学術会議の任命拒否問題くらいで「学問の自由」は死なない

プレジデントオンライン / 2020年10月20日 9時15分

記者団の取材に応じる菅義偉首相=2020年10月16日午後、首相官邸 - 写真=時事通信フォト

政府が日本学術会議の会員候補6人の任命を拒否した判断に関心が集まっている。東京工業大学の西田亮介准教授は「今回の政府の判断は問題だ。しかしその背景には大学に対する日本社会の不信がある。厳しい世論に向き合わなければ、学問の未来はない」という——。

■野党は臨時国会でもこの問題を追求する構えだが…

新政権が誕生してひとつきが経った。自民党総裁選から安倍政権の継承を掲げて、デジタル化の推進や携帯電話料金の値下げ、はんこの廃止、不妊治療への保険適用など、世論の反発が起きにくい政策を矢継ぎ早に投入している。政権の出だしも順調で、内閣支持率も総じて高く、長期政権となった前政権からの移行はそれなりに順調にみえる。

そのなかで大きな関心が高まっているのが、日本学術会議の任免をめぐる問題である。既報のとおりだが、105人の推薦リストのうち、6人の任免を政権が拒否したことから、学界のみならず、大きな反発が上がっている。ネットメディアやマスメディアでも、学問の自由の侵害か否か、そして政権最初の躓きとなるや否やと関心を集め、野党は近く始まる臨時国会でも追求する構えを見せている。

そもそも日本学術会議とは何か。概ね各先進国が設置しているアカデミーの日本版と考えられる。近年では政府からの諮問はあまり行われず、答申も乏しかったが、提言の提出やシンポジウムの開催、他国のアカデミーとの関係構築などを行ってきた。

だが、近年では具体的な制度論、政策論に関しては、同じ内閣府に設置された総合科学技術・イノベーション会議が「科学技術・イノベーション政策の推進のための司令塔」として活発な活動を行ってきた。なお日本学術会議それ自体は、研究機関ではない。

■研究者人生の後半に意識される「名誉職」に近い

日本学術会議法は以下のように定めている。

第一条 この法律により日本学術会議を設立し、この法律を日本学術会議法と称する。
 2 日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。
 3 日本学術会議に関する経費は、国庫の負担とする。
第二条 日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。

内閣府のホームページには、「内閣総理大臣の所轄の下、独立して以下の職務を行う内閣府の『特別の機関』」と記されている。事務局もそうだが、組織論としては内閣府の一機関ということになる。

1949年の設立後、会員は研究者の投票によって選出されていたが、現在の制度では現在の会員が「優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦」(日本学術会議法第十七条)し、内閣総理大臣が任命する。予算の分配を行っているわけでもなく、一般的な職業研究者の日頃の研究活動や環境ではその存在を意識するようなものでもなかった。

また210人の会員の大半がシニアの研究者で、予算が年10億円、そのうち5億円を事務局経費(事務局人件費)としていることからして、経済的、研究費的インセンティブは皆無に近い。したがって、筆者も含め、研究者が学術会議会員になることを目指して、日頃の研究活動を行うなどということはまず考えられないといえる。どちらかというと、研究者人生の後半から終盤に意識される名誉職としての性格が強いはずだ。

■「それでも圧力をかける」政治とどう対峙するのか

ここまで述べてきたような組織の性格を考慮するとき、日本学術会議が機能していた、機能していなかったかにかかわらず、あくまで日本学術会議の在り方は自律的なものが中心となるべきで、研究者コミュニティとの対話や、法改正を通じて行われるべきものであったことは疑いえまい。それらは成熟した自由民主主義国にとって、近年でこそ強権政治の台頭で揺らいでいるものの、芸術、表現、学問はそれらの自律に委ねるのが常識だった。

公共図書館の机の上に、開かれた本の上にタブレット端末とメガネがある
写真=iStock.com/Tashi-Delek
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tashi-Delek

しかし、同時に、「それでも圧力をかける」という、多くの自由民主主義国が設置し、その自律的な活動を認めているアカデミーの日本版である日本学術会議に嘴を挟もうというこれまであまりなかった狭量さを見せ始めた政治とどのように対峙するべきか。そのことが問われているのではないか。このとき、筆者は、あるかないか、もしくは生き死に例えられがちな「学問の自由」なる抽象的命題を錦の御旗の争点にしたところで、交渉上、もしくは世論への訴求を考えるとあまり有利ではないと考えている。

