1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「多数決」で死刑を決めてしまう日本の裁判員制度は世界の恥である

プレジデントオンライン / 2021年4月9日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/simpson33

裁判員裁判制度が導入されてから10年がたった。日本の刑事裁判のあり方はどのように変わったのか。明治大学法科大学院の瀬木比呂志教授は「書面主義の古い体質が変わったことなど改善された点はあるが、裁判員制度にはいまだに解決できていない4つの大きな問題がある」と指摘する――。

※本稿は、瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義を全うできないのか』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■導入から10年超、どう変わった?

裁判員制度についてはほかの書物でもふれたことがあるが、重要な事柄であり、かつ2019年には制度発足10年を機にメディアでも大きく取り上げられたので、ここで私の考えを総括しておきたい。

まず、この制度が、刑事系裁判官による刑事裁判という特殊閉鎖的な領域に穴を開けたこと、それが一つの契機となって刑事司法のあり方が一定程度変わってきたことは事実である。

具体的には、①著しく書面主義的であり、民事訴訟のあり方が変わった後にもほとんど変わっていなかった(古いままであった)刑事訴訟の実際的なあり方が多少なりとも改善された、②その結果として被告人の自白調書が採用されないことも珍しくなくなった、③不十分ながら証拠開示制度が取り入れられた、④評議においても、裁判員が入るため、裁判官としても、少なくともそれぞれの事件についてまじめに向き合わざるをえなくなった、などの指摘は、実務家からもなされているところだ。

また、市民、国民の司法参加という事柄自体のもつ意味は、私も否定しない。

しかし、市民の司法参加の制度なのだから当然支持すべきだとか、問題があってもとりあえず無視・軽視してもよい、などという態度で臨み、そうした枠組みの中での議論しかしないというのであれば、それには賛成できない。

■「司法を身近に」を掲げることは正しいのか

裁判員制度は刑事司法にかかわる制度なのだから、その第一の目的は、冤罪の防止を含めた刑事裁判制度の改善に置くべきだというのが、私の基本的視点である。

関連して、裁判員制度の目的の一つとして、「司法をより身近にする」ことが挙げられているのについては、一抹の疑問も感じる。刑事裁判というのはきわめて厳粛なものであり、裁判員は、陪審員同様に、それなりの覚悟をもってこれに臨むべきだ。これは、間違いなく世界標準の考え方である。だから、司法をより身近にし、広い意味での法教育を行うための「手段」としてこうした重い制度を「利用」するというのであれば、そのような考え方には疑問があるということだ。

また、現行裁判員制度については、当時の刑事系トップ裁判官たちが刑事系の存続・権益確保に有利と判断してその導入に大きく舵を切った(反対から賛成に姿勢を一転した)という事情もあって、制度のゆがみが相当に大きい。

刑事系の存続・権益確保に有利というのは、たとえば、刑事事件の少ない比較的小規模な裁判所(地方の地裁には、重大刑事事件がごくわずかしかない庁もある)にあえて刑事部を置く必要があるのかといった疑問は昔からあったのだが、裁判員制度によってそうした疑問が封じられるとか、裁判員制度導入によって長い間劣勢にあった刑事系高位裁判官の裁判官集団における権益や支配力が増す、復活するといったことだ。

■10年たっても解決できていない4つの問題

具体的に制度をみると、刑事系の存続・権益確保という隠された目的のために制度がゆがめられている可能性があること、実際には市民をあまり信用していないのに制度自体は性急に導入したためその大枠において市民尊重の趣旨が貫かれていないこと、以上2つの観点からの疑問提示が可能だ。

これらの観点を基に、具体的に、疑問点とそれらに関する私の意見を順に挙げると以下のようになる。

① 第一に、一定範囲の重罪事件(相対的に重大な事件)すべてについて裁判員裁判を行う必要はない。被告人が無罪を主張して争い、また市民の裁判を求める事案に限って市民参加の裁判を保障すれば、それで十分であり、また、適切でもある。市民の司法参加の制度についての基盤がなお薄い日本では、とりわけそういえる。

被告人が弁護人ともよく相談した結果有罪答弁をする場合に、実質的にはただ量刑を決めるだけのために裁判員を長期間拘束する必要はない。また、重い量刑を科する判断を行うことについては、大きな精神的ストレスを感じる市民も多いはずである。

この点については、刑事系の存続・権益確保のためにこうした制度になっている疑いが強い。

手錠をされ、法廷に立つ男性
写真=iStock.com/Chris Ryan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Chris Ryan

■ただ1件の参加で量刑を冷静に判断できるのか

大体、量刑というのは、基本的に、マクロ的な視野をもって醒めた目で決めてゆくべきものだ。ただ1件しか担当しない重大事件の被害を目の当たりにすれば、ごく普通の人間なら、どうしても重罰化に傾く。日本人の場合、相対的にみてその傾向は強いだろう(なお、アメリカの刑事陪審員裁判でも、量刑は裁判官が決めるのが原則である)。

もちろん、量刑に市民感覚を反映すること自体については、一定の意味がある。しかし、それは、有罪無罪を決すべき事案において有罪との判断になったら、最後の段階で裁判官が参考意見として聴取すれば十分であるし、また、適切ではないかと思う。

特に、死刑については、後記②の点とも相まって、きわめて疑問が大きい。

以上のことについては、裁判員辞退率が上がり続け、当初の53パーセントから67パーセント(2018年)と実に3分の2を超える高率になってきている(制度に対する人々の関心の低下、また、疑問・疑念が第一の原因であろう)現状では、特にそういえる。上のような数字をみると、重罰志向に懐疑的な人々は最初から辞退してしまいやすい可能性も十分に考えられるからだ。

