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「薬物に手を出すと廃人になる」私たちがずっと教わってきた話はウソである

プレジデントオンライン / 2021年5月21日 11時15分

2010年1月20日、東京都港区と警視庁が共同開催した「港区薬物乱用防止キャンペーン」でパレードする武井雅昭区長(中央)ら(東京・六本木) - 写真=時事通信フォト

薬物に関しては「ダメ。ゼッタイ。」「手を出すと廃人になる」というメッセージが繰り返し伝えられてきた。しかし専門医の松本俊彦さんは「そうした理解は間違っている。薬物を一時的にやめた人は“まとも”に見える」という――。(第1回/全2回)

※本稿は、松本俊彦『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』(みすず書房)の一部を再編集したものです。

■カメラの前で謝罪し、落涙した有名女優

2009年の夏、世間は一人の女優の薬物事件に騒然とした。

「うさぎって寂しいと死んじゃうんだから」という名セリフで知られる清純派女優と覚せい剤という組み合わせの意外性、それから、火曜サスペンス劇場さながらのスリリングな逃避行が相まって、事件報道は異様な過熱を見せた。

ワイドショーは連日その女優に関する話題で持ちきりとなり、週刊誌やスポーツ新聞も多数の憶測記事を書き立てた。

そしてこの劇場は、保釈後会見で大団円を迎えることとなる。いま振り返っても、会見での女優のふるまいは見事だった。神妙に目を伏せた顔は、それまで留置所にいた人間とは思えないほど美しく、毅然(きぜん)と謝罪する態度には神々しいオーラさえ漂っていた。

落涙のタイミングも絶妙だった。謝罪のために頭を下げた姿勢のときに涙滴を落下させれば、マスカラが溶け出して「パンダ目」になることもない。まさに女優の面目躍如だ。ちなみに、芸能リポーターの故・梨元勝の観察によれば、会見中に彼女が落下させた涙は22滴であったという。

あの会見で、女優は多くの人に「自分は依存症までにはなっていない」ことを印象づけるのに成功した。なぜなら彼女の毅然とした美しさは、人々が抱く依存症者のステレオタイプとは似ても似つかなかったからだ。しかし、意地悪くも私は勘ぐってしまうのだ。この会見に落胆した人もいたのではなかったか、と。

■薬物を一時的にやめた人が“まとも”に見えるのは当たり前

いわゆる「良識派」の人々がひそかに期待していたのは、美しさや神々しさではなく、減量しすぎた力石徹のようにギラついた目にこけた頬、あるいは不摂生のせいで吹き出物だらけの荒れた肌や、呂律も回らない、支離滅裂な話しぶりではなかったろうか?

そしてそのような姿を見て、自身の凡庸さや退屈な人生を肯定する機会とし、「快楽を貪った天罰、やっぱり普通が一番よ」などと得意顔で語りたかったのではなかろうか?

専門家として断言する。女優自身が実際どうかはさておき、一般論としていえば、あの姿は依存症者のものとしてなんら矛盾しない。薬物依存症者の多くは、薬物さえ使っていなければ、あるいは、目の前に薬物がなければ、普通の人なのだ。

しかし、多くの人はそのことを知らない。なぜなら私たちは、薬物に関してずっと嘘を教えられてきたからだ。

ここからはじめよう。

■体育館で無理やり講演を聞かされる生徒たち

1990年代末ごろから、国内各地の中学校や高校では薬物乱用防止教室――生徒に対して「ダメ。ゼッタイ。」と唱える、いわゆる薬害教育だ――が開催されるようになった。私は、薬物依存症業界に入ってからの四半世紀、ずっとその仕事が嫌で嫌でたまらず、講師の依頼が来るたびに暗い気持ちになった。

理由はいろいろある。

まず、会場が体育館という点が気に入らない。体育館は、夏はサウナさながらの灼熱(しゃくねつ)地獄、冬は冬で冷凍倉庫へと、気象条件が極端から極端に振れる過酷な環境だ。だから、講演は往々にして汗まみれになったり、寒さに凍えたりしながらの我慢大会となる。

体育館
写真=iStock.com/ferrantraite
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ferrantraite

音響も悪く、マイクを通した自分の声の返しが弱い。だから、つい不自然に声を張り上げて話してしまい、講演終了後は、オールでカラオケしまくったと誤解されかねないガラガラ声になる。

心の古傷に障る感じがするのも嫌だ。

生徒たちは不憫(ふびん)にも硬い体育館の床に「体育座り」をさせられ、列を正すために「小さく前にならえ!」とかやらされる。見ているだけでこちらの胸が痛くなりそうな、40年前と何も変わっていない学校の風景だ。

