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「耄碌する義父母、のたうつ夫」4年で3人を天国に送った長男の嫁が見た"地獄の沙汰"

プレジデントオンライン / 2021年6月19日 11時30分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/HadelProductions

関東生まれ関東育ちの既婚女性(当時50代)は、夫の定年後に、夫の実家がある東北の田舎へ義両親と同居するために引っ越した。認知症の始まった義父と、尿意を感じなくなった義母を世話して約3年後、夫が腰に激痛を訴え始め、歩くこともままならないほどに。自身も若い頃からメニエール病を患い、高齢の義父・義母に加え、夫の世話まで背負い込んだ女性を待ち受けていた地獄とは――。
【前編のあらすじ】
関東の都市部に生まれ育った知多清美さん(仮名・60代・既婚)の夫は、東北出身。若い頃から言っていた「定年退職したら田舎に戻る」を有言実行し、夫婦で引っ越す。だが、認知症の義父は90歳近くでも車の運転をやめず、尿意を感じなくなった義母は尿を垂れ流す。女性は持病のメニエール病に悩まされながらも、義両親の世話に奮闘。そんな時、夫の腰痛が悪化し、歩くのもままならないほどに。さまざまな検査を受けると……。

■夫の腰椎は砕けて空洞状態「多発性骨髄腫」という血液がんだった

2016年、認知症の始まった義父(93歳)は家の中で転倒し、右大腿骨頚部骨折をして以来、体調が悪化し、介護老人保健施設に入ることになった。翌年1月、施設内でインフルエンザが大流行。義父も感染し、その後、肺炎に。何日も熱が下がらず、一時は生死の境をさまよったが、2週間ほどで熱は下がる。しかし食べ物も飲み物も、口からは受け付けなくなっていた。

2月に入るとようやく義父は口からの食事を再開。1日3食食べられるまでに回復し、知多さんたちは義父の生命力に驚かされた。

一方、夫の腰は深刻だった。さまざまな検査の結果を踏まえ、整形外科の医師から、圧迫骨折、脊柱管狭窄症、骨粗鬆症と診断されるが、「悪い病気の可能性がある」ことから、さらに詳しく検査をしていくことに。

夫の腰椎の一部はバラバラに砕け、空洞状態になっていた。

「夫は学生時代からずっとスポーツをしていて、がっしり体型で体力だけには自信があった人。畑仕事をするようになってから徐々に体重が減ってきていましたが、そんな人の骨とはとても思えませんでした」

血液検査、大腸の内視鏡検査などを経て、夫は総合病院に転院。

主治医となった医師は、知多さん夫婦に「多発性骨髄腫」と告げた。「多発性骨髄腫」とは、病気が進行すると骨の破壊による痛みや骨折、腎障害、また造血が妨げられることによる貧血、感染症など、さまざまな症状や臓器障害が現れるようになる“血液のがん”だった。

■ベッドでのたうつ夫「殺される」「夫は気が狂ってしまう?」

知多さんの夫は、毎年健康診断を受け、がん検診も受診していたという。

一般的な鎮痛薬は効かないため、医療用麻薬が処方された。

2017年2月。夫は病気の進行と腰の痛みを抑えるために入院。偶然にもこの日は夫の67歳の誕生日だった。

入院してからも夫は、激痛のために一日中ベッドの上でのたうちまわっていた。そんな夫の姿を前に、知多さんは背中をさすることしかできない。気がつくと面会時間をとうに過ぎていたが、それでもさすり続けた。

薬や点滴が効かず、夫は「このままだと殺される」「他の病院に変わろう」などと口にし、知多さんも、「痛みのせいで夫は気が狂ってしまうのではないか?」という不安に駆られた。

そして約半月後、背中に直接薬を注入する治療を開始。すると、30分もしないうちに、夫は苦痛に歪んだ表情から、痛みから解放された穏やかな表情に変わっていく。知多さんはほっと胸をなでおろした。

