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「日経や朝日より上」文春オンラインが日本最大のニュースサイトになるまで

プレジデントオンライン / 2020年12月27日 11時15分

女優の沢尻エリカ容疑者の保釈を取材するために警視庁東京湾岸署前に集まる報道陣ら=2019年12月6日、東京都江東区 - 写真=時事通信フォト

いま日本最大のニュースサイトは「文春オンライン」だ。2019年11月に3億PVを超え、2020年5月には4億PVを突破。これは『日経電子版』や『朝日新聞デジタル』も上回る。なぜそこまでの成長を遂げられたのか。柳澤健氏の新刊『2016年の週刊文春』(光文社)から紹介しよう——。

※本稿は、柳澤健『2016年の週刊文春』(光文社)の最終章「文春オンライン」を再編集したものです。

■2017年時点では『文春オンライン』は第3グループだった

二〇一七年末、『文春オンライン』のPVは五〇〇〇万に達し、翌年も同程度の数字で推移した。決して悪くない数字だが、収益を上げるまでには至っていなかった。

当時、出版社系サイトのトップは『東洋経済オンライン』の約二億PV。それに続くのが『NEWSポストセブン』(小学館)や『アエラドット』(朝日新聞出版)の一億PV弱。『文春オンライン』は第三グループに位置していた。

ここを抜け出さなければ儲からない。竹田直弘(文春オンライン編集長)はそう感じた。

『文春オンライン』の記事の割合は、『週刊文春』と月刊『文藝春秋』と書籍からの転載が半分、オリジナル記事が半分というところ。

データを見ると、『週刊文春』のスクープ速報がPV獲得のエンジンとなっていることは明らかだった。特集記事の短い予告編である。一方で、オリジナル記事はユーザーが回遊する中で読まれることが多く、客寄せにはなりにくいことも判明した。

PVをここからさらに上げていくためには『週刊文春』との連携の強化が不可欠だ、と竹田直弘は考えた。

■有料課金は「コアなアイドルファン向け」になっていた

一方、『週刊文春デジタル』を担当する渡邉庸三デスクは、有料課金モデルの大きな壁にぶち当たっていた。

当時の『週刊文春デジタル』は加入者七〇〇〇人程で頭打ち状態。月額八八〇円をニコニコチャンネルに支払い、スマホやパソコンで『週刊文春』の記事や直撃動画を読んだり見たりする人間の数は、期待したほどには増えなかった。

気がつけば『週刊文春デジタル』は、コアなアイドルファン向けにディープな情報を提供するマニアックなサイトになっていた。作っている人間が少数であり、テレビ局に直撃動画も売っていたから、赤字ではまったくなかったが、『週刊文春』の記事をスマホで読んでもらおうという当初の目標とは違う方向に進んでいた。二〇一四年春に新谷学が始めたデジタルへのチャレンジは、四年を過ぎてなお、紙の落ち込みを補うには程遠い状況だったのだ。

だがいま、『文春オンライン』は強力なコンテンツを切実に求めていた。『週刊文春』もまた、自らのスクープ力を存分に活用できるプラットフォームを必要としていた。

『週刊文春』に掲載されるのはほかのどこにも出ていない独自ネタばかり。ベッキーもショーンKもインターネットで大爆発した。コンテンツとしては最強だ。

『週刊文春』と『文春オンライン』の連携をもっと深めるためにはどうすればいいのか。渡邉庸三は竹田直弘と議論を重ねた。

■PV獲得には『週刊文春』のスクープの力が必要不可欠

「そもそも『文春オンライン』は、文藝春秋という会社全体のプラットフォームとして、宣伝プロモーション局の中に立ち上げられたという経緯があり、社内では書籍や雑誌の宣伝的役割をもっと果たすべきだという意見が強かった。しかし、そういう自社広告記事ではPVを稼げないのが現実でした。かたや『週刊文春デジタル』も現状のままでは大きな収益を上げるブレークスルーはできそうになかった。二〇一八年の秋頃から竹田(直弘)と何度も話し合う中で意見が一致したのは、有料の課金モデルと無料のPVモデルは、別々にオペレーションするのではなく、ひとつの大きな枠組みの中で考えるべきだという方針でした。有料は無料の延長線上にあり、無料の“裾野”を広大にしなければ、ピラミッドの頂上である有料会員の数も増えない。『文春オンライン』が大量のPVを獲得するためには『週刊文春』のスクープの力が必要不可欠、というのが我々の共通認識でした。