生徒のなかには友だちとのおしゃべりが止まらない者もいる。私自身、そんなの一向に気にならないのだが、どうにも許容できない人もいる。ジャージ姿の生徒指導担当教師だ。

彼は、突然、「そこのおめぇーら、立て!」と、こちらの心臓が止まるかと思うほどの大怒声をあげるのだ。そして、他の生徒たちがいっせいに視線を注ぐなかで、こう叫ぶ。

「そんなに話したいなら、松本先生の代わりにおまえらが講演しろ。さあ早く前に出て来い! はい、みなさん、この二人に拍手」。なんという恥辱的な仕打ちだろう。

■薬物依存症の回復者と一緒に登壇しようとしたが…

怒鳴るだけでは足りずに、竹刀で演壇を思い切り叩く教師もいる。

なるほど、そうすれば生徒たちのざわめきは瞬時におさまる。だが、重苦しく気まずい静けさのなかで、講師である私の意欲はすっかり萎え、冷え切っている。考えてもみてほしい。

あの、竹刀で叩かれた演壇に立たなければならないのだ。気分の悪いことこのうえない。

こうした場面に遭遇するたびに、私は自分の中学時代を思い出さずにはいられない。40年前、校内暴力の嵐が吹き荒れる前にも、この種の教師がいて、暴力による脅しと恥辱的な罰によって生徒たちを沈黙させていたのだった。

薬物乱用防止教室には苦い思い出がある。20年ほど昔、私はある中学校から薬物乱用防止教室の講師として依頼を受けた。当時まだ駆け出しだった私には、とてもハードルの高い仕事だった。

医学生相手と同じ調子で、さまざまな薬物の効果や健康被害を羅列的に話そうものならば、生徒たちは麻酔にかかったようにあっという間に意識を失ってしまう。どうにかして生徒たちの集中力を切らさない方法を考える必要があった。

そこで、私は一計を案じた。それは、ダルク(民間の依存症リハビリ施設)の職員をやっていた、薬物依存症からの回復者に私と一緒に登壇してもらい、自身の体験談を話してもらう、というものだった。

医者の冗長で単調な話なんかよりはるかにリアリティがあり、生徒たちの関心を惹きつけるはずと考えたわけだ。

ところが、私の提案は学校側からにべもなく却下されてしまった。理由は、「薬物依存症の回復者がいることを知ると、生徒たちが「薬物にハマッても回復できる」と油断して、薬物に手を出す生徒が出てくるから」というものだった。

■「生徒たちを震え上がらせてほしいのです」

電話での事前打ち合わせの際、校長からはこう念を押された。

「とにかく先生にお願いしたいのは、薬物の怖さを大いに盛って話していただき、生徒たちを震え上がらせてほしいのです。一回でも薬物に手を出すと、脳が快楽にハイジャックされて、人生が破滅することを知ってほしいんです」

会議室で話し合うスーツの男性
写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

わかってない。後に薬物依存症に罹患する人のなかでさえ、最初の一回で快楽に溺れてしまった者などめったにいないのだ。快感がないかわりに、幻覚や被害妄想といった健康上の異変も起きない。

あえていえば、多くの人にとってのアルコールや煙草がそうであったように、初体験の際にはせいぜい軽い不快感を自覚する程度だろう。

つまり、薬物の初体験は「拍子抜け」で終わるのだ。若者たちはこう感じる。「学校で教わったことと全然違う。やっぱり大人は嘘つきなんだ」。その瞬間から、彼らは、薬物経験者の言葉だけを信じるようになり、親や教師、専門家の言葉は、耳には聞こえても心に届かなくなる。これが一番怖いのだ。

■「見世物要因」として利用されていた当事者

このエピソードには後日談がある。私は、学校から登壇を許可されなかったことの釈明と謝罪をしに、あらかじめお願いしておいたダルク職員を訪れた。

彼は、苦笑まじりにこう語った。

「そういうのはいまだにときどきありますね。それでも、最近は少しずつ講演に呼んでくれるところも出てきましたよ」

そういうと、にやっと自嘲的に笑ってこう続けた。

「ただ、変な注文をつけられますけどね。たとえば、『スーツでバシッと決めて、みたいなかっこいい服装でこないでください。できれば古いジャージとか、ヨレた感じの服装でお願いします』とか」