■夫のがん闘病を支えつつ、90歳超の義父母の介護も……

義母は、義父と同じ老健のショートステイの利用を開始した。薬の関係で車の運転をとめられている夫に代わり、知多さんが夫の通院の送迎をするため、家に義母1人置いておけなくなったからだ。

ベッド
写真=iStock.com/Willowpix
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Willowpix

「当時は夫に代わって私が畑仕事もしていました。その上、夫と義母2人のことを気にするのは、私にはとても無理でした」

義母は、「この歳で泊りになんか行きたかない!」「一人で家に居る!」などと言って拒否したが、知多さんは無視して、着替えなどをカバンに詰めた。

そして2017年3月。義父が死亡。94歳だった。

朝4時ごろに老健から電話があり、知多さんと義弟たちが駆けつけたが、すでに義父は息を引き取っていた。

しかし老健のスタッフが気を利かせ、義父の状態が悪くなったときに、すぐに同じ老健のショートを利用していた義母に声をかけてくれたため、義父の最期は義母が看取ることができた。

義父の葬儀は、入院中の知多さんの夫に代わり、義弟たちが進めてくれた。

■「うちで引き取る気はないから、老健に入所させよう」

3月後半に入り、夫の退院が決定。

夫が退院して帰ってくるとなると、知多さんは夫にかかりきりになる。そこで義母のことを義弟たちに相談したところ、「うちで引き取る気はないから、老健に入所させよう」ということになった。

義母が老健に入所する日、上の義弟が車で送ってくれるというので、知多さんは任せることにした。

義母は、「いつまで老健にいる?」「迎えには誰が来てくれる?」などと何度も訊いてくる。知多さんは、「ずっと居るんですよ」と言いたいのをこらえ、代わりに「夫の具合がよくないので長くなると思いますよ。みんな『面会に行く』って言ってましたよ」とやさしく返事。

車が出発すると、知多さんは肩の荷が少し軽くなったように感じた。

その後、義母が借りていた介護用ベッドを返却し、代わりに退院して帰ってくる夫用の介護ベッドを搬入。退院の日は知多さんの娘がサポートしてくれた。

4月。夫の傷んだ腰椎を守るために、チタンを入れる手術をした。再び入院する際は、義妹の夫や下の義弟の妻が協力してくれた。

術後2日目。夫は薬の副作用で排尿障害があり、最初の入院から尿道にカテーテルを入れて排尿をしていたが、それが外され、昨日は尿瓶を使っての排尿ができたとのこと。

術後3日目。夫は薬の副作用でひどい便秘になり、最初の入院からずっと下剤や浣腸を使ってオムツに排便していたが、車椅子を使って廊下を移動するリハビリを行い、ポータブルトイレに自力で移動・排便することができた。

この頃、夫の介護認定調査をすると、要介護4だった。日常生活のほとんどに介助を必要とする重度の介護を要する状態だ。ただ、調査を受けたときはほぼ寝たきりだったためにその結果になったが、幸い夫は徐々に回復した。

5月。夫の退院が決まる。前回の退院時はストレッチャーに乗ったまま、介護タクシーを使っての帰宅だったが、今回夫は知多さんの車から降りると、杖をついて自分で歩いて帰宅した。

■妻の持病はメニエール、ある日入浴後に天井が回り始め……

退院後も、夫は週に1~2度は通院が必要だった。

救急車
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

6月。知多さんは耳鳴りが始まったので、薬をのみ、早めに就寝。翌朝はいつも通り起床できたが、夕方からまた不調に。夕食後あたりからめまいが始まり、様子を見ながら入浴したものの、入浴後に天井が回り始め、再び薬を飲みすぐに布団へ。

「私がメニエールのときの対処法は、夫は長い付き合いなのでよくわかっていて、不自由な身体で頑張って濡れタオルやティッシュペーパー、ペットボトルに水、嘔吐用に洗面器などを持ってきてくれました」