だったら、一緒にやるのがてっとり早い。まずは『文春オンライン』をニュースメディアとして勢いをつけてしまおうと。『文春オンライン』が『週刊文春』と同じフロア、同じ局内にあれば、連携はスムーズになるし、スクープ対応もしやすい。『文春オンライン』が週刊文春編集局に入ることは、一見遠まわりに見えても、じつは名実ともに会社全体のプラットフォームになるための一番の近道だというのが、竹田と私が出した結論だったんです」(渡邉庸三)

『文春オンライン』を週刊文春編集局の中に入れようとするふたりのプランは、しかし社内から猛反発を受けた。「『文春オンライン』は本誌、週刊、出版局を横断する全社的なプラットフォームであったはずだ。週刊文春編集局の中に入るのは筋が違う」というものだ。

■「紙の雑誌が食われるから困ります」と言われていた

デジタルの最前線で戦うふたりの判断を理想論を掲げて邪魔するべきではなかろう、と社外の私は思うが、この期に及んでもなお、ビジネスの論理とは異なる考えで動く人間も社内には多く、デジタルへの生理的な嫌悪と拒絶もなお存在した。

週刊文春編集局長の新谷学は、渡邉庸三と竹田直弘の合併構想の最大の推進役となった。

「このプランは俺も成長戦略の一丁目一番地として、かねてから上層部に伝えていたこと。現場で数字を背負うふたりが『一緒にやるしかありません』と言ってきたから、俺は改めて上層部に話をした。半ば強引に話を進めざるを得ないところもありました。

反対はものすごかった。オール文春のつもりで作った『文春オンライン』がどうして週刊文春編集局に入るんだ、週刊の軍門に降るのか、と。感情論としては理解できますが、リアルなビジネスを考えた場合、『文春オンライン』と最も親和性の高いメディアが『週刊文春』であることは明らかです。

これまでの『文春オンライン』は『週刊文春』にとっては同じ社内であっても遠い存在だった。お互いに気を遣いながら『この記事を出してもらえませんか?』『いや、それは紙の雑誌が食われるから困ります』と、いわば半身の状態でのやりとりを続けていた。

でも、そんなことでは話にならない。俺たちは本気でデジタルシフトして、デジタルの世界で勝たなければいけない。勝つためには武器を磨くしかない。週刊文春編集局の中に『文春オンライン』を入れれば、同じ部署だからスクープ速報の本数も増やせるし、これがほしい、というネタを最高のタイミングで出せる。スクープという武器をとことん使って、全体を引き上げるイメージです。一見、『文春オンライン』が『週刊文春』に飲み込まれたように見えるかもしれないけど、全社的なバランスを取るのは後からでもできるわけですよ」(新谷学)

■「9階から2階」へ移ると、半年後には2億PVへ

役員のほぼ全員が反対だったから、「向かうところ敵だらけだな」と新谷が苦笑することもあった。

「オンラインとデジタルの現場で戦っているのは竹田と渡邉です。彼らが出した結論を社内の事情で潰すなんて論外でしょう。俺自身は、みんなが稼げてハッピーになれる仕組みを作りたいだけ。『文春オンライン』を週刊文春編集局に移して、もしうまくいかなければ、俺のことをおもしろく思わない人たちからボコボコに叩かれるに決まってる。リスクだらけですよ。でも、誰かが決断しなければ何も進まないから『俺が責任をとります』と押し切るしかなかった」(新谷学)

『文春オンライン』編集部が九階の宣伝プロモーション部から二階の週刊文春編集局に移ってきたのは二〇一九年四月のこと。俺が責任をとると啖呵を切った以上、新谷学には『文春オンライン』の数字を上げる以外に道は残されていなかった。背水の陣である。

