の低さは、もっぱら時代のせいにしています(笑)。

■ここ3年間で思い知った英語の必要性

【高嶋】実は、大学をドロップアウトして、日本に帰る飛行機で「二度と英語はしゃべらない」と心に誓っていたんです。でも、「これからの社会では、絶対に英語が必要だ」と考えが変わっていきました。特にここ3年間で思い知りました。

【三宅】なにがあったんですか?

【高嶋】まずは、グローバル化の進展です。その中で日本が生き残るには、英語は絶対に必要です。それに、現在の僕の夢は、自分の小説をハリウッドで映画化することです。それでハリウッド関係者とやり取りをしたり、コンテンツの英語翻訳をするようになって、再度英語にチャンレンジしています。

【三宅】素晴らしいですね。

【高嶋】アメリカの難民や不法移民の問題を描いた『紅い砂』(幻冬舎)という作品は、ハリウッド映画化を意識して書きました。登場人物に日本人はゼロ、舞台はアメリカと中南米。こういうのは日本ではあまり売れません。出版社に頼み込んで出してもらいましたが、重版はかかっていません。英語版の『The WALL』は自費出版です。アマゾンで買うことができますので、ぜひ。本の宣伝用にトレイラー(映画の予告編のようなもの)も自費で作りました。

【三宅】拝見しましたけど、本当に映画みたいなクオリティですよね。

【高嶋】老後の蓄えを叩いて大勝負をしています(笑)。少しでも世界で受け入れてもらいやすくするためにTed Takashimaというペンネームまで作っています。

【三宅】日系アメリカ人っぽいですね。

【高嶋】それが狙いです(笑)。アメリカ人が書いた、世界を舞台にした小説という体裁です。世界に出ようとすると、英語はやはり大事だとつくづく感じています。

■娘3人は中学、高校からアメリカに留学

【高嶋】作家として生計を立てはじめて感じたことは、「人には向き不向きがある」ということです。無理してオールラウンダーを目指す必要はまったくなくて、自己を知って、自分が一番生きやすい状況を見つけ、そのために必要なスキルを伸ばしていけばいい。これは僕の教育理念にもなっています。いまのグローバルな時代、英語は「生きやすい状況」をつくるために必要なスキルだと思っています。特にこのコロナ禍で顕著になったと思っています。世界はつながっている、ということです。

三宅 義和『対談(4)! プロフェッショナルの英語術』(プレジデント社)
三宅 義和『対談(4)! プロフェッショナルの英語術』(プレジデント社)

【三宅】まったく同感です。

【高嶋】以前までは「母国語でしっかりと考えられるようになることが大事」と思っていましたが、現在の世界情勢を考えると、そして自分の経験から言うと、できるだけ早い時期に英語を学ぶべきだと思います。もちろん、日本語も学んだうえでですが。

僕には娘が3人います。3人とも中学、高校からアメリカに行き、高校、大学とアメリカです。2人は僕がドロップアウトしたUCLAを卒業しました。現在2人の娘がアメリカで暮らしています。僕も子供の頃から生活の一部として英語に触れていたら、いまとは違った人生になっていただろうなとは思いますね。

【三宅】では、日本の小学校で3年生から英語を教えることになったのは賛成ですか?

【高嶋】教えることは賛成ですが、現在のシステムと先生たちでは難しいでしょう。英語を自由に話せない人が教えるには、限度がある。民間の力をもっと活用して、ネイティブの先生をもっと入れないと、結果の出る英語教育はできないと思います。

イーオン社長の三宅義和氏(左)と小説家の高嶋哲夫氏(右)
撮影=原 貴彦
イーオン社長の三宅義和氏(左)と小説家の高嶋哲夫氏(右) - 撮影=原 貴彦

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三宅 義和(みやけ・よしかず)
イーオン社長
1951年、岡山県生まれ。大阪大学法学部卒業。1985年イーオン入社。人事、社員研修、企業研修などに携わる。その後、教育企画部長、総務部長、イーオン・イースト・ジャパン社長を経て、2014年イーオン社長就任。一般社団法人全国外国語教育振興協会元理事、NPO法人小学校英語指導者認定協議会理事。趣味は、読書、英語音読、ピアノ、合氣道。

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高嶋 哲夫(たかしま・てつお)
小説家
岡山県玉野市生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)研究員を経て、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に留学。1999年、『イントゥルーダー』で第16回サントリーミステリー大賞・読者賞をダブル受賞し、本格的に作家デビュー。2010年に発表した『首都感染』が2020年の新型コロナウイルス感染症拡大を予言しているとして話題になる。

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(イーオン社長 三宅 義和、小説家 高嶋 哲夫 構成=郷 和貴)

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