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このままでは大学も受験生も不幸「大学入学共通テスト」の抱える2つの大問題

プレジデントオンライン / 2021年1月16日 11時15分

センター試験に代わり行われる大学入学共通テスト出願書類の開封作業(東京都・目黒区)=2020年9月28日 - 写真=時事通信フォト

今年から「大学入学共通テスト」が始まる。経済学者の橘木俊詔氏は「共通テストは2012年から検討されていたが、実施までには時間がかかった。その背景には、日本の大学入試改革が抱える2つの問題がある」と指摘する――。

※本稿は、橘木俊詔『大学はどこまで「公平」であるべきか』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■「共通一次試験」から「センター試験」へ

戦後の大学入試改革の歴史を振り返ったとき、最大のイベントと呼べるのは1979年の「共通第一次学力試験」の導入ではなかろうか。

これにより、それまで国公立大学の入学試験において、個々の大学が独自に一度の入試を課していただけだったのが、共通一次試験を加えた二度の試験を課すようになった(なお東京大学などは、共通一次試験導入以前から独自に一次と二次の試験を課していたが、それもあくまで全体においては一部に留まる)。

ここであらためて「共通一次試験」導入後の入試の流れについてざっと整理すれば、一次試験では、国公立大学志望の全受験生が同一問題の試験を受け、その点数を大学に送ることになる。そこでは5教科7科目が課せられていたが、各大学はそれに基づいて、いわゆる「足切り」を行って一次合格者を決め、それから大学個別の二次試験を受けることになる。その後、共通一次試験は1990年に「センター試験」に変更された。変化の柱は各大学が科目などを選択できるようになったことと、私立大学も希望すれば参加できるということである。その後2006年には英語にリスニングテストが導入され、現在へと至っている。

■「達成度テスト」としての再構成を検討

一方でその間、一次試験は政府有識者会議などを通じ、「達成度テスト」という名称の元に再構成することが検討された。さらにそこから文部科学省の審議会を通じて「大学入学希望者学力評価テスト」に名称が変更されるなど、かなりの紆余曲折を経てようやく「大学入学共通テスト」という名称に落ち着き、2021年度からの実施が決まったということだ。

なお「達成度テスト」構想そのものは2012年から始まっていた。ただし現実の入試を見てみれば、少なくとも2020年まではセンター試験のまま続いており、入試改革はなかなか進まなかったことがむしろよく分かる。

本来なら、入試改革に関しての最終責任は監督官庁である文部科学省が持つこととなる。日本が官僚国家である以上、そこがしっかりしていれば、改革案は決定されるはずだ。

しかし教育改革のみならず、日本の制度改革はいろいろな関係者が関与して民主的に行われるので、決定に時間がかかる。加えて入試改革については、国会議員、教育関係者、マスコミなどがそれぞれに意見を述べるので、議論がなかなか収束しない状況に陥っていたのだろう。

ともあれ中央教育審議会での部会などを経て、検討事項は「わずか一度だけの試験では公平性を保てないので、数回の受験機会を与える」、「試験実施、すなわち出題と採点を民間業者に委任してもよいのでは」、「できれば私立大学受験者も受けることができるようにする」、「試験問題に記述式の試問も課す」などに集約されていった。

■一気に批判が高まった「身の丈に合わせて」発言

2019年以降の動きを振り返ってみると、入試改革の論点として、次の二つに焦点が当てられていたことが分かる。

一つは「英語における民間組織の運営する試験の導入」、二つは「国語・数学における記述式問題の導入」である。

民間試験の活用については、全国高等学校長協会などから「見送るべき」という議論が出ていたが、文部科学省はこの二つの改革を実施したいという意向を繰り返し表明。結果として2019年の秋頃には、おおむね決定直前にまで至った。

しかしその年の10月、萩生田光一文科大臣が「自分の身の丈に合わせて2回をきちんと選んで勝負してもらえれば」とテレビ番組内で発言。発言の真意はさておき「勉強のできない人や勉強の嫌いな人、あるいはそういう人が多い高校で学ぶ人は、自分の能力に合った大学を志願すればよい」という趣旨に理解され、感情的な反発を招くと、一気に入試改革に対しての批判論が高まることになる。

教室で勉強する高校生たち
写真=iStock.com/Xavier Arnau
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Xavier Arnau

■「公平さ」をめぐる批判はもともとあった

そもそも民間試験や記述式の導入に対しては、受験に強い高校の多い地域とそうでない高校が多い地域とで、地域間の格差が生じるのではないか、または費用がかかる以上、経済的な環境に左右されるのではないか、といった「公平さ」をめぐっての批判がくすぶっていた。そこに、大臣自ら格差を是認するような発言が飛び出して、流れが変わったのである。

その後、12月には萩生田大臣がこの二つの改革を見送ることを表明。2020年の1月から新しく「大学入試のあり方に関する検討会議」が始まることになる。

これは筆者の私見だが、政治家にも「規制緩和路線の支持と民間経済の活性化を期待する」一派もいれば、文教族の「大学改革や管理は大学に任せてはいけない」「政府・官僚が中心になって進めなければならない」と考える一派もいて、一枚岩ではないのだろう。

■共通一次前の大学入試は、奇問難問だらけだった

入試改革に立ちはだかる問題とは、もちろん試験の場のみの「公平さ」を問うものだけではない。たとえば、大学側の問題も大いにある。

第一に、日本の大学は歴史的に言えば、大学の自治を大切にしてきた。戦前の国粋主義の時代では、特定の思想(特に共産主義)を持った教授が政治の力によって解雇されるなどの歴史も経て、大学は時の政治権力からの指図から自由でありたいと思うようになっている。

また、「教授の任用・昇進なども自由に行うべき」といった方針から、教授会の自治を保持してきた。もちろん研究の自由、教育の自由を確保することも求め、入学試験も教授会、あるいは大学側がある程度、自由に行ってきた。

とはいえ、文部科学省らの意向をまったく無視して入試を実行してきたわけではなく、国家の文部行政の指示も受け入れてきた。たとえば、先程述べた「共通一次試験」の導入などは国からの指示に従ったと見なしてよいだろう。そのうえで、各大学が個別に行う二次試験は大学側の自由に任されていた。

なぜ共通一次試験が導入されたのかという理由を探れば、当時、各大学の出す問題に奇問・難問が増え続け、収拾がつかなくなっていたため、との見解が一般的だ。そこで全国から選ばれた教授が討議に討議を重ねて、良問づくりに励む体制をつくるべきでは、という意向が各所より高まり、共通一次の試験問題が生まれたのである。

クエスチョンマークが描かれたたくさんのブロックに囲まれた電球
写真=iStock.com/chaofann
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/chaofann

■「どういう学生を入学させたいか」を考えてこなかった

では、なぜ奇問・難問が増え続けたのかといえば、入試問題の作成と採点を一部の教授だけに任せる体制にあったことがその要因として大きいと思われる。逆に、多くの教授は問題作成に関与しなかったのであろう。教授が順番で問題作成にコミットする大学もあっただろうが、自分の研究に忙しいからなどと理由をつけて、ほとんど入試問題作成から離れた立場にいたのである。

そうした体制のなかで、特に教授数が少ないような小規模の大学では、自分の専門と無関係の科目の出題を担当することもあったはずだ。本来、問題作成には国語、数学、英語、理科、社会に関係する学問の専攻者があたるべきだが、現実として、多くの大学教授はこれらの科目を専門にはしていない。入試そのものに関心がなくなるのも当然である。

このように考えてみると、つまるところ、入試問題に奇問・難問が増え続け、収拾がつかなくなった事態を招いたのは、それを作成する側に問題があったと言わざるをえない。加えて、自分のところで「どういう学生を入学させたいか」ということを本気で考える熱意が教授全般に薄く、入試を問題作成と採点、合格者決定を担当する入試委員会などに一任するところがあった。それでいて外部(たとえば高校、政治・経済界、マスコミ関係)の人からの意見や要望を聞いたり、社会情勢に合わせたりすることなく、一人よがりで入試を行っていたにすぎない。

要するに、教授側が「入試とはどうあるべきか」といったことにほとんど関心を払ってこなかったツケが今、回ってきているのである。

■「一発入試」を前提に合否判定をしてきた

第二に入学者の選抜を、学力の高低という基準だけで行うことへの検証や反省がほとんどなかったことも否めない。

外国の大学、特に英米の大学の多くにはアドミッション・オフィスという部局が存在する。そこは入試事務を担当するだけでなく、「自分の大学にどういう学生を入学させたいか」ということを日頃より検討しており、それにふさわしい人を入学させるための対策を実際に企画・実行するという役割を担っている。個別の各大学が入試問題を作成・採点する方法を採用していないからこそ、アドミッション・オフィスの仕事は重要になるのだろう。

一方、日本の大学はあくまで一発入試を主軸として入学者の合否を判定してきた。今になってその弊害が目立ち始めている。

■「試験こそ公平」という思い込みが改革を阻んできた

新刊『大学はどこまで「公平」であるべきか』で詳述したが、学力による一発試験で選抜する方策は、「試験の点数差だけで合否が決まるという非情さが、一方で公平性の担保になる」と大学のみならず、日本人の多くが固く信じてきた。この金科玉条の精神が、むしろ外部からの改革要求に対しての砦となってしまったことは否めないだろう。

橘木俊詔『大学はどこまで「公平」であるべきか』(中公新書ラクレ)
橘木俊詔『大学はどこまで「公平」であるべきか』(中公新書ラクレ)

面接試験や推薦入試、一芸入試などは、選抜が恣意的になるので「公平に評価されない」という議論が起きやすい。「高校からの内申書を重視せよ」との声に対しても、そもそも高校間で学力差があるので「公平に評価されない」との反論がなされうる。だからこそ、学力試験が持つ「公平さ」が絶対の価値を保ち続けられた。

しかしマークシートなどに頼った問題だけでは採点における「公平さ」は担保されても、どうしても記憶力に頼る面が強くなる。それでは受験生の思考力や表現力を試すことができないのでは、といった指摘が社会の変化に応じて徐々に増えていき、結果「より記述式の問題を導入するべき」との主張がなされるようになった。

加えて少子化が進む一方で大学数が増加した結果、それまでの局面とは異なり、そもそも各大学が学生数を確保することが困難になっていく。そこで学生確保のための対策として、一発試験以外の方式を積極的に導入するようになり、同時に入試依存による合否判断についても、変化を受け入れざるを得ない状況が生まれたのである。

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橘木 俊詔(たちばなき・としあき)
経済学者
1943年兵庫県生まれ。1967年小樽商科大学商学部卒業。1969年大阪大学大学院修士課程修了。1973年ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。仏米英独での研究職・教育職を経て、京都大学教授、同志社大学教授、日本経済学会会長を歴任。現在、京都女子大学客員教授、京都大学名誉教授。『フランス産エリートはなぜ凄いのか』『ニッポンの経済学部』(以上ラクレ)など著書多数。

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(経済学者 橘木 俊詔)

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