だが、成果は意外なほど早く出た。当初の目標であった年内の一億PVは一カ月も経たないうちにクリア。その後も右肩上がりを続け、半年後の一〇月には二億PVを超えた。

二億PVは、出版社系サイトでは『東洋経済オンライン』だけが達成している数字だったから、渡邉庸三のデジタル部、文春オンライン編集部、デジタル・デザイン部(文春オンライン担当)にはそれぞれ社長賞が贈られた。

「『週刊文春』からもらえる記事の数も以前より遥かに多くなったし、渡邉庸三さんのデジタル部とガッチリ連携できたことも大きい。紙の雑誌で扱わないようなマニアックなアイドルのネタでも、『文春オンライン』に載せればドンとPVが伸びる。これまでデジタル部は課金サイトの『週刊文春デジタル』と『週刊文春』の芸能記事を主に担当してきたんですけど、次第に『文春オンライン』でPVを稼げる記事を作る専門部隊になっていった」(竹田直弘)

■新編集長は「部数の減少」に大いに苦しんでいた

『文春オンライン』の躍進を支えているのが、紙の『週刊文春』のスクープ力であることは言うまでもなかろう。二〇一八年七月に新谷学から編集長を引き継いだのは加藤晃彦だった。

「青天の霹靂でしたね。ウチの奥さんとはずっと話をしていたんです。僕は『週刊文春』にもう六年もいるから、七月の人事異動では絶対に出るはずだ。『週刊文春』のデスクよりも忙しい仕事は文藝春秋にはほかにない。これからは楽になるから安心してほしいって。人事部のアンケートにも、希望の部署は『ナンバー』もしくは経理部と書きました。そもそも僕は『ナンバー』をやりたくて文春に入ったわけだし、営業にも広告にもいたことがあるから、経理に行けば会社のことが大体わかるかなと思って。

そうしたら三月末くらいだったかな。新谷さんに呼ばれていきなり『七月から編集長』と言われた。一瞬、何の編集長かなって。新谷さんとは一〇歳違うから、さすがに『週刊文春』編集長はないだろうと思っていたんです。文春は基本的に年功序列の会社だし。新谷さんが次に本誌に行くのなら、僕も一緒に行くかもしれない、とぼんやりと考えていたくらいで。

『週刊の編集長をやることになった』と奥さんに言ったら『えーっ、それはおめでとうって言った方がいいんだよね?』って、複雑な心境を隠さなかった。『週刊文春』のデスク以上に忙しい仕事はないと思っていたけど、じつはひとつだけあった。編集長です(笑)」(加藤晃彦)

新編集長となった加藤は大いに苦しんでいた。部数の減少が止まらないのだ。

■部数が落ちた『週刊文春』をリニューアルすることは不可能

文春砲が炸裂した二〇一六年下半期の平均実売部数は約四三万部。だが二〇一七年は三六万部、二〇一八年は三二万部と大きく減り、二〇一九年上半期はついに三〇万部を下回って二八万七二四一部にまで落ち込んだ(ABC考査レポート)。

『週刊文春』の取材力が落ちたわけでは決してない。農協を通じて配布される『家の光』という唯一の特殊な例外を除いて、『週刊文春』の部数はあらゆる雑誌の中でトップをキープし続けていた。

雑誌全体の落ち込みが激しかったのだ。

総合週刊誌二位の『週刊現代』は約二〇万八〇〇〇部。「飲んではいけない薬」シリーズが七〇歳に近づいた団塊の世代の心をつかみ、月三回刊にして合併号を増やすことで部数を維持したものの、スクープからは完全に手を引いた。『週刊新潮』『週刊ポスト』に至っては二〇万部を切り、気息奄々たる状態に陥っていた。

部数が落ちた『週刊文春』を大幅にリニューアルすることは不可能だった。

二〇一七年七月には『週刊文春』の表紙イラストを長く担当した和田誠が病床に臥した。当時の新谷学編集長は新たなるイラストレーターを起用せず、過去のイラストの再使用を決めた。和田誠が二〇一九年一〇月七日に亡くなった後も、加藤晃彦編集長はアンコール企画を継続させた。