■大学は「役に立たない」という誤解が浸透している

残念ながら、これまできちんと自分たちについて説明することが十分ではなく、社会と信頼関係を取り結んでこなかったがゆえに、日本の研究者や大学、学問が社会から十分な信頼や評価を得られていないためだ。日本の政治、経済、社会の各セクターには、大学や研究者は実態から乖離(かいり)して、それらがもはや役に立たないという誤解が相当程度浸透してしまっているからだ。だがもちろんそれらは人文社会科学系を含めて、誤解である。

例えば文系でも、最近のAIや遺伝子操作技術の発展に際して、規制をどのように設計するか、倫理的観点をどのようにルールに反映させるか等で、明らかに「役に立って」いる。何が「役に立つか」を事前に予想するのが難しいからこそ、そしてイノベーションも定義上、予見困難だからこそ、豊かな社会であれば、それかそれを目指すのであれば、学界「も」豊かにし、自律させておくのが、成熟した自由民主主義国では経験的に当然視されてきた。このとき、もちろん社会や政治、財界との説明と対話、連携が必須であることも当然であろう。

■日本の大学は世界ランキングで下がり続けている

ところで、そんな誤解は日本にはないと評価するのであれば、過去20年における「学問の自由」の本丸における大学や研究環境における強力な、しかし少なくない誤解に基づく政治的、経済的介入の実施の説明がつかないだろう。

米中を始め、周辺国、新興国等が予算投入を活発化するなかで、日本の各大学は選択と集中を実施する一方で、世界との競争が求められたものの、東大、京大を除くと、中長期のトレンドでは世界ランキングのみならず、アジアランキングにおいてすら低下トレンドに入ったままだ。

数多の「改革」が乱発される一方で、例えば有名なQSのアジアランキングでは、かつて上位を日本の大学が占めたものだが、10位以内に日本の大学は姿を消し、13位にようやく東京大学が姿を見せる。20位までのなかには京都大学と東京工業大学が加わるのみだ。早稲田大学は38位、慶應義塾大学は41位だ。繰り返しだが、これは世界ランキングではなく、アジアランキングである。タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)のアジアランキングでは7位に東京大学、12位に京都大学、慶應義塾大学は164位、早稲田大学は201~250位だ。これもアジアランキングで、である。

東京大学の安田講堂
写真=iStock.com/mizoula
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mizoula

こうしたランキングの低下は、研究者や学生にしか関係がないかのように思われるかもしれないが、そんなことはない。最近ではシンガポールがビザ取得要件を厳しくし、早稲田、慶應出身者の優遇を除外し、月給50万円以上を要求するようになった。結果、日本企業の若手、中堅の駐在員の派遣が難しくなったが、両大学のこの間のランキング低下が少なからず影響していると見られている。決して、大学やランキングの地位低下は研究者や学生だけの問題ではなく、広く卒業生や社会に関係しうる問題なのだ。

■深刻なポスト不足で、「職業研究者」は敬遠されるばかり

また研究開発費20兆円の大半は民間のもので、大学には投入されていない。民間からの資金調達が言われるようになったものの、企業の共同研究等の伸びは限定的で、返礼品など過剰に優遇されたふるさと納税制度は、大学のみならずNPO等も含まれる本来の寄附市場の姿を歪めている。

国立大学の基盤的予算は、すでに20年近くにわたって年1%削減が継続し(現在休止中で、傾斜配分導入)、コスト削減に躍起だ。他方で、国立大学の収入の10%程度に留まる学生納付金についても、よくも悪くも文科省の省令によって、標準授業料と値上げの範囲が定められているなど、多くの規制が残る。またランキングを踏まえれば、世界的に見て、日本の大学の授業料は比較的リーズナブルだが、国内状況や世帯の年収の伸び悩み等を踏まえるとそうともいえず、各学生の負担感は増している。コストカットは進むが、削減分を補う途は強力な規制も含めて見当たらないのが現状だ。

ポストは決定的に不足する一方で、大学院重点化やポスドク増加の旗は振られ、それから10年以上近い時間が経過したことから、最近の若い日本人は博士課程や職業研究者を敬遠するばかりだ。留学生にとってはランキングに比して、世界的には授業料がリーズナブルなので未だに人気で、そのことは好ましいが、日本人の人口あたり博士学位取得者数は低水準にとどまり、それどころか4年制大学進学率も49%とOECD平均62%を下回る。

