1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「漢文は本当に役に立たないのか」三国志が教える中国エリート層との付き合い方

プレジデントオンライン / 2021年5月3日 9時0分

早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん(左)、中国ルポライターの安田峰俊さん(右) - 撮影=中央公論新社写真部

日本のビジネスエリートのなかには「漢文は役に立たない」と公言する人がいる。一方、中国のエリートは必ず中国古典の知識をもっている。なぜこれほど違うのか。三国志研究の大家(たいか)で、今年2月に『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ)を刊行した早稲田大学理事の渡邉義浩氏と、今年に入り『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)、『「低度」外国人材』(KADOKAWA)を立て続けに刊行した中国ルポライターの安田峰俊氏との対談をお届けする――。(後編/全2回)

■「文化大革命で文化が全部なくなった」はウソである

【安田】前回は拙著『現代中国の秘密結社』にからめて、中国の庶民の人間関係のキーワード「侠(きょう)」(男気、義侠心)を中心にうかがいました。今回は逆にエリートのキーワードである「文(ぶん)」について聞かせてください。

安田峰俊『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)
安田峰俊『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)

【渡邉】中国を理解するうえで「文」の知識は欠かせません。すくなくとも、知識層を理解する場合はそうです。古典の知識がないと、ある程度以上の中国の知識人とは話にならないですから。

【安田】通俗的な中国論では「中国は文化大革命で文化が全部なくなった」という意見をよく見るのですが、文革は約半世紀前の10年間の事件。もちろん被害は極めて深刻でしたが、中国の古典文化はたった10年の動乱くらいでは滅びないでしょう。

【渡邉】そうですね。うち(早稲田大学)は中国政府の偉い人が訪日の際に来校したり、中国大使が来たりすることが多い大学なのですが、こういうときに総長はかならず理事の私(渡邉)を陪席させます。中国古典担当というわけですね。そうしないと、たとえ通訳がいたとしても、相手が言いたいことがわからないことがありますから。

【安田】早稲田大は清朝末期から留学生を受け入れていて、中国共産党の初期の指導者の李大釗や陳独秀の母校です。そういう事情からか、実は中国で早稲田大の知名度は慶応大や京都大よりも高い。江沢民や胡錦濤が来日時に講演の場所に選ぶなど、文化外交の舞台としての顔も持っています。当然、中国古典の教養も重要になってくるでしょう。

【渡邉】そういうことです。先方から詩をもらったりしたときに、ちゃんと和さなくてはいけない。すくなくとも、早稲田大ならば中国との交流のなかでそのくらいはやらなくては、メンツが立たないというものです。

■偉くなりたい人こそ漢文を学んだほうがいい

【安田】東洋世界における漢文や書道などの「文」の素養は、欧米におけるラテン語や古典ギリシア語と同じく、一定以上の階層の人たちの間では社交の基礎になっています。

早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん
撮影=中央公論新社写真部
早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん - 撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】最近、ビジネスエリートのような人たちが「漢文は役に立たないからやめてしまえ」なんて公言する例もあるようです。しかし、こう言っては申し訳ないですが、それでは本人のお里が知れる。中華圏の本物の金持ちや、本物の知識人との接点がないことがバレてしまいます。偉くなりたい人こそ漢文を学ぶべきですよ。

【安田】これは日本と中国の大きな違いですが、中国では「パワー(権力)」と「カネ」と「文」が一カ所に集中します。日本の場合、総理大臣が学識豊かとは限らないし、高い学問的業績を挙げた研究者が豪勢な暮らしを送っているとは限りません。しかし中国の場合、社会階層が上にいけばいくほど、この三つを総取りするというか、すべてを兼ね備えようとする傾向が強まります。

【渡邉】なので、中国の故宮博物院の院長は大学者。もちろん政治的にも重要な人物です。また、かつては台湾で孔子の子孫の孔德成が大臣(考試院院長)をやっていた例もあります。こうした人たちに、日本の政治家や官僚ではなかなか太刀打ちができませんよ。

■中国上流層の「筋トレ」と「文トレ」

【安田】私が過去に取材した経験がある中華圏の偉い人は、香港の政治家と台湾の大金持ち、あとはアメリカに亡命中の山師的な大富豪である郭文貴くらいです。郭文貴の場合、取材前の雑談であえて古典や骨董の話をしてきて、こちらがどのくらい話題に乗れるかを見てきましたね。私は外国人枠という特例で、ギリギリ合格させてもらいましたが(『もっとさいはての中国』[小学館新書]参照)。

早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん
撮影=中央公論新社写真部
早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん - 撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】ビジネスで成功した中国人がまず何をするかというと、版本(はんぽん;木版で印刷された古書)や骨董品を買うんです。そういう部分で「文」の素養を示そうとする。いま、日本で宋版(宋代に刊行された書物)がオークションに出ると数億円の値がつきますが、たいていは中国のお金持ちが落札します。安田さんが会った郭文貴も、おそらくそういうタイプでしょう。