少なくとも20年前、学校が当事者を呼ぶのは、あくまでも反面教師もしくは「廃人」の見世物要員としてだったのだ。

最近10年ほどであろうか、わが国は薬物に手を出した人に対して異様なまでに厳しい社会となった。ターニング・ポイントとなったのは、やはりあの女優の事件だったと思う。

あの事件以降、芸能人の薬物事件報道は年々過激さを増してきた。特にテレビのワイドショー番組がひどい。したり顔のコメンテーターたちに逮捕された芸能人を非難させ、ところどころで街頭インタビューで拾った一般人の、「がっかりした」「もうファンを辞めます」といった声を差し挟むなど、人々の処罰感情を煽ることに余念がない。

■過剰な報道が薬物依存症からの回復を妨げている

奇妙な慣習もはじまった。それは、保釈時には警察署の前で深々と頭を下げて謝罪し、その後は、マスコミ関係者による車やバイク、さらにはヘリコプターまで動員した追跡を甘んじて受け容れる、というものだ。

誰かが公式に決定したわけではないが、いつしかそのような雰囲気が醸成されてしまった。

それだけではない。「どうやら専門病院で依存症の治療を受けるらしい」という噂が出回れば、首都圏のめぼしい専門病院に多数の報道スタッフが詰めかけ、スクープショットを狙うのだ。病院は安全とはいえない。

といって、自宅に戻れば戻ったで、マスコミは自宅に押し寄せ、本人どころかその家族にまでマイクを向けてインタビューを試みる。おそらく保釈された芸能人は、しばらくは偽名でホテルを転々とするしかなく、自宅に寄りつくこともできないだろう。明らかに人権侵害だ。

スーツの人にマイクを向けインタビューするジャーナリスト
写真=iStock.com/microgen
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/microgen

もちろん、マスコミなりの正義はあろう。実際、「これもまた社会的制裁の一部であり、こうした報道自体が乱用抑止に貢献している」と、自分たちの私刑を正当化する番組プロデューサーと会ったことがある。

だが、こうした報道が、薬物依存症からの回復を妨げていることを忘れてはならない。

連日のワイドショー番組での厳しい論調を聞いているうちに、「いくら頑張って薬物をやめても、自分が戻れる場所はもうない」と絶望し、治療意欲を阻喪してしまう患者はかなり多い。

そして、番組で頻繁に挿入される、覚せい剤を彷彿させる「白い粉と注射器」のイメージショットが、薬物依存症患者の薬物渇望を刺激するのだ。その結果、薬物を再使用してしまうケースも少なくない。

■「芸能人の○○さん、うちに受診するんですか?」

被害は専門家の私にも飛び火する。逮捕された芸能人が保釈されるたびに、勤務先の病院に報道陣が詰めかけ、付近の路上に中継車が何台も連なって駐車するのだ。当然、近隣住民からクレームが入り、病院の事務部門から詰問される羽目になる。

「松本先生、今日保釈予定の芸能人の○○さん、うちに受診するのですか?」
「それはないです。少なくとも私はそんな話は聞いていない」

そう私が答えると、相手は、

「もちろん、プライバシー保護が大事なので話しにくいのはわかりますが、受診するとなればこちらも対応方法や診察室までの動線を考えなければなりません。怒らないので正直に教えてください。やはり受診されるのですか?」
「怒られる筋合いはないし、嘘つく道理もないです……」

冗談のような話だが、嘘ではない。

■「流行りものだから」という理由だけで飛びつくマスコミ

専門家のコメントを取ろうとしてテレビ局や新聞社からの連絡も多い。その大半が、薬物問題にまったく関心がなく、私ともまったく面識のない記者が、「流行りものだから」といった理由から飛びついているだけだ。

松本俊彦『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』(みすず書房)
松本俊彦『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』(みすず書房)

うっかりコメントしようものならば、自分の言葉をどう切り取って使われるか予想もつかない。だから、そうした取材要請にはいっさい応えないが、粘り腰の記者を諦めさせるには生半可な気力では足りない。

それでも、「これは」と思う記者からの取材はできるだけ受けてきたし、必要があればテレビにだって出演した。もちろん、「人の不幸を飯の種にしている」という後ろめたさは皆無ではないが、だからといって、啓発の機会を逃すべきではない。

とはいえ、ある媒体が信頼に値するのかを判断するのはむずかしい。私自身、これまでに何度となく読みが外れ、傷ついたり、落胆したり、憤ったりしてきた。

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松本 俊彦(まつもと・としひこ)
精神科医
国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部部長 兼 薬物依存症治療センターセンター長。医学博士。1967年生まれ。93年佐賀医科大学医学部卒業。横浜市立大学医学部附属病院などを経て、2015年より現職。近著に『薬物依存症』(ちくま新書)がある。

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(精神科医 松本 俊彦)

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