■「記事をウェブに提供」そんなとき沢尻エリカが逮捕された

伊集院静、林真理子、阿川佐和子ら連載陣は固定読者をつかんでいる。雑誌に新陳代謝は必要だが、変えすぎてしまえばこれまでの読者を失う。ジレンマだった。

「紙の『週刊文春』が大きな転換点にあるのは事実です。このまま部数が下がれば、どこかで損益分岐点を下回ってしまう。かといって固定費はそうそう下げられない。原稿料を来週から一〇パーセントカットします、記者も減らします、取材費も削りますとなれば、クオリティが下がって読者離れが進む。そこをどうやって守るか。

『文春オンライン』が二〇一九年四月に週刊文春編集局に入った時、局長の新谷さんは『PVを上げるために記事をウェブに提供してほしい』と言ってきましたが、僕は抵抗せざるをえない状況でした。もちろん、デジタルの重要性については理解しているつもりです。それでも、ウェブに記事をタダで出すことは、紙の雑誌だけを見ればマイナスにしかならないから苦しかった」(加藤晃彦)

加藤編集長は紙の雑誌で収益を上げる責任を負う。『週刊文春』の記事が『文春オンライン』でいくらPVを稼いだところで、紙の数字が下がれば、人員や経費の削減要求が上層部から出かねない。たとえ同じ局内であろうと、記者たちが苦労してとってきたネタを『文春オンライン』にタダで出すわけにはいかないのだ。

加藤は一計を案じて新谷に持ちかけた。『文春オンライン』は広告モデルであり、PV数が上がれば広告収入が増える仕組みだ。仮に『週刊文春』由来の記事が全体の三分の一のPVを稼いでいるのであれば、広告収入の三分の一を『週刊文春』編集部の実績にしてほしい、と要請したのだ。

「新谷さんが『わかった、やる』と言ってくれたのは二〇一九年の秋頃。この判断はめちゃくちゃ大きかった。そんな時に、沢尻エリカが逮捕されたんです」(加藤晃彦)

■沢尻エリカ関連だけで1億PVを稼ぎ出した

女優の沢尻エリカが麻薬取締法違反で逮捕されたのは一一月一六日。驚くべきことに、逮捕当夜の『文春オンライン』には、家宅捜索のわずか三時間前にクラブで踊り明かす沢尻エリカの映像がアップされた。

「沢尻が逮捕されたのは土曜日。ちょうど僕たちがデスク会議をやっていた夕方に第一報が入った。ウチは金曜深夜に沢尻がクラブで踊っている動画を撮っていたから、僕は『オンラインにすぐに出そう』と言いました。新谷さんの発案で、二〇一二年に『週刊文春』がスクープしたときの記事と写真を一緒に出したら、異常な数のPVを稼ぎ出したんです」(加藤晃彦)

「フジロックフェスティバル」でドラッグをキメて踊りまくる沢尻エリカ。スペインで一緒に大麻やエクスタシー(合成麻薬)を服用した外国人ドラッグディーラーの写真。元夫である高城剛の証言。大麻使用の陽性反応が出たために専属契約を解除するというスターダストの通知書─。

映像でも写真でも記事内容でも『文春オンライン』は他の追随を許さなかった。沢尻エリカの逮捕は『週刊文春』の驚くべき取材力と、エイベックスに忖度してこれまで何も報じてこなかった他のメディアの弱腰ぶりを再び世に知らしめたのだ。

無料サイトである『文春オンライン』は、数十万部規模の雑誌とは比較にならない数の人々に読まれる。沢尻エリカ関連だけで一億PVを稼ぎ出したこともあって『文春オンライン』はなんと月間三億PVを達成、瞬間風速ながら『日経電子版』や『朝日新聞デジタル』を超え、日本のすべてのニュースメディアで一位を記録した。

記者会見
写真=iStock.com/B4LLS
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/B4LLS

■「スクープ」はあとから収益を上げることがある

「ストックがビジネスになるということを、僕たちは沢尻逮捕の時に学んだような気がします。紙の雑誌は一週間ですべてが決まる。二〇一二年の沢尻の薬物疑惑スクープも、決して悪い数字ではなかったけれど、完売には至らなかった。ところが、七年前の記事や写真、動画を再構成して『文春オンライン』にアップしたら、ドカンと稼げるコンテンツに変身したんです。

