「旭は生き抜いてくれた」16歳で亡くなった天才作曲家の母が追悼式で語ったこと
プレジデントオンライン / 2021年6月16日 15時15分
※本稿は、小倉孝保『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■「旭君が死んじゃうのはあまりに不公平だ」
2016年5月20日。16歳の加藤旭は脳腫瘍との闘病の末、帰らぬ人となった。
旭が逝ったことを知った作曲家の池辺晋一郎は、自分の体験と重ね合わせ、不公平だなと思った。彼は幼いころ、体が弱かった。母は医師から、「お子さんは20歳まで(生きるの)は無理です」と言われている。池辺はそうした母と医師の会話を偶然聞いてしまった。
20歳まで生きられないのなら、やりたいことは何でもやろうと池辺は思った。本を読み、芝居、映画を見て、合唱やオーケストラに参加した。
医師の見立てが悪かったのか、医療技術が上がったのか、池辺は「約束の20年」よりも半世紀以上、長く生きている。
「幸運にも、医師の言葉通りにならなかった。でも、世の中には旭君のように、元気で生きていくと思われていた子が、あんなことになってしまうことがある。僕がこんな歳まで生きているのに、旭君が死んじゃうのはあまりに不公平だ」
池辺は旭が生きていれば、一緒に音楽会や芝居に行き、楽しい交流ができたのにと思い、返す返すも悔しかった。
指揮者大友直人も残念でならなかった。
「大人になった彼ときちんと音楽の話がしてみたかった」
多くの音楽家が彼の死去に虚脱感を覚えた。
■楽譜、手紙、遊具、千羽鶴に囲まれて
23日の通夜には同級生や音楽関係者ら約480人が参列した。鎌倉二葉会館の会場には旭が幼少時から書きためた五線譜が飾られた。
翌日の葬儀では、旭の作曲した「くじらぐも」がハープで生演奏された。ひつぎの中で横になる旭は穏やかな表情をしていた。出棺の際、栄光学園の制服、楽譜、鉛筆、担任の林や同級生からの手紙、八木重吉の詩、旭が好きだった盤上遊戯「カロム」の玉、そして栄光学園のみんなが折った千羽鶴が入れられ、旭の身体は花で覆われた。
ひつぎのふたが閉まるとき、妹の息吹が旭の親友、中村耀三からの手紙を下から引っ張り出し、旭が読みやすいように開いて置いた。ひつぎのふたが閉まった。母の希がその上に花束を置いた。
戒名は「旭光清奏信士」。CDと学校の名前にある「光」の文字が入っていた。
6月5日に銀座のヤマハホールで追悼コンサートが開かれた。三谷が代表を務めるアーツスプレッドの企画である。旭が最晩年に作った「船旅」と「A ray of light(一筋の希望)」を三谷がピアノで独奏した。
父の康裕が遺影を持って客席で立ち上がると、聴衆は割れるような拍手をした。
三谷は、「旭君は『同じように難病に苦しむ子どもたちのためになりたい』という気持ちがありました」と紹介し、CDや楽譜の売上から小児がん患者らを支援する3団体に寄付金を贈った。
■「忘れないよ きみとのたび」
康裕は舞台でこう話した。
「自分の作った曲を何かに役立てたいという夢が叶い、旭も喜んでいると思います。今日は一緒に連れてきました。会場のどこかで楽しんでいると思います」
参加者全員で「くじらぐも」を合唱した。
〈忘れないよ きみとのたび〉
旭が作った歌詞が会場の一人一人の胸に届いた。
コンサートには、『くじらぐも』の作家、中川李枝子も参加していた。翌日、彼女は希に電話をし、「旭君は生き切ったのね」と伝えている。
栄光学園での追悼式は旭が旅立ってちょうど1カ月後の6月20日だった。みんなで黙禱をしたあと、校長の望月がこうあいさつした。
〈私たちは苦しみの中にいるはずの加藤君と会うたびに、いつも逆に明るい気持ちになり、自分も一生懸命にがんばろう、という思いに、自然になっていきました。それは、加藤君が自分自身の中で、痛みや苦しみを、逆に、友だちや周りの人々、そして特に同じような難病とともに生きている人々に対する、思いやりや愛情に変化させていたからではないかと思います。〉
旭を撮影した写真がスライド上映され、同級生が彼との思い出を語ったあと、旭の詩を朗読した。彼が高校1年生のときに作った英語詩だった。
