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「みんなちがって、みんないい」という社会であるほど自閉症児が生きづらくなる理由

プレジデントオンライン / 2021年4月24日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

なぜ自閉症児は生きづらいのか。自閉症の息子を育てている中央大学国際情報学部の岡嶋裕史教授は「価値観が多様なポストモダン社会になったことで、コミュニケーションコストが高騰している。その結果、学校では児童・生徒のキャラ化が進んだ。そこで自閉症児は『いじめられるキャラ』になりやすい」という――。

※本稿は、岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■モデル事務所に声をかけられたこともあるのにモテない

ところで、自閉症の子は異性にもてない。

当たり前といえば当たり前である。恋愛などというものは、コミュニケーションの極北であって、定型発達の子であっても悩んだり苦しんだりするものである。

4月に入学したばかりの大学生だって、ゴールデンウィークには恋愛の悩みで学校に来なくなっている。うん、たださぼっているだけかもしれないけど。

他人に興味や視点がいかないので、恋愛の相手としてこの上なく不適切である。お見合いの最中に、食事の匂いでそわそわし出して、相手をおいてけぼりにして様子を見に行ってしまったのはシューベルトだっただろうか。とにかく、そんな事件が頻発するのは請け合いである。

ぼくの子も、まったくもてない。

たぶん異性に、外見ではねられているわけではない。幸か不幸かぼくの子は家族の誰にも似ておらず、街を歩いているときにモデル事務所に何度も声をかけられた前科がある。黙っていたら、そこそこもてそうな感じなのである。古い文献で(科学的根拠には乏しいと思う)自閉症の特徴として、「哲学者のような風貌」とか「いつまでも若く見える」などと記したものがあるが、それに当てはまる感じだ。

でも、ちょっと会話の弾みで「セアカゴケグモが……」とでも言ってしまおうものなら(しまったと思ったときには、もう遅いのだ)、「節足動物門クモ綱クモ目ヒメグモ科のセアカゴケグモだよね? メスはオスの2倍あって、特定外来生物で……」と30分は聞かされる羽目になる。そんな相手とはデートどころか、朝の挨拶だってしたくはないだろう。

■そもそも異性にまったく関心がない自閉症児も多い

もっとも、自閉症の子はそれが男の子でも、女の子でも(自閉症は圧倒的に男の子に発現する障害である。そもそも、人の話を聞かなかったり、自分の好きなことだけに熱中したり、相手の気持ちを慮(おもんぱか)れなかったりと、なんだか男性にとって耳の痛い症状が特徴的な障害である。男の子に親和性が高いのもうなずける)、興味の対象が限局されているので、異性にまったく関心がない子も多い。

関心がなければもてなくてもまったく苦にならないだろうから、それが不幸せかどうかはわからない。むしろ、もてないことで、人と関わりを持つ機会が減って喜ぶ子すらいるだろう。

ぼく自身、異性としての二次元女子は好きだが、リアル女子には関心がない。オタクと発達障害の親和性については、いつか必ず書こうと思っているが、それは別の機会に譲るとして、芯から二次元女子が好きなオタク(男性の。女性のことはよくわからない)は多いと思う。

よく、「リアル女子に相手にされないから、代用品として二次元女子に流れてるんでしょ?」と言われるが、そうではなくて単純に二次元女子リアル女子なのである。

自閉症の子は空間認識能力が低いことがあるので、リアル女子のような複雑な形状は手に余るのかもしれない(この仮説はいつか検証してみようと思う)。二次元女子の美しさは理解可能なのだが。

漫画を読んでいる子ども
写真=iStock.com/Alberto Gagliardi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Alberto Gagliardi

■定型発達児よりも楽しみが少ない自閉症児

発達障害を発現する子が増加傾向にある今、このトレンドは続くかもしれない。

ぼく自身は前から「恋愛市場において、リアル女子はそのうち本気で二次元女子と戦わなければならなくなる」だの、政治家に会う仕事があると「人口は今後ずっと減っていくでしょうが、二次元女子との婚姻をオタクに認めてそのぶん住民税を徴収すれば納税人口は増やせますよ」だの言ってきたので、トレンドの構築に加担している側である。