■「マッチポンプではないか」と批判されても仕方がない

重罰化の傾向には判例、上級審が歯止めをかけているという意見もある。確かに、こうした歯止め自体は必要なことである。しかし、法律家の常識からみても、裁判員制度で重罰化の傾向が出てくることは最初から重々わかっていたはずであって、裁判所、裁判官を全体としてみるなら、「自分で火をつけて消しているマッチポンプではないか」と批判されても仕方がないところではないかとも思う。

また、判例、上級審が強い歯止めをかけるということになれば、市民の意見尊重という掲げられた制度趣旨からは外れてくることも否定できないだろう。

第一の点については、以上のように制度に大きな矛盾が出てきている以上、法改正に進むのが当然ではないかと考える。

■多数決で死刑さえ決められるおかしさ

② 第二に、裁判員裁判の評決の方法がおかしい。

アメリカの刑事陪審員裁判は全員一致が原則であり、全員一致の評決に至らない場合には「評決不成立」となって、新たな陪審員が選ばれ、もう一度トライアルをやり直すことになる。やはり陪審制のイギリスでは、少数意見がごくわずかなら評決が成立する。

アメリカの法廷
写真=iStock.com/ftwitty
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ftwitty

これに対し、日本の裁判員裁判では、評決についてはもちろん裁判官も裁判員も平等であるものの、過半数の多数決で結論が決まる(なお、多数意見には、裁判官、裁判員の双方が最低一人は加わらなければならない)。

しかし、これでは、裁判官3名が全員有罪意見であった場合、6名の裁判員のうち4名が無罪意見(したがって裁判員は2名のみが有罪意見)でも有罪判決になるわけだし、死刑判決さえ可能である(以上につき、裁判員の参加する刑事裁判に関する法律六七条)。

これでは、市民の司法参加をいいながら本当は市民の判断など信用しておらず重きを置いていない立案者たち、また裁判所当局の態度は、明白といわなければならないだろう(なお、小坂井敏晶『人が人を裁くということ』〔岩波新書〕は、こうした合議体構成と評決の方法は、ナチス支配下のヴィシー政権がとっていた制度、フランス近代史上市民の影響力を最も抑えた制度と同一であると指摘している)。

■情況証拠で有罪判決を行えば冤罪の原因に

そもそも、市民の司法参加の目的には、人権の重視、冤罪の防止という要請も含まれているはずであり、そこにおける有罪判決、特に死刑判決が多数決で可能というのは、非常識ではないだろうか(裁判官と参審員によって裁判を行うフランス、ドイツの参審制裁判でも有罪には3分の2以上の賛成が必要。なお、後記のとおり、ヨーロッパではベラルーシを除き死刑を廃止している)。

死刑が冤罪であった場合、それは、国家による殺人ということになる。その場合の問題は、はかりしれないほど大きい。重大事件に裁判員として参加される方々も、この点は肝に銘じていただきたいと思う。

第二の点についても、対象事件全体につき、有罪については少なくとも3分の2以上の多数を必要とし、また、死刑の選択については全員一致を必要とするような法改正が必要ではないだろうか。

また、現行制度においても、「死刑の選択については、少数でも反対意見があれば徹底的に評議を尽くし、それでも反対意見が残りかつそれに一定の根拠があるときには、多数派が譲って死刑判決を回避する慣例を作ることが適切だ」という元刑事系裁判官の意見を聴いたことがあるが、私も賛成である。評価の分かれうる情況証拠が積み上げられているだけの事案では、ことにそういえる。

不確実な情況証拠の総合評価によって有罪判決を行うことは冤罪の原因になりやすいし、その意味で死刑は危険きわまりないからだ。

■市民を本当に信頼しているのか

③ 第三に、裁判員に課せられている守秘義務の範囲が広すぎ、また、違反した場合の刑罰が重すぎる(懲役まで含まれる。前記法一〇八条)。守秘義務の対象は評議における意見の具体的な発言者氏名や個人のプライヴァシーに限定すべきであるし、制裁としての懲役刑は非常識きわまりない。

これについても、最高裁は守秘義務に関する説明の内容をあらためたというが、説明をあらためたといっても、その趣旨(条文の表現との関係)はあいまいだ。

瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義を全うできないのか』(角川新書)
瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義を全うできないのか』(角川新書)

私自身、裁判員裁判に参加した人物が、「どうしてきちんとした法改正をしないのか。どこまで話していいか不明で、大きな不安を感じる。それに、参加を呼びかけながら一方では懲役刑でおどすというのは、人を馬鹿にした話ではないか?」と語るのを聞いたことがある。

また、私を含め法律家は、実際には、裁判員裁判の過程やこれにまつわる裁判所の対応等についての疑問や不満を耳にすることがある。しかし、それを具体的に指摘することは実際上できない。「不可能」なのである。なぜなら、「この条文にふれる」といわれる可能性があるからだ。要するに、批判や議論を一切封じ込めてしまうための条文なのである。

④ 第四に、本当に市民を信頼し、6人の裁判員を招集するというなら、合議体にさらに3人もの裁判官が入る必要はない。判事1人、多くとも裁判官2人で1人は判事とすることで十分であろう(②とも関連するが、現在の合議体構成は、裁判官の割合が大きすぎる)。なお、この点についても、①と同様に、刑事系の存続・権益確保の意図が見え隠れする問題といえる。

----------

瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)
明治大学法科大学院専任教授
1954年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。79年以降、裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務。2012年より現職。14年上梓の『絶望の裁判所』が大反響を呼ぶ。続編『ニッポンの裁判』、『檻の中の裁判官』ほか著書多数。

----------

(明治大学法科大学院専任教授 瀬木 比呂志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください