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「入居者の4割は年下」毎朝5時出勤を続ける86歳の老人ホーム施設長の生き方

プレジデントオンライン / 2021年4月29日 11時15分

アゼリー江戸川 磯野正施設長 - 撮影=小野さやか

86歳でフルタイムの老人ホーム施設長を務めている人がいる。東京都江戸川区にある特別養護老人ホーム「アゼリー江戸川」の磯野正さんだ。施設の入居者の約4割は、磯野さんより年下だ。磯野さんの気力、体力はどこから沸いてくるのか。連載ルポ「最年長社員」、第14回は「特別養護老人ホーム施設長」――。

■毎朝5時から「ピアノ・書道・英語学習」

物言えぬ父母を見舞いしアゼリーに
誰が弾くのかショパンの調べ

東京都江戸川区にある特別養護老人ホーム、アゼリー江戸川。ある利用者の家族から届いた葉書に、こんな短歌が記されていた。

「ショパンの調べ」は、館内放送で流していたものではない。施設長の磯野正が、実際にピアノを弾いていたのだ。それだけなら特別驚くべきことではないが、なんと磯野は御年86歳なのである。

アゼリー江戸川の全入居者85人の平均年齢は87.5歳、うち33人が85歳以下だから、入居者の約4割は磯野よりも“若い”ことになる。

【連載ルポ】「最年長社員」はこちら
【連載ルポ】「最年長社員」はこちら

「私は毎朝5時にはホームに来まして、約2時間、ピアノと書道と英語の勉強をしています。経営学の本などもよく読みますね。コロナ禍の前は、入所者全員に朝の挨拶をして、握手をして回っていたんですよ」

小柄でいかにも好々爺(こうこうや)然とした雰囲気の磯野だが、淡々と語る内容のすべてが、一般的な高齢者のイメージから逸脱している。この“スーパー高齢者”はいかにして誕生し、いかにして気力、体力を維持しているのか?

その秘密は、意外なところにあった。

アゼリー江戸川の中庭にて、入居者の男性と談笑
撮影=小野さやか
アゼリー江戸川の中庭にて、入居者の男性と談笑 - 撮影=小野さやか

■「負けるなんて考えたこともなかったから、悔しくて悔しくて」

磯野は昭和10年、千葉県夷隅(いすみ)郡の農家に生まれている。7人兄弟の下から二番目。小さい頃から田植や麦踏などの農作業を手伝った。

小学校1年生の12月に太平洋戦争が始まり、5年生の夏に終戦を迎えた。

「1年生の時に先生が『戦争が始まったよ』と言いまして、田舎でしたが空襲があると授業が終わりになって家に帰ったりしました。飛行機の機関銃で撃たれるから、並んで帰っちゃダメだよなんて言われましてね」

敗戦時の感想が、興味深い。

「日本が負けるなんて考えたこともなかったから、悔しくて悔しくて、もう一回戦争が始まらないかと思ったほどでした」

昭和32年に千葉大学を卒業して、小学校の教諭になった。初任校は浦安市立浦安小学校。団塊の世代が小学生だった時代である。

「私は優しい先生だったと思いますよ。昼夜問わず子供にのめり込んでいましたからね」

浦安小には10年勤めたが父母からの信頼が厚く、近年まで父母の同窓会が行われていたというからよほど人気があったのだろう。

■トラブル解決の秘訣は「徹底して言い分を聞く」こと

いくつかの小学校で教諭を務め、教育委員会で社会教育課長(PTA、家庭教育、青年活動を指導する)などを経験した後、教頭、校長と順調に管理職の階段を上っていった。

教頭時代は苦労が多かったというが、苦労の代表は保護者への対応だった。

「たとえば、学校で何かトラブルがあって保護者の方に来ていただくと、『私はわが子の言葉を信じます。だから、この子は悪くない』なんておっしゃる方がいるんですね」

子供の言葉の真偽を吟味することなく、一方的に「わが子が正しい」と主張をする。あるいは偶然に起きた事故の責任を、一方的に学校に押し付けてくる保護者もいた。こうした不条理に、磯野はどのように対応したのだろうか。

「徹底的に言い分を聞きました。あなたが間違っているなんて言うと喧嘩になってしまうから、おかしなことを言ってると思っても、ひたすら耳を傾ける。そうやって、自分から気づいてくれるのを待つしかないんです」

「ひたすら耳を傾ける」は今でも大切にしていることだ
撮影=小野さやか
「ひたすら耳を傾ける」は今でも大切にしていることだ - 撮影=小野さやか

子供同士のトラブルからは、自分も真偽の判断を過ちかねないことを学んだ。

「○○さんに意地悪されましたなんて、よく子供が言いつけに来るでしょう。人間って不思議なもので、最初に言ってきた方の味方をしてしまうんです。ところが双方の話をよくよく聞いてみると、言いつけに来た子の方が先に手を出していたというケースが多いんですね。ですから問題解決には、徹底して話を聞くという姿勢がとても大切なんです」

■相手が子供でも高齢者でも、仕事の喜びは変わらない

60歳で定年を迎えた磯野は浦安市立美浜南幼稚園(現:美浜南認定こども園)の園長に着任し、64歳のとき、一年の任期を残してアゼリーグループのなぎさ幼稚園に、やはり園長として転籍している。

「私は子供の頃から農作業をしていましたから、根性があると言いますか、疲れないんですね。教員の頃は徹夜仕事でも何でもやりましたよ。とにかく子供と一緒にいるのが楽しいんで、アゼリーの話を引き受けたんです」

ところが磯野は、1999年、アゼリー江戸川に施設長として異動するのである。子供に囲まれた世界から、程度の差こそあれ介護を必要とする高齢者に囲まれた世界への異動。理事長から請われてとは言うものの、意欲を殺がれそうな気がするが……。

「私は教育委員会時代に社会教育をやっていましたから、この施設に来ても違和感はまったくありませんでした。人間は何歳になっても自分というものを持っていて、高齢者だって、なんとか元気でいようという意欲を持っているんです。それを引き出してあげられた時には、子供の力を伸ばしてあげた時と同じ喜びがあるんですよ」

■「夜間にひとりでトイレに行く」入所者の望み

たとえば、足が悪くて歩行が不自由な入所者がいる。ひとりで歩くのは危険だから、トイレに行くときは呼び出しブザーを押す約束だ。ところが夜間に、ひとりでトイレに向かってしまう。認知症の症状のようにも思える行為だが、磯野の視点は別にある。

「歩けないけど、自分で行きたい、人に頼りたくないんですよ。その気持ちを見抜いて、怪我のないように手助けしながら自力でトイレに行かせてあげる。そうすると喜んでくれるわけです。そうやって利用者の元気づけをできた職員にも、喜びがあるわけです」

相手の言葉にひたすら耳を傾けると、真実が見えてくる。それは相手が子供だろうと高齢者だろうと変わらない。そして、相手が心から望むことを支援し、その望みの成就を共有できた時、支援される側にもする側にも喜びがもたらされる。

磯野はアゼリー江戸川の利用者ばかりでなく、100人をこえる職員にとっても、いまだに「先生」なのである。

カナダ出身の職員グリズデイル・バリージョシュアさんと。職員が一生懸命働いている姿を見る時がうれしいという
撮影=小野さやか
カナダ出身の職員グリズデイル・バリージョシュアさんと英語で会話。職員が一生懸命働いている姿を見る時がうれしいという - 撮影=小野さやか

■「人に負けると泣くほどの勝気なんです」

それにしても86歳という年齢で、毎朝5時に出勤してフルタイムで働き続けるバイタリティーは、いったいどこから来るのだろうか?

磯野は昨年もピアノの発表会に参加してショパンを披露しているばかりでなく、書道の腕前もプロ級で、昨年は浦安市の市美展に応募して最優秀の「市長賞」を獲得している。英語はさすがに単語を忘れることが多くなったが、NHKの基礎英語のCDを毎朝繰り返して聞いているという。

「実は私、おとなしそうに見えると思いますけど、とても勝ち気なんです。もうね、人に負けると泣くほどの勝気なんですよ」

磯野がちょっぴり不敵な表情を浮かべた。

勝ち気を象徴する子供時代のエピソードがあるという。小学校から4人の児童がリレーの選手に選ばれ夷隅郡の大会に参加することになったが、磯野は当初5番手だった。

「どうしても選手になりたくて、放課後に私だけ学校に残って、ハチマキをして走る練習をしたんです。そしたら最終的に選手になれたんです。夷隅郡の大会では20校の中で優勝しました。私は背が低かったけれど、ずっと大きな選手を抜いたんですよ」

昨年8月に行われたピアノの発表会の写真を見せてくれた
撮影=小野さやか
昨年8月に行われたピアノの発表会の写真を見せてくれた - 撮影=小野さやか

■「オンチはあんただ」今でも忘れられない一言

負けん気の強さは、趣味のジャンルにも影響していた。磯野は大学からピアノを弾き始めたが、それには深い理由があったのだ。

「小学校4年生のとき音楽の時間に歌を歌っていると、先生が『やっぱりそうだ。オンチはあんただ』と言うんですよ。もう顔を上げられないほど沈んでしまって、こんなことに負けてたまるかって思ってね」

それが、長じてピアノを弾くことに繋がったというのだが……。

「だって、ピアノなら声を出して歌わなくていいじゃない」

小4の時の屈辱を、大学生になってからリベンジするという執念がすごい。

絵画に関する思い出は、さらに切ない。

「やはり小4の時ですが、私、花の絵を描いたんです。綺麗な花が倒れちゃいけないと思ったから、茎を木みたいに太く描いた。そうしたら先生が、『何よこれ、木じゃないの』って言うわけ。このひと言で、絵を描くのがすっかり嫌いになってしまったんです」

定年退職後に趣味を持ち続けることの大切さは、20代の頃からすでに意識していたという
撮影=小野さやか
定年退職後に趣味を持ち続けることの大切さは、20代の頃からすでに意識していたという - 撮影=小野さやか

■決めたことをやらないと、自分が許せない

アゼリーでは利用者や近隣住民を対象に「ここからプラザ」という活動を行っている。磯野はプラザで書道を教えているが、参加者の書をけなすことは絶対にしない。

「特に、書道、絵画、音楽や芸能的なものでは、絶対にけなしてはいけない。褒めて褒めて育てなければいけないんです」

この強い信念の背後に「花の木」の悔しい思い出があることは、言うまでもない。

「私はね、一度やると決めたことをやらないと、自分が許せないんです。だから朝の巡回もピアノの練習も、一度やると決めたら絶対にやる。継続の秘訣は一日何時間なんて決めないで、5分でもいいからとにかくやり始めること。一度やり始めてしまえば、一時間でも二時間でも平気でやれるんですよ」

人並外れて勝ち気であるがゆえに、人一倍傷ついた経験を持ち、その記憶をバネに86歳の現在も自分を磨き続ける磯野。いったいいつまで働き続けるつもりだろうか?

「目が悪くなってきたので、自動車免許は来年で終わりにしようと思っていますが、体の方は何をやっても疲れないのでね(笑)」

進退の判断は、経営者に委ねるそうだ。

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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』 (朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。

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(ノンフィクションライター 山田 清機)

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