茂木健一郎「ラグビー日本代表がブライトンの奇跡を起こせた脳科学的理由」
プレジデントオンライン / 2021年3月25日 9時15分
※本稿は、茂木健一郎『緊張を味方につける脳科学』(河出新書)の一部を再編集したものです。
■私たちが緊張してしまうのは当然なこと
新型コロナウイルス、大地震、集中豪雨……みなさんもこの間、緊張を強く感じることが多くなったのではないでしょうか。
ではそもそも、なぜ人間は緊張するのか。脳科学から考えてみましょう。
まず初めに緊張は、私たちが動物として持っている本能です。
自分を脅かす存在や思ってもみなかった事態に遭遇すると、脳の中では「扁桃体」が初めに活動します。扁桃体は交感神経を通して、心拍を上げたり発汗させたりして、体を備えさせます。
このように動物としての基本的な身を守るための体の準備、それが緊張した状態なのです。
人間は脳が大きくなるにつれて、扁桃体が活動する機会が、徐々に複雑になっていきました。そして動物における生きるか死ぬかの問題が、人間では形を変えて、社会的な死活問題でも、緊張を感じるようになりました。
ですから受験や就活、はたまた社運をかけたプレゼンなどの時に、私たちが緊張してしまうのは、ある意味当然なことなのです。
■「前頭葉」と「扁桃体」が人類の進化を支えてきた
動物的なあるいは社会的な死活問題に直面した時には、素早く身を守ること、あるいは冷静に情報収集して判断すること、その両方が必要です。
「ここにいると安心だな」と思う場所を「コンフォート・ゾーン」と呼びます。
ここを出ることは、どうしても緊張を伴うのですが、コンフォート・ゾーンをいかに拡大するかが人類の課題であり、また人類の文明発達のもとだったのです。
緊張するけれども、どのくらい未知の要素を自分の生活の中に取り入れられるか。これまでの習慣をどれくらい続けて、どれくらい破るのか。そのバランスを取りながら新しい文明は創られてきました。脳でいうと「前頭葉」と「扁桃体」の協力関係が、人類の進化を支えてきたのです。
「扁桃体」は感情の中枢です。扁桃体が働きすぎると、みなさんも何度も経験していると思いますが、平常心を失い冷静な判断ができなくなってしまいます。そのような状態を回避するためには、意識の座である「前頭葉」に働いてもらう必要があるのです。
とはいえ「前頭葉」が働きすぎても問題があることを、みなさんはご存じでしょうか。
■年を取るほど「このままが安全」と思いやすくなる
私たちが変化しようとする時、それを邪魔するものに、意識があります。意識はこれまでの記憶をもとに、私たちのことを「変われない」と決めつけるからです。
脳の中では、意識の座である「前頭葉」と記憶を蓄える「側頭連合野」が、これまでの記憶を使って、未来の予定を立てています。
年齢を重ねるほど多くの記憶が側頭連合野に蓄えられていますから、前頭葉が「これまでの記憶によると、このままいけばこれからも大体のことはこなせるはずだ」と見積もりを出し、「このままが安全!」と頑なに慣性の法則を押しつけてくるのです。
そうなると新しいことへのチャレンジやイノベーションを起こすことはできなくなってしまいます。
では前頭葉が働きすぎてしまう場合、どのように対処すればいいのでしょうか。
■ラグビー日本代表が起こした「ブライトンの奇跡」
このことを考えるにあたり、とても参考になる出来事があります。
それは「ブライトンの奇跡」です。2015年に開催された第8回ラグビーワールドカップ・イングランド大会で、日本代表が、優勝候補にも挙げられていた南アフリカに勝利したのです。
ラグビーワールドカップの歴史を振り返ると、1987年の第1回大会から2015年の第8回大会の初戦となった南アフリカ戦まで、日本代表チームはたった1勝しかできませんでした。
20年以上かけて1勝しかできなかったチームが強豪国に勝利したのですから、当時そのニュースは驚きをもって報道されました。
世界中の誰もが、日本代表チームの選手たちですら、こう思っていたに違いありません。「日本が南アフリカに勝てるわけがない」と。
■「準備と緻密な戦略」が奇跡を必然に変えた
ではそんな思い込みから、選手たちはどうやって脱け出したのでしょうか。
そこには、当時、「名将」と呼ばれたエディー・ジョーンズの並々ならぬ情熱と戦略があったのです。
エディーは、日本代表チームを率いるにあたり「日本人でも世界で勝てることを証明しよう」という大義を持ち、チームづくりに着手していきました。
そこで実施したのが、これまで類を見ない通算173日にも及ぶ長期合宿です。
この合宿でエディーは日本選手の弱点ともいえるスタミナの強化のため、早朝から夜まで一日に4回、多いときには5回のハードワークを選手たちに課していきます。あまりのトレーニングの過酷さから、選手たちからは「地獄の合宿」と恐れられました。
ところが、次第に選手たちの顔つきも変わっていったといいます。これまでイメージできなかった「南アフリカに勝つ」ということが現実味を帯びてきたのです。
さらに、日本人選手は世界の強豪国選手と比べて体が小さいため、相手に対して低いタックルが有効だと考えたエディーは、レスリングの練習を取り入れました。
実際に、ワールドカップ本番では南アフリカの選手たちは日本の選手たちの低いタックルに苦しめられていました。
このように、「俺たちが南アフリカに勝てるわけがない」というネガティブな思い込みに対して、用意周到な準備と緻密な戦略によって、奇跡を必然に変えることができるということを、エディーは選手たちに教えました。前頭葉の決めつけから代表選手たちを解放したのです。
■身体と無意識から、思い込みを変えていく
エディーのように、外部から「変われる」ことを徹底的に教え込んでくれる存在は貴重です。とはいえそんな人物との出会いがなかなかない私たちは、どのようにしたら「自分は変われない」という思い込みから自由になれるのでしょうか。
脳科学的にいえば、この場合、意識の決めつけが問題なのですから、意識の手の届かない身体や無意識からアプローチするのが有効です。
意識的な「言葉」を使ってなんとかしようとするのは不可能です。なぜなら前頭葉と直接戦うことになってしまうからです。
いくら「そんなことないよ、君はきっと変われるはずだよ。新しいことに挑戦するほうがいいよ」と言葉で説得を試みても、前頭葉は今までの記憶を使って、自分で見積もりを出していますから、その言葉をなかなか信用しようとはしません。だからエディー・ジョーンズも、意識の手の届かない、選手の身体や無意識から変えていったのです。
■失恋したら、毎日10分でも散歩をするといい
例えば、失恋をして「もう人生終わりだ。この先に良いことなんかないに決まっている」と、あなたが思い込んでいるときを考えてみてください。
もう一度、相手が戻ってきてくれれば、問題は解決するのでしょうが、その可能性は低い。つまり問題は解決しない。そのことは、わかっているので悲観的になっている。そんな場合、「いいや、何を言っているんだ、良いことはあるに決まっている」と言葉で言っても、意識はなかなか説得されないものです。
そこで、意識を説得するのではなく、例えば、毎日無理矢理にでも少しだけ外に出て、散歩をする。たった10分でも、家の周りを一周するのでもいいでしょう。
木々の匂いを嗅いだりしてリラックスしてくると、脳の「デフォルト・モード・ネットワーク」が活性化されて、不思議と気持ちがすっきりしてくることがあります。
デフォルト・モード・ネットワークとは、何かの課題に集中しているときよりも、休息しているときに強く活動し、記憶や感情の整理に重要な役割を果たしていると考えられている回路です。
■「意識から比較的自由なシステム」に働きかける
パートナーは戻ってこないし、問題は解決されていないにもかかわらず、毎日散歩をしてみるだけで、体が元気を取り戻し、すっきりした気持ちがして「これからも、良いことがあるかもしれない」と自然に思えてくるようになるのです。
無意識や身体は、脳の中では、デフォルト・モード・ネットワークや、小脳、大脳基底核という、前頭葉や側頭連合野とは別のシステムによって司られているので、意識的な「幻想」から比較的自由です。幻想に支配されて、現状維持を選び、緊張のない生活になってしまっているのなら、大事になるのは、無意識や身体と言えます。
そのような意識のコントロールから比較的自由なシステムに働きかけて、できないことができる、自分で自分を裏切るという経験をすることがとても大事なのです。
つまり、「扁桃体」と「前頭葉」、「無意識」と「意識」のバランスを考えていくことが、緊張を克服するための最大の鍵となるのです。
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脳科学者
1962年東京都生まれ。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学理学部、法学部を卒業後、同大学院理学系研究科物理学専攻課程を修了。博士(理学)。「クオリア(意識における主観的な質感)」をキーワードとして、脳と心の関係を探求し続けている。『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞受賞、『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞受賞。
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(脳科学者 茂木 健一郎)
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