それは極端にしても、LGBTQ+と同列くらいのイメージで二次元キャラクタを愛情の対象とする人の認知が進むかもしれない(まだこの系列の中には入れてもらえていない気がする)。

とはいうものの、ふつうに体温を持った人間を好きになる自閉症児もたくさんいるし、傾向として二次元キャラクタや動物やモノを愛する子でも(そういえば、世界にはペットと結婚した人や、壁と結婚した人もいた。あれは自閉症ではなさそうだけれども)、何かの弾みで異性(別に同性でもいいのか)を好きになるかもしれない。

そもそも自閉症児は定型発達の子よりも楽しみが少なかったりするので(重い子だと食事だけが楽しみという子もいる。だから重度の子を持つご家庭は、せめて食事だけでも摂れるように偏食回避の訓練などに注力する。自閉症はこだわりや知覚過敏が強いから、極端な偏食になる子も多いのである)、その恋愛の記憶が、たとえ成就(じょうじゅ)しなくても、良い想い出になるといいなあと思うのである。

■コミュニケーション能力が問われる時代のつらさ

ぼくも、ちゃんとした人間の女の子を好きになったことがある。

あのときほどイケメンを羨ましく思ったことはない。ぼくは残念ながら哲学者のような風貌どころか、典型的なちびでぶコミュ障だったので、クリスマスもバレンタインもすべて他人事か絵空事のように思っていたし、それでまったく構わなかったのだが、あの一瞬だけは自分がまともな外見や性格を持つ人間だったらなあと、切に思ったのである。

自閉傾向の子といじめは、たぶんとても関係が深い。

というのは、現在の学校における児童・生徒の序列は、おそらくコミュニケーション能力によって決まるからだ。現代ほどコミュニケーション能力が求められる時代は、過去になかっただろう。ものすごくざっくりした言い方だが、いわゆる西側先進国の社会は戦後、「大きな物語」を持つ社会からポストモダン社会へと移行した。

大きな物語的な社会は、価値観のレンジが狭い。たとえばかつては、結婚はする、子どもを何人か持つ、マイホームに住まう、55歳まで働く、といったことは所与の条件で、議論するまでもない正義だった。

そのレンジの中で、子どもは男の子がいい・女の子がいい、あるいはマイホームは一戸建てがいい・マンションがいいといった「個性」が許されていた。

そこに反発する人ですら、「子どもを持つのが当たり前」として、その前提に逆らう自分という形でアイデンティティを確立していた。大枠の正義はとっても強固でゆるがなかった。

■多様性の時代になってもコミュ障は生きづらい

時代が下って、これがポストモダン的な社会へと移行した。個の尊重や思想信条の多様化が特徴だが、一言で表すなら価値観がばらけた。結婚はしてもしなくてもかまわないし、子どもを持つかどうかもわからない、必ずしも異性を愛さず、なんなら無体物を愛してもいい。

お金を稼ぐ人や権威ある人が偉いわけではない。どちらの社会にも一長一短はあると思う。大きな物語的な社会はとても息苦しい(やたらとお見合いを持ち込んでくる親戚や、妙に人の家の中を詮索したがるご近所さんを思い浮かべて欲しい)、しかし拘束がきついからこその安心感や連帯感はある。

ポストモダン的な社会は自分の好みに応じて、自由にマイペースで生きることができる。でも自己責任という言葉に代表されるように、自由は代償として孤独や責任を求める。

個人的には後者のほうが好きだ。ポストモダン的な社会の風通しを知ってしまうと、前者には戻れない。前者に対してノスタルジーを感じる人も、実際に戻れと言われたら躊躇(ちゅうちょ)するのではないだろうか。そもそも四六時中コンピュータをいじくり回して夜も寝ないオタクのような類型の人間は、ポストモダン的な社会でないと発生しにくいのだ。

では、現在の世の中でオタクは万々歳かというと、そうでもない。自閉傾向の子にとってもそうである。自閉傾向の子など、ポストモダン的な社会にとても向いていそうだ。「みんなちがって、みんないい」の社会なのだから、生きていく場所を見つけやすそうである。

理想としてはそうなのだが、現実はそうはなっていない。コミュニケーションの問題がつきまとうからだ。前者の社会から後者の社会へ変遷して、何が一番変わったかといえば、コミュニケーションコストの高騰に尽きる。

■「ご結婚はまだですか?」が通用しない世の中

以前は、久しぶりに会う親戚には、「ご結婚はまだですか?」などと言っておけばよかった。秒でひねり出せる定型文である。

しかし、今そんなことを言えば、まごうことなきセクハラでありパワハラでありモラハラでもあるだろう。現時点で、誰も傷つけない発言をするためには、自らの能力を結集し、相手の思想信条・性癖・コンプレックス・社会的地位・収入・家族構成などから最善の一手を導き出す必要がある。密度の高い地雷原を歩くようなものだ。

岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』(光文社新書)
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』(光文社新書)

だから、ここ数十年、企業が新卒の学生に求める能力は「コミュニケーション能力」であり続けている。「えっ、あんなに色々頑張って教えたのに、大学の成績とか見てくれないんですか」とは思うものの、実際問題として今を生き抜くためにはコミュニケーション能力が最重要なのは間違いがない。

そして、自閉傾向の子の主訴は、コミュニケーション能力の欠落である。

今の教室では、みんな高騰するコミュニケーションコストに疲弊して、児童・生徒のキャラ化が進んでいる。40人教室なら、40人ぶんのキャラが用意されていて、クラスがえが行われた最初の1~2週間の振る舞いで、誰にどのキャラが割り振られるかが決まっていく。

これは、コミュニケーションコストを抑えるための、児童・生徒なりの工夫だと思う。一人ひとりの性向を把握しているほど、みんな暇ではない。でも、類型化されたキャラであれば、「この人に何を言っていいのか」、「自分はどんな発言を求められているのか」は、とてもわかりやすい。

また、キャラであれば、傷つくようなことを言われても、「あれは自分のキャラに対して言われたことで、自分自身についてではない」とアイデンティティの危機を回避することもできる。

■「教室のキャラ化」はいじめキャラをつくりだす

教室のキャラ化自体は、そのような工夫であるといえるのだが、これの何が問題かといって、誰にどんなキャラが割り振られるのか、キャラ間の上下関係はどう構成されるか(いわゆるスクールカースト)が、ほぼコミュニケーション能力に依存している点だろう。

勉強ができたり、スポーツができたり、良さそうな特性を持っていても、コミュニケーション能力がなければ下位層のキャラに甘んじることになる。

多彩なキャラの中には、いじめられるキャラも用意されていて、それが割り振られるのは最もコミュニケーション能力が弱い子に他ならない。クラス内に自閉傾向の子がいれば、いじめられるキャラが降ってくる可能性は高くなる。

学校でいじめられて泣いている女の子
写真=iStock.com/andresr
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/andresr

だから、今の教室におけるいじめの構造は、変わった子がいていじめられて、ではその子が転校すればクラスが平和になるといったたぐいのものではない。その子がいなくなれば、空席になったいじめられるキャラに、別の誰かが割り当てられることで教室の日常は円滑に運営されていくからである。

残念ながら、この問題に対して冴えた解決策を持っているわけではない。社会構造やそれを覆う情報構造を通じて、こうした問題を解決するのが、ぼくの勉強している分野のテーマの一つだけれど、まだSNSの炎上問題すら満足に解決できてはいない。一生をかけて取り組むべき課題なのだと思う。

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岡嶋 裕史(おかじま・ゆうし)
中央大学国際情報学部教授
1972年生まれ。東京都出身。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学経済学部准教授・情報科学センター所長を経て、現職。著書に『ジオン軍の失敗』『ジオン軍の遺産』(角川コミック・エース)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『思考からの逃走』(日本経済新聞出版)、『ブロックチェーン』『5G』(講談社ブルーバックス)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』『プログラミング教育はいらない』(以上、光文社新書)など多数。

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(中央大学国際情報学部教授 岡嶋 裕史)

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