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「オムツしてください」歩きながらポタポタ尿を垂らす80代義母に手を焼く50代嫁の土下座事件

プレジデントオンライン / 2021年6月19日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/CasarsaGuru

4歳上の夫の定年退職を契機に、東北地方に住む義父母との同居を始めた都会育ちの60代女性。慣れない田舎暮らしで待ち受けていたのは怒涛の介護。要介護1の義父は骨折して入院。要支援1の義母は尿意を感じにくく、リハビリパンツが欠かせない。だが、節約と称してはかないことも多く、廊下に尿がポタポタ落ちていることは日常茶飯事だ――。

この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。

今回のケースは、義両親と夫、そして一時的に娘と孫の複合的ケアを背負うこととなった女性の事例だ。取材事例を通じて、複合的ケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。

■「定年退職したら田舎に戻る」夫の実家で義父母と同居した嫁

東北地方在住の知多清美さん(仮名・現在60代・既婚)は、関東の都心部生まれ都心部育ち。20代の頃、職場で夫と出会い、結婚。やがて女の子が生まれ、忙しいながらも幸せに暮らしていた。

4歳上の知多さんの夫は、東北地方の田舎育ち。大学進学のために関東に出てきて以来、就職先も関東に決まり、現役時代は国内外数箇所に転勤したこともあった。

長男である知多さんの夫の下には長弟、妹、末弟がおり、いずれも結婚して実家を出ている。弟たちは、実家から車で10分ほど、妹は車で30分ほどのところに住んでいた。知多さんの夫は高齢になった両親が心配だったが、弟や妹が時々様子を見に行ってくれていたので、定年まで安心して関東で暮らすことができた。

「家は長男が継ぐもの」という昔からの考えが根付いている地域で育った夫は、若い頃から「定年退職したら田舎に戻る」とよく口にしていた。

定年が間近に迫った2011年。知多さんが夫に「古い家での同居は嫌」と言うと、夫は、妻も田舎に来て、自分の両親と同居してくれるとは考えていなかったようで、「一緒に来てくれるなら、俺や両親の要望だけ取り入れてくれれば、あとは好きに決めていいよ」と家づくりを任せてくれた。

夫の希望は「平屋」。当時88歳の義父は、「玄関と風呂は鬼門を避ける」「和室を二間続きに」。85歳の義母は、「ベッドで眠りたいから寝室は洋室に」。

知多さんはパソコンで間取り図を作成し、設計士さんに相談や注文をした。

「義両親と同居という不安はありましたが、間取りを考えている間は夢が広がり、楽しい時間を過ごせましたし、納得のいく家ができたと思います」

知多さん夫婦の1人娘は看護師になり、結婚して夫と関東で暮らしている。知多さんが「お父さんの実家に引っ越すわ」と話すと、娘は「大丈夫?」と心配そうに言った。

「内心は『一緒に行かないほうがいい』と思っていたようですが、そのときは口には出さなかったそうです。子どもの頃から聞かされていたし、『どうせ反対しても行くだろう』と思ったのでしょう」

■義実家のトイレはくみ取り式、台所にはハエ取り紙が

家を建て直すということは、古い家を解体しなくてはならない。そして解体する前には、必要なものを運び出し、不要なものを処分するという、「片付け」が必要になる。

義父は、旧国鉄を定年まで勤め上げた後、数年間別の会社で働き、その後は義母と一緒に農業にいそしんできた。

農家の出で若い頃から畑仕事が大好きな義母は、朝から晩まで畑にいて家事は二の次。料理は好きではなく、洗濯だけは好きなようで、毎日洗濯板や二槽式洗濯機を使って洗濯をしていた。

築50年超の義実家は、平成の時代にあって、お風呂は薪で沸かし、トイレはくみ取り式。土間続きの板の間に正座して食事し、台所にはハエ取り紙がぶら下がっていた。

ハエ
※写真はイメージです(写真=iStock.com/Pavel Gerasimenko)

水道が通っていなかったため、敷地内の井戸から、電気ポンプで地下水を組み上げて蛇口から出てくるシステム。開かずの間に詰め込まれたタンスや長持ちは空っぽで、衣服は大きなゴミ袋に詰め込まれ、服はその中から引っ張り出して着ている。天井では昼夜問わずネズミが運動会をする音が聞こえ、玄関にインターホンはもちろん、鍵さえなかった。

確かに、こんな家で暮らしたくはない。ましてや高齢の義両親と同居となれば、せめて生活環境くらいは自分が暮らしやすいように整えたい。

知多さん夫婦は新幹線で何度も通い、高齢の義両親に代わって片付けを開始。近所に住む夫の弟たちも手伝ってくれた。

しかし、義両親は何でも「とっといて」と言うため、不用品を処分するときは、2人の目に触れないように気を使わなければならなかった。

家の中には、50年以上前の雑誌、夫たちが赤子の頃使ったであろうタライ桶、5つ玉のそろばん、戦時中のものと思しき軍服色の水筒。そして兼業農家のため、一般家庭にはないような農耕具やリヤカーなどが山のようにあった。

「新幹線で数時間かけてきて、軍手をはめ、マスクをつけての作業は、本当に大変でした。だんだん『何で私が……?』と思えて、涙が出てきたほどです。でも、『人のふり見てわがふり直せ』ですよね。将来、私たち夫婦の荷物で娘が困らないようにしなくちゃ! と思いました」

■尿意を感じない義母はリハビリパンツとパッドをはいていた

義父は聴力の衰えが著しく、会話を続けることが困難。義母はすでに尿意を感じなくなっており、リハビリパンツとパッドを使っていた。

トイレ
写真=iStock.com/Iuliia Mikhalitskaia
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Iuliia Mikhalitskaia

「同居が決まったからには、介護認定を受けさせたい」と思った知多さんは、義弟たちに要介護認定調査を依頼。結果、義父は要介護1、義母は要支援1で、週に1度、3時間のリハビリ施設を利用することに決まる。

そして2012年の年末、新居が完成。知多さん夫婦は引っ越しし、新しい生活が始まった。

新居は夫の希望通り、平屋一戸建て。玄関もトイレもお風呂も台所も1つ。義父が望んだ二間続きの和室も実現。「ベッドで眠ると尿のダダモレが治る」と信じていた義母のための洋室もできた。

知多さんと夫の寝室は、二間続きの和室の、仏壇や神棚が置いてあるほう。もう一方には座卓を置き、居間として使うことに。

同居を始めて数カ月後、義母がインフルエンザにかかり、その数日後、知多さんも発症。

義母は洋間のベッドで療養できたが、知多さんの寝室は居間の隣の和室だ。回復した義母と耳の悪い義父が特大ボリュームでテレビを観るため、知多さんは眠れなかった。

一方、知多さんの夫は、義母から農業を教わり始めた。知多さんは家事担当。そして、夫と義母が作った野菜を農協に出荷する作業の手伝いをするようになった。

■義母からは常にひどい尿臭がしていた

義父は90歳目前になっても免許の更新に出かけた。心配した夫が更新センターに「落としてください」と電話したせいか、2回落ちたが義父は諦めず、なんと3回目で通ってしまう。

知多さん夫婦と弟たちは必死に止めるが、全く言うことを聞かない。

しかたなく夫が車の鍵を隠したところ、「俺が買った車だ!」と激怒。2人は大喧嘩になり、その後は諦めた様子だったが、ある日うっかり夫が鍵を置き忘れたのを見つけ、義父は車で外出。何事もなく帰ってきたから良かったが、知多さん夫婦は冷汗が流れた。

一方、尿意を全く感じない義母は、リハビリパンツとパッド、そして「落とし紙」というものを使っていた。落とし紙とは、いわゆるちり紙のようなもので、それをパンツやパッドの上に敷いている。なぜ敷くのかと聞くと、「リハビリパンツやパッドを頻繁に替えると費用がかさむから」。

リハビリパンツやパッドには消臭加工が施されているが、落し紙にはない。そのため、本人は気づいていないが、常に義母からはひどい尿臭がしていた。

またあるとき、義母が電話で美容院の予約を入れているのが聞こえてきたため、知多さんが「その日、夫はいないですよ」と言うと、「清美に(車で)送ってもらうからいい」と言われ唖然。

「義母はすべて自分の都合で決めてしまい、頼むことをしません。優しい夫はそれでも文句を言いませんが、私は違います。今後また同じようなことがあると困るので、『予定を決める前に私の都合を聞いてもらえますか?』と一言言わずにはいられませんでした……」

■義父の骨折「体重44キロが、35キロまで落ちた」

2015年4月。92歳になった義父は、突然廊下で転倒。知多さんと夫が助け起こそうとするとひどく痛がる。それでも「寝てれば治る!」と言い張る義父を尻目に夫が救急車を呼ぶと、義父は右大腿骨頚部を骨折しており、翌日手術することに。

老朽化した床
写真=iStock.com/Yusuke Ide
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

6月。手術後入院していた義父の骨折は完治し、リハビリ病院へ転院。しかし、入院以降食欲が落ち、栄養不足を点滴で補っている義父のリハビリは、ほとんど進まない。

7月。義父は介護老人保健施設に移った。骨折前44キロだった体重が、7月末には35キロにまで落ちていた。

入所の際に、施設側から「この先、悪くはなっても良くなることは難しく、いつ急変するかわかりません。連れて帰るなら、比較的落ち着いている今です」という話があった。

知多さん夫婦は即答できず、義弟たちを交えて話し合うと、「連れて帰ることはせず、老健でお世話になる」という結論に。

老健からは「看取り」についての説明もあり、その後も度々「ご家族のみなさんが後悔のないようにしてくださいね」と声をかけられた。

「私は口に出して言ったことはないですが、関東の家を処分してこちらで家を建て直し、その後約3年同居。傲慢かもしれませんが、それだけでも十分義父孝行できたのではないかと思います。当時、私は還暦を過ぎ、夫は65歳を超えていました。私自身の体調にも不安があります。全介助が必要になった義父の自宅介護は、できるなら避けたいと思いました」

知多さんは、若い頃からメニエール病を患っており、年に何度か体調を崩すことがあった。

■義母の認知症「廊下に尿がポタポタ落ちていることは日常茶飯事」

義母は義父の面会に行っても、状況が理解できていないようだった。

義母は、家では節約のためにリハパンをはかないことが多く、廊下に尿がポタポタ落ちていることは日常茶飯事。同居当初から義母は一番風呂に入り、後に知多さんが入ろうとすると、尿臭が充満しているのはいつものことだったが、大のほうが落ちていることが増えた。

2016年、義母はデイサービスの利用を開始。

義母はデイサービスから帰宅すると、他の利用者の悪口ばかり。その上、「私はあの人たちとは違う。全部自分できちんとできる」「『また来てね』と頼まれるから行ってやってる」といつも上から目線でものを言う。

■「お義母さんリハパンはいて下さい。オシッコが落ちてて臭うんです」

そんなある