7月になると、夫は熱が上がったり下がったりを繰り返し、4日目に救急外来を受診。血液検査の結果、「CRP(炎症反応)」の値が高くなっていた。

「入院しますか?」と医師に聞かれ、「今日は帰ります」と夫。数日後に義父の初盆法要があるため、「お願いします」とは言えなかったのだ。

■「腰が痛くてどうしようもない」「寒い」……夫が重篤な状態に

数日後、何とか無事に初盆法要を終え、7月末の深夜1時過ぎ。知多さんが眠っていると、夫が声をかけた。

「腰が痛くてどうしようもない」

とりあえず市販の鎮痛剤を服用させるが、「寒い」と言ってブルブル震え始める。通院中の病院に知多さんが電話すると、救急車を呼ぶよう指示される。

病院に到着後、尿検査や血液検査などを行った結果、痛みの原因は「石」だと言われ、夫はそのまま入院。翌朝、夫の入院準備をして知多さんが病院へ行くと、夫の熱は40度に上がっていた。

朝、出勤してきた専門医が詳しく診察したところ、夫は「腎盂腎炎」と診断される。

病の再発ではないと聞き、知多さんも夫も安堵したが、「腎盂腎炎」も侮れない。40度の熱が3日ほど続き、熱が下がっても夫は、しばらくベッドから起き上がれなかった。

主治医の話によると、もっとも状態の良くなかっときの夫は、腎盂腎炎から敗血症を発症し、大変重篤な状態だったようだ。

8月、夫は退院したが、その後も夫はたびたび尿路結石と腎盂腎炎による熱発を繰り返した。

■ひとり娘が出産のために里帰り、またメニエールでダウン

2017年11月初旬、関東に住むひとり娘が出産のため里帰りした。

妊娠
写真=iStock.com/kohei_hara
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kohei_hara

看護師だった娘は、数年前に流産を経験して以降、不妊治療に挑んでいたが、父親の多発性骨髄腫が発覚してからは、「早く孫の顔を見せてあげたい」と思い、不妊治療に専念するために退職。3月には妊娠していることがわかった。

11月半ばの妊婦検診では、「子宮口の開きは1センチ、分娩はまだ先でしょう」と言われたが、翌日の夜、娘が「胎動とは違う痛みがある」と言い、痛みの回数や時間をチェック。数時間チェックしていると、3~4分間隔で痛みが襲ってきているという。

22時ごろ、知多さんは娘の不安を解消するため、車で病院へ向かう。産科でいろいろと調べてもらったが、異常なしということで帰路につく。しかし0時半を過ぎた頃、娘は再び痛みに顔を歪め始める。

「その痛がりようは陣痛じゃない? 朝になったらもっと痛くなるよ。病院行く?」

と知多さんが言うと、「お母さんの車だと不安」と答え、娘は夫に連絡する。そうしているうちに娘は破水。悩んだ末に知多さんが119番をすると、駆け付けた救急隊員は、「破水したときは迷わず呼んでください。救急車の中で出産された方もいらっしゃいます」と言ってくれた。

病院到着から3時間半後、娘は無事男の子を出産。明け方には娘の夫が合流した。娘が退院する日、知多さんはまたメニエールでダウン。慌ただしい日々で体が悲鳴を上げたため、じっくり静養することにした。

夫は初孫にメロメロ。四六時中抱っこを続け、12月末に娘たちが関東へ帰ってしまうと、とても寂しそうだった。

■心室細動で電気ショック20回、主治医「覚悟しておいてください」

2018年3月初旬。夫は多発性骨髄腫治療の新薬を使った治療のために入院。もう何度目の入院か知多さんさえわからなくなっていた。

入院3日目の夕方に知多さんが面会に来ると、夫は突然目をむいてベッドに倒れこんだ。慌てて知多さんがナースコールをすると、看護師が数人駆けつける。

看護師からは、「大丈夫ですか?」「どなたか連絡する方がいらっしゃったら今のうちに……」などと言われ、知多さんは病室の外へ。中からは、「このままだと呼吸がとまっちゃうよ!」という叫び声が聞こえてくる。

夫はICUに移されたが、その後も不整脈(心室細動)を繰り返し、電気ショックを20回以上受け、主治医からは「覚悟しておいてください」と話があった。

医療
写真=iStock.com/BanksPhotos
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BanksPhotos

夫は6日眠り続け、目覚めた。知多さんから連絡を受けた娘や義弟たちは、ほっと胸をなでおろす。

ICUに入って17日目、夫は一般病棟へ。

「もしかしたら、この世から消えていた可能性もあった命。神様が与えてくれたこれからの日々、大切に過ごさないとね」。

知多さん夫婦はこんなことを話し合った。

2018年4月、夫は無事退院。

■「俺ももう、永くないかもしれないなぁ」

5月に知多さん夫婦は結婚40年を迎えた。6月には、夫のがん治療の合間を縫って、夫の友人夫妻たちと1泊2日の小旅行へ出かけた。

12月末、何クール目かの抗がん剤治療が始まり、夫は入院。知多さんが面会に行くと、夫はやはりしんどそうにしている。

食欲は落ち、血圧も低い。そのせいか夫は、「俺ももう、永くないかもしれないなぁ」とぽつり。発病以来、何度も入退院を繰り返してきたが、いつも「大丈夫だよ」と言って笑っていた夫。こんな気弱な言葉は一度も発したことがなかった。

「何言ってるの? 今身体がだるいのは薬の副作用。あと1日2日はしんどいと思うけど、きっと大丈夫!」

知多さんは笑いとばした。

2019年1月、夫は歩くリハビリを開始。そして中旬には無事退院が決まった。

夫と2人で老健施設にいる義母に久しぶりに会いに行くと、「畑仕事はもうできないよ」とずいぶん前から言っているのに、「今は何を作ってる?」「家で食べる分くらい作らんとね」などと言う。

そして「そろそろ家に帰ろうかやぁ」と言う義母に、「俺がこんな調子だからなぁ……」と夫は言葉を濁す。

「家に帰っても手はかからんよ。自分のことは自分でするし、どっこも悪いところはない」

と義母は言った。

■2020年11月義母(94)、2021年3月夫(71)が亡くなった

2020年11月。義母は何度目かの尻もちをつき、その後、発熱。12月には血圧が低下し、翌年1月に永眠。94歳だった。

ベッド
写真=iStock.com/Jesus Trillo Lago
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jesus Trillo Lago

義母の通夜・葬儀は、腰の痛みで動けない夫の代わりに、義弟2人が手配してくれた。

2月になると、知多さんは義母関連の諸手続きや四十九日法要の準備に追われていた。

その頃、夫は通院が難しくなり、訪問診療に切り替える。心配した娘家族が来ても、夫は医療用麻薬で眠っていることが増えた。

義母の四十九日法要はコロナ禍ということもあり、近しい人たちだけで行われた。知多さんの夫は参列するのが難しく、納骨時だけ車椅子で参加。

3月に入ると、夫の容態は大きく変化した。

トイレまで行くことが難しくなり、ベッド横に置いたポータブルトイレで用を足すように。しかも、ポータブルトイレに移動するにも介助が必要になっていた。

知多さんは、自分が寝ている間に夫が自分でトイレに移動しようとして転倒されては困るので、センサーマットをレンタル。おかげで知多さんは、深夜や明け方でも、夫のトイレの介助に気が付きやすくなった。そして3月25日夜、夫は亡くなった。71歳だった。

■血痕を拭き取りながら、涙が止まらなくなった

3月に入ってからというもの、知多さんは何度も総合病院や訪問診療の主治医から、「入院しますか?」と聞かれた。しかしその都度「自宅でみます」と返事をしてきた。

「今振り返って思うのは、壮絶な最期だったけれど、夫を入院させなくて良かった。自宅で看取れて良かった。そう心の底から思います。大変でしたが、その時々で、できることは精いっぱいしてきたつもりなので悔いはありません。もちろん、もっと生きててほしかったですが……」

しばらく滞在してくれていた娘一家が3月いっぱいで関東に戻り、その夜から知多さんは一人きりになった。

夫のためにレンタルしていたベッドや酸素吸入器などの介護用品を返却し終えると、部屋は空っぽになった。知多さんは掃除機をかけ、床を拭いていると、血痕を見つけた。おそらく夫のものだ。夫は最期の夜、大量に吐血して亡くなった。

知多さんは血痕を拭き取りながら、長く壮絶だった最期の時間を思い出し、涙が止まらなくなった。

■夫の配慮があったからこそ義父母の介護もできた

知多さんは今も東北の地で、夫と建てた家にたった一人で暮らしている。

「義両親との同居が始まった2012年末からは、朝昼晩と4人分の食事の支度と片付けに追われる毎日でした。そのうえ田舎の本家ということもあり、親戚関係、義両親の友人知人、夫の友だちも遊びに来るので、ほぼ毎日のように10時や3時のお茶の用意も必要。その合い間に買い物に行こうとしていると、また突然の来客……。今振り返ると、この頃の私のストレスは最高潮でした。われながらよくやってたと思います」

義両親がデイサービスに通い始めると、週に2日は昼食の心配がなくなり、ずいぶん楽になった。

「食事のとき、義父はいつも『おいしい!』と褒めてくれました。やはり褒められるとうれしいものです。義母は汚れたリハパンを家でも老健でもあちこちに仕舞いこんで、それでも『自分のことは自分でできる!』と言い張るので困りました。つらいときは、誰かに聞いてもらうと少しラクになります。義両親の介護のことは夫に相談していましたが、愚痴をこぼす相手はもっぱら娘でした」

義弟や義妹たちは、義父母の介護そのものはノータッチだったが、夫が病気になってからは、送迎や農作業は快く手伝ってくれた。

知多さんと夫は、お互いにほどよい距離感を保ちつつ、信頼し合っていた様子がうかががえる。義母との関係も、順風満帆とは言えなかったかもしれないが、憎しみ合うほどでもなかったのは、知多さん自身の努力はもちろんだが、夫の配慮があってこそだと感じる。

■夫の遺言「好きにしてくれ」、長男の嫁が思ったこと

2021年5月、娘に、夫が楽しみにしていた第2子が誕生。今回はコロナ禍ということもあり里帰りはしなかったが、知多さんのもとに「第1子にそっくりな男の子」の写真がLINEで届いた。

今、知多さんは介護をしているすべての人にこう伝えたいという。

「現在介護をしている方は、なるべく家に閉じこもってしまわずに、1日1回でもいいので、被介護者から離れて気分転換をする時間を作ってほしいです。近くを散歩するだけでもいいし、ウインドーショッピングでもいい。ご近所さんや友人とおしゃべりするだけでもいいと思います。私の場合、娘にはずいぶん助けられました。義両親と同居を始めてからというもの、大好きな趣味の時間が持てなかったので、落ち着いたらまずは、ステンドグラス制作やスポーツクラブ通いを再開したいと思います」

キリスト
写真=iStock.com/Jorisvo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jorisvo

知多さんから清々しさを感じるのは、「その時々で、できることは精一杯してきた」ということが伝わってくるからだろう。

夫の遺言には、「清美と娘に任せる。好きにしてくれ」と書いてあった。だが知多さんには、長男の嫁として、お墓のことや田畑のことなど、解決すべき課題が山積みだ。しかししばらくは、最愛の夫を失った悲しみを癒やす時間になることだろう。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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