The more it shows its spirit
Oh, how I love nature
Forever, we should cherish and nurture
自然に耳を傾けたなら
彼らは僕に語ってくれる
ああ、本当に自然が好きだ
いつまでも守り育むべきだ〉
同級生の武優樹が旭の曲「しずかな春の夜」をピアノ演奏する中、同級生が交代で舞台に上がり遺影に向かって献花した。
■母が語った「旭の本当の強さ」
最後に希が、こうあいさつしている。
<初めて脳腫瘍が疑われたのは旭が中2で、MRI検査をしたときです。画像では、素人でも明らかに腫瘍だとわかる影が確認でき、すぐに大きな病院で検査した方がよいと言われました。
その帰り道、旭は「原因がわからない頭痛よりもいいよ。原因がわかれば治療してもらえるから」と言い、つられて私も「あれはどう見ても端っこの方やった。きっと手術でさっと取れる位置やね」と答えました。お互いに非常事態とはわかっていながら、明るく乗り切っていこうという暗黙の了解があったように思います。
以降5回の手術と抗がん剤治療、放射線治療。言葉にするとそれだけのことですが、どの治療にも命の危険や激痛、だるさなどが伴いました。そのどれをも旭は「学校に戻りたい」という強い気持ちを支えに乗り切ってきました。
常に前向きな彼の姿に、こちらが嘆いたり、不安に陥ってしまったりしたら、彼に失礼だな、と思うくらいでした。家族も、明るい方へ、明るい方へと、考えるよう意識しました。
それでもさすがに衝撃を受けたのは、余命の話が出たときです。3カ月という短い期間を、正直どう受け止めてよいのかわかりませんでした。主治医の先生は患者本人には余命を伝えない方針でした。家族もひとまず旭に伝えるのは保留にし、彼の今後の人生をできうる限り明るいものにしようと考えました。
■余命を本人に伝えるべきなのか
放射線治療後の退院は難しいと言われましたが、本人の強い希望で自宅療養に踏み切ることにしました。
退院後の通学について学校に相談すると、林(直人)副校長と養護の内藤(かおり)先生が大船から1時間以上もかかる東海大学医学部付属病院まで足を運んでくださいました。そして主治医の先生と話し合ってくださいました。私も同席したのですが、主治医の先生は、「旭君はみんなと一緒に高校を卒業することはできません」と断言されました。(余命)期間を告げられたときよりもショックで、涙が止まりませんでした。
主治医の先生は、「病院にいる僕は退院後の旭君に何もしてあげられないんです。先生方、よろしくお願いします」と栄光の先生に頭を下げてくださいました。林副校長と内藤先生は、卒業できないとわかっている生徒なのに、学校として旭に何ができるのかを必死に考えてくださいました。私の涙の理由は、ショックから感動に変わりました。
旭自身に余命をどう伝えるか。そもそも伝えるのか、伝えないのか。それは大事なテーマでした。それまで、どんなリスクも包み隠さず旭に話してこられた主治医の先生ですが、余命については「本人には伝えない。自分でいずれ『いよいよだ』とわかるときが必ず来る」という持論でした。
■できる限りのことをし尽くし、生き抜いてくれた
次に主治医になってくださった先生は「伝える、伝えないについてはケースバイケース。余命が明らかになって『これをやっておきたい』と思う場合もある」。別の先生は「自分の体の情報なのだから伝えて当然。ただし、ご両親が話さないでいるのに、それを飛び越えて話すことはしない」とのお考え。ドクターによって見解はさまざまでした。
結果的には、こちらから旭に伝える、ということはしませんでした。でも、つらい現実を必死で隠す、というのとは違います。本人が尋ねてきたら、いつでもオープンに話すつもりでした。旭の病状が変化するたびに、その時のメインのドクターに、旭に説明する準備はお願いしていました。
旭はどれだけつらい状況になっても、周囲のことを気にする優しさは失わなかった。学校に行きたいという気持ちを心の底に持ちながら、音楽に喜びを見つけ、誰かとつながり、誰かの役に立つことまでを考え、曲を作った。「やっぱり旭は旭だ」と思いました。
余命を話題にしなくても、命の重さ、一瞬一瞬の大切さ、周りへの感謝、それらをわかっている子でした。できる限りのことをし尽くし、生き抜いてくれたと思います。
私は今、「なぜ16歳だったのだろう」とよく考えます。まだその答えは出ません。旭と同じ世代の皆さんと、一緒に考え続けていけたらと思います。(一部抜粋)>
■雨上がりの青空の下で行われた卒業式
旭が亡くなってしばらくすると希のところに、彼の生き方に勇気づけられたという感想が届く。晩年の取り組みがテレビや新聞で取り上げられたためだった。
旭が旅立って5カ月経った10月21日、鎌倉市は旭に感謝状を贈った。彼の楽曲と前向きな姿勢が、多くの市民に勇気と感動を与えたのが理由だった。
栄光学園66期の卒業式は18年3月1日、大講堂で開かれ、希も出席した。式を前に同級生から招待状が届いていた。
〈僕たちの巣立ちをちゃんと見届けてくださいね、笑!〉(吉田)
〈栄光生66期全員の旭とともに迎える最初で最後の卒業式です 是非ともいらして下さい!〉(小松原)
式の当日は未明から天気が荒れ、午前8時前には雨が一層強くなった。その後、うそのように晴れ、10時前には気持ち良いほどの青空が広がった。
式の開始(10時20分)前に、希は玄関から大講堂まで、緩やかな坂を歩きながら空を見上げた。校舎は3階建てから2階建てになり、以前にも増して空が広くなったように思った。
開式の辞のあと、卒業生173人全員の名前が呼ばれ、望月が一人一人に証書を手渡した。旭の作ったピアノ曲が講堂に流れた。
望月はこうあいさつした。
「一昨年亡くなった加藤君も講堂のどこかで参加しています。社会に出て、悩んだときは広い空を見上げてほしい。栄光学園の広い空を見上げてほしい」
■「66期を作ったのはオタクの一人、加藤旭だ」
栄光学園付司祭、萱場基(かやばもとい)は旭を車いすやストレッチャーで迎えた経験を紹介し、「旭君は病気が進行してからも、他者のために生きることを考え続けた。旭君がまいた種子があなたたちのものとして育っている」と述べた。
卒業生代表の西村勇人は、栄光学園は「オタクの集団だ」と笑わせたあと、「オタク」は専門に熱くなるという意味だと説明し、こう続けた。
「私たち66期を作ったのはオタクの一人、加藤旭の存在だ。10歳までに約500曲を作った。その加藤旭は我々の進むべき道を示している」
そして、西村は旭がCDに託したメッセージを紹介した。
〈このCDをきっかけに楽しい気持ちになってくれたらうれしい〉
「加藤ももっと長生きしたかったはずだ。そういうときでも加藤は他人に目を向けていた。他者を尊重できる熱意を持った専門家であれ」
■「他者の役に立ちたい」という願い
考えてみれば、自己主張の強い時代である。「自分、自分」ととにかく我が利益を主張することがてらいなく語られる。しかし、自分のためだけに生きることは本来、貧しく、悲しく、寂しい。旭は声高に、語りはしなかったが、他者のために生きる意味を示した。豊かな生き方だった。
式が終わり卒業生、教員、そして保護者が講堂を出た。
外階段の左右に小さな桜があった。
アサヒヤマザクラ。
栄光学園が旭を記憶にとどめようと植樹した花だった。アサヒヤマザクラは寒さに耐え、春にはたくさんの花を咲かせる。
植樹されたばかりのアサヒヤマザクラはまだ花を付けていなかった。ただ、きょうの卒業生同様、いずれ広い空に向かって枝をはり、白い花を咲かせる。
他者の役に立ちたい──。
旭の願いもサクラとともに大輪の花となる。(敬称略)
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毎日新聞論説委員
1964年滋賀県長浜市生まれ88年、毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。近著に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)がある。
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(毎日新聞論説委員 小倉 孝保)
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