■「学問の自由の生死」を考えるだけでは大学は死ぬ

ガバナンスに関しても、学長選挙は学長選考会議の事項となり、教職員投票の結果も、参考に留められるようになった。確かにルールとして定められているが、腹落ちはしにくい仕組みだ。教授会は意思決定機関ではなくなり、学長直下に権限、ポストが集約される傾向が続いている。大学の機能分化や統廃合、実用学部への再編、定員の在り方などが、それぞれ補助金と絡めつつ、上から「自発的に要請」され、私立大学などにも強く要求されている。小渕政権下で成立した国旗国歌法は粛々と運用され、大学でも国旗の掲揚、行事における国歌斉唱は概ね所与のものとなって久しい。

日章旗
写真=iStock.com/y-studio
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これらを総合的に考えるとき、もはや今回の問題を「学問の自由」の生死なる大雑把な概念で考えるだけでは、上述したような日本の高等教育研究開発環境が置かれた状況の改善どころか現状維持にすらつながらないように思われる。

■任命拒否の判断は「思いつき」とは思えない

政府、自民党はPTを妙に迅速に立ち上げ、来年の通常国会に「改革」案なるものを出すとしているから、準備や議論の期間がとにかく短い。思いつきか、布石かでいえば、後者のように見えてくる。

それらの背景には、中曽根元総理の合同葬儀に際しての、大学への弔旗掲揚依頼含めて、安倍前総理と比べて、はっきりとした保守的言説をあまり聞かない菅首相の保守・復古層へのリップサービスがあるのではないか。保守・復古層の言説や認識では、大学や研究機関は左翼の巣窟なので、そこを締め付けることは彼らに喝采されがちだ。

それから、国家予算100兆円の世界観からすれば、日本学術会議の予算10億円はもはや誤差の世界だが、それでも衆議院議員の任期を考慮すると、来年秋までには実施される総選挙の、わかりやすい手土産と改革の「実績」を作ることに関心がありそうにも思えてくる。

■今回のことで学問の自由が死ぬなら、我々はもう死んでいる

換言すると、本来、広く社会にも役立つはずの教育研究環境の表層が政治的理由からまな板に乗せられているようにすら見えてくる。このとき、教育研究環境の「自由」というか現状の実質をどのように擁護し、改善を求めていくのかということを主眼にするのであれば、ただ反対の声を挙げるのみならず、より個別具体的な論点に落とし込んだ議論と社会からの理解を求める作業が必要に思えるのだ。

また高等教育研究の当事者にいるものとしては、現状を考慮すると日本学術会議の問題の行くすえ如何程度では、学問や研究、表現はそう簡単に死なないということは矜持か、カラ元気として最後に申し添えておきたい。もし今回のようなことで学問の自由が死ぬのであれば、“我々はもう死んでいる”と言わざるを得ないし、言い方を変えると、これまで学問の自由が生きていたとするなら、学術会議の任命権の有り様を変更したぐらいではやはり学問の自由は死なないともいえる。

そういう大文字の議論も良いが、研究者にとっての本丸は、研究教育を取り巻く誤解の払拭と早急な実態の改善にこそあるはずだ。そして、それらをせめて維持、できれば改善するために社会、経済、政治の理解を得ることこそが重要に思えてくる。大学に勤める、一研究者としてはそのことを知ってほしい。現状批判も重要だが、ときに誤解に基づいて我々が見られているのだとすれば、当事者が冷静にその誤解を改善する説明や対話を重ねることも重要ではないか。筆者はどちらかといえば、そちらに与したい。

学問の自由云々や、また太平洋戦争下の話も持ち出されがちだが、戦争のさなかですら、丸山眞男も、小林秀雄も生き延びて、仕事を続けた(三木清は獄中死したが……)。それらと比べれば、やはり大した問題ではないのだ。

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西田 亮介(にしだ・りょうすけ)
東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院 准教授
1983年生まれ。社会学者。博士(政策・メディア)。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。中小企業基盤整備機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大学大学院特別招聘准教授などを経て現職。情報と政治、情報社会のジャーナリズム、無業社会などを研究。著書に『メディアと自民党』(角川新書)、『情報武装する政治』(角川学芸出版)、『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』(朝日新聞出版)などがある。

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(東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院 准教授 西田 亮介)

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