沢尻逮捕と同じ頃に、嵐の二宮和也の結婚話の記事が出た。ウチは前年八月にふたりが海外旅行から帰国した直後に直撃していたから、その時の写真を『文春オンライン』にアップしたら、すごいPV数を稼ぎ出した。スクープはずっとあとになってから収益を上げることがある。ウチしか読めないオリジナルはやっぱり強いんです。

二〇二〇年一月に嵐の櫻井翔が彼女と一緒にベトナムとハワイに行ったとき、ウチはかなりの費用をかけてスクープしたんですけど、紙の雑誌の初速はよくなかった。発売日にその数字を見て、これはオンラインで稼いだ方がいいと判断して、五回に分けて連日のように記事を出したところ、六〇〇〇万PVを稼いでくれました」(加藤晃彦)

金額に直せば約二〇〇〇万円。紙の雑誌が七万部売れたのと同じ実入りになる。〈東出昌大独占告白「すべてを失いました」〉(二〇二〇年二月二七日号)の時はLINEで一本三〇〇円の記事が一万本売れた。九割が週刊文春に入るから、一本売れれば二七〇円。じつは紙の雑誌を一冊売っても、取次や書店の取り分を差し引くと、『週刊文春』に入るのは同じ二七〇円である。LINEで一万本の記事が売れれば、紙の『週刊文春』を一万部余計に売ったのと同じ計算になるのだ。

■『文春オンライン』の登場で越えた三つの壁

「確実にデバイスチェンジ(媒体の変化)が起こっている。紙の読者はもちろんいるし、紙の雑誌の収益は当然大きい。でもその一方で、紙の雑誌なんて世の中に存在しない、くらいに思っている人たちも大勢いる。ウチのコンテンツは他のどこにも出ていないスクープだから、適切なデバイスに載せてあげれば、絶対に読まれるということがわかってきた。

柳澤健『2016年の週刊文春』(光文社)
柳澤健『2016年の週刊文春』(光文社)

『文春オンライン』の登場で『週刊文春』は三つの壁を越えた、と僕は最近現場によく言うんです。

ひとつは時間の壁。『週刊文春』は毎週木曜日発売ですけど、ほかのメディアに追いつかれそうなら『文春オンライン』にもっと早く出すこともできる。

ふたつめは量の壁。紙の雑誌は、いくら刷ってもせいぜい五〇万部から六〇万部。回し読みされても一〇〇万人にしか届かない。でも『文春オンライン』なら、時には何千万人が読むわけです。

三つめは世代の壁。いまの若い世代は、そもそも紙の雑誌を手に取らない人も多い。でも、スマホで『文春オンライン』にアクセスしてくれればその壁を越えられる。

だったらデジタルファーストで、紙の雑誌をやめた方がいいのか? そうじゃない。自分が編集長になってみてわかったんですけど、紙という制約があることで記事のクオリティは間違いなく上がります。〆切と字数制限があり、校正も二回通る。一度刷ったら直せないから、裏取りの緊張感も半端ない。『週刊文春』がウェブオリジナル記事を出すこともありますが、やっぱり緊張感が違う。その上、ウェブでは長いストーリーはなかなか読んでもらえない。本物のスクープは、やっぱり紙で出すべきなんです」(加藤晃彦)

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柳澤 健(やなぎさわ・たけし)
ノンフィクションライター
1960年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、空調機メーカーを経て株式会社文藝春秋に入社。花田紀凱編集長体制の『週刊文春』や設楽敦生編集長体制の『スポーツ・グラフィック ナンバー』編集部などに在籍し、2003年に独立。2007年刊行のデビュー作『1976年のアントニオ猪木』は高い評価を得た。主な著書に『1985年のクラッシュ・ギャルズ』『日本レスリングの物語』『1964年のジャイアント馬場』『1984年のUWF』『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』がある。

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(ノンフィクションライター 柳澤 健)

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