【安田】はい。郭文貴は叩き上げの政商で、三国時代なら州のひとつくらいは奪っていそうなタイプです。本来は知識階層の出身者ではありません。ただ、中国である程度まで出世すると、文化的な知識が必要になり、しかるべき人間に進講を受ける。郭文貴は筋トレが趣味なのですが、中国の上流層は肉体だけでなく「文トレ」もやるのでしょう。

【渡邉】そうですね。たとえば習近平さんも、古典学者から勉強しているみたいです。

【安田】習近平は文化大革命世代で、青年時代に陝西省の寒村に7年間も下放されているので、本当は前世代と比べれば古典の教養が弱いはずです。ただ、『習近平用典』(2015年)という、自分が演説で引用した古典の解説書を人民日報社から刊行させるなど、「文」の素養を熱心にアピールしています。

【渡邉】たとえ社会主義を掲げている国家であろうと、中国が中国である以上は古典に回帰していくんです。習近平はそんな現王朝(中華人民共和国)の中興の祖たることを目指している君主なのだと思います。

■習近平が「取り戻す」時代はいつか

【安田】習近平政権の合言葉は「中華民族の偉大なる復興」です。中国では、世の中をよくするという考えが「過去に回帰する」という形で示されがちです。彼が理想とする時代は、やはり古代の周でしょうか。

渡邉義浩『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ)
渡邉義浩『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ)

【渡邉】周はよく理想化されますが、中央集権国家ではないのでちょっと戻りにくいのですよね。また、始皇帝の秦は中央集権ですが、すぐに滅んでしまったので都合が悪い。そこで、古典中国の理想は漢ということになります。歴代王朝で最長の約四〇〇年間を統治し、シルクロードの少数民族地域にも支配を伸ばしていましたから。

【安田】唐も理想的でしょうけれど、漢のほうが古いですしね。なにより漢は、中国文化の基本である「漢字」「漢語」の名前の由来になった王朝です。

【渡邉】その通りです。漢は中国が統一された「大一統」の時代ということで、近年の中国では非常に喜ばれる。また、漢が理想化されるのは歴史書『漢書』の影響もあります。

【安田】読み物として一般的にも人気が高い『史記』ではなくて、『漢書』なのですね。

【渡邉】『史記』は批判的に歴史を記した本。いっぽう、『漢書』は漢王朝のすばらしさを言祝いだ本なんです。ゆえに中国では『漢書』が好まれ、後世に読みつがれるなかで漢が理想化され、漢の文化が古典化していった。儒教を国教とする漢の国家体制についても、それが中国の望ましき姿であると認識されるようになったのです。

■マルクスを捨てて孔子に戻る中国

【安田】儒教は中国の近現代史を通じて批判の対象にされることが多く、その頂点が文化大革命だったと思います。ところが今世紀に入るころから、中国の儒教への回帰が一気に進んだ印象です。

中国ルポライターの安田峰俊さん
撮影=中央公論新社写真部
中国ルポライターの安田峰俊さん - 撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】1989年の六四天安門事件が分水嶺だと思います。事件後、江沢民が国際的に著名な儒学者と会ったり、1994年に設立される国際儒家聯合会の設立を中国政府が後押ししたりするようになりました。当時、中国は社会主義を事実上捨て、しかし天安門事件によって民主主義の道も否定した時期です。残っているのは儒教に代表される古典中国の魅力しかなかったということでしょう。

安田峰俊『八九六四 完全版』(KADOKAWA)
安田峰俊『八九六四 完全版』(KADOKAWA)

【安田】中国共産党は史上最大の秘密結社みたいなもので、中華人民共和国の建国は秘密結社が天下を取った出来事とも言えます。ただ、天安門事件をきっかけに秘密結社的な性質が薄れ、普通の中華王朝に変わった。それまでどこかに残っていた、理念的な人工国家みたいな雰囲気が消えたんです。

【渡邉】中国は近代の歴史のなかで儒教をいったん放り出して、マルクス・レーニン主義という新しい宗教を入れてみたわけですが、これではダメだということで元に戻ったのだと思います。古典中国に戻れば、資本主義も専制体制も許容され得ますから。

【安田】『習近平用典』を読むと、習近平が演説で最も多く引用しているのは『論語』です。彼本人は荀子がお気に入りだそうですが、他にも儒家の言葉の引用が非常に多い。

【渡邉】論理の部分まで「帰ってきた」という感じがあります。中国古代史学者としては、古典中国の世界に「帰ってきた」という言葉を、実感を込めて用いざるを得ないですよね。よいか悪いかという話ではなく。

■毛沢東が曹操を非常に高く評価している

【安田】最後にすこし三国志の話に戻ります。以前、『太平天国――皇帝なき中国の挫折』の菊池秀明先生から聞いたのですが、現代中国で太平天国研究は低調だそうです。理由は新興宗教の上帝会が反乱を起こして新国家を作る行為が、反体制的な疑似宗教団体・法輪功(『現代中国の秘密結社』に登場)を想起させるからだと。では、現代の中国国内における三国志研究は活発なのでしょうか?

安田峰俊『中国VS日本』(PHP研究所)
安田峰俊『中国VS日本』(PHP研究所)

【渡邉】歴史学の研究対象としては、三国志はもともと人気のある対象ではないですね。近年は中国の統一の重要性を強調する「大一統」との絡みから、秦や漢の研究なら人気があるのですが。三国志については、小説『三国志演義』の研究者のほうが圧倒的に多い。

【安田】史学科の1年生がよく勘違いする例のやつですね。実は『三国志演義』がベースの三国志、つまり横山光輝さん的な三国志やコーエーの『三國志』が好きな人は、東洋史学ではなく中国文学を専攻するのが正解です。歴史学はもっと地味な世界ですよね……。

【渡邉】そう。だから歴史学者の私が喋る三国志の話は「つまらない」なんて、よく言われてしまう(笑)。

【安田】かつて中国における三国志は、小説『三国志演義』のほか、講談や京劇の演目として、勧善懲悪の物語が語り継がれてきました。なので伝統的な解釈では、劉備・関羽・諸葛亮が善玉なのに対して、曹操は悪玉。しかし、日本では曹操の人気が高いと思います。

【渡邉】日本の場合、曹操人気については吉川英治さんの小説『三国志』と、そのストーリーがベースになっている横山光輝さんの作品の影響が大きいでしょう。ただ、実は中国でも曹操は評価が高いんです。なぜなら、毛沢東が曹操を非常に高く評価していたから。

■社会を変えたくない人が好きなのは諸葛亮

【安田】調べてみると、毛沢東は1954年に「曹操は素晴らしい政治家かつ軍事指導者であるのみならず、素晴らしい詩人でもあった」と発言しています。ベタ褒めですね。

メモ
撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】毛沢東はもともと、始皇帝や曹操のような法家(法による厳格な政治を求める思想)的な人物を高く評価していたという事情もありますが、それ以上に個人的に曹操が好きだったはずです。お互いに詩人ですから。

【安田】中国の帝王で、かつ文学史上でも一流レベルに入る人は曹操と毛沢東しかいませんから、共鳴するものがあるのかもしれません。

【渡邉】曹操の文学は非常に素晴らしいものです。日本でも、たとえば中曽根康弘さんがサインするときは「老驥 櫪に伏すも、志は千里に有り」と、曹操の詩「歩出夏門行」を引用している。東晋の大将軍だった王敦も、酔っぱらうと唾壺(だこ)を叩きながらこれを歌う癖があって、ついには壺のフチを全部欠けさせてしまったといいます。私自身も含め、この一節はみんな大好きなのです。

【安田】「文」が重視される中国の統治者として、一流の文人である曹操の評価が高くなるのは納得感があります。

【渡邉】そうですね。特に曹操の場合は、すでに権力を握っている人や、なにかを改革したい人からの評価が高い。毛沢東とか魯迅とかですね。いっぽう、社会を変えたくない人が好きなのは諸葛亮です。朱子学で知られる朱熹などは、諸葛亮が大好きですから。

【安田】現在の指導者である習近平は「毛沢東の影響が強い」とよく言われますが、保守的な性格のためか、演説などで諸葛亮の「出師表」から何度か引用をおこなっていますね。他に帝王の書である『貞観政要』も好きだと聞いたことがあります。

【渡邉】歴史の人物の誰を高く評価しているか、どんな古典が好きかで、現代の政治家の個性まで見えてくるわけです。中国における「文」はなかなか奥が深いものでしょう?

----------

渡邉 義浩(わたなべ・よしひろ)
早稲田大学文学学術院教授、三国志学会事務局長
1962年生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了、文学博士。専門は中国古代史。著書に『後漢国家の支配と儒教』『諸葛亮孔明 その虚像と実像』『図解雑学 三国志』『三国志 演義から正史、そして史実へ』『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』などがある。新潮文庫版の吉川英治『三国志』において、全巻の監修を担当した。

----------

----------

安田 峰俊(やすだ・みねとし)
ルポライター
1982年滋賀県生まれ。中国ルポライター。立命館大学人文科学研究所客員協力研究員。著書『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』が第50回大宅壮一ノンフィクション賞、第5回城山三郎賞を受賞。2021年は『現代中国の秘密結社 マフィア、政党、カルトの興亡史』(中公新書ラクレ)、『「低度」外国人材 移民焼き畑国家、日本』(KADOKAWA)、『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(角川新書)、『中国vs-世界 呑まれる国、抗う国』(PHP新書)を続々と刊行。

----------

(早稲田大学文学学術院教授、三国志学会事務局長 渡邉 義浩、ルポライター 安田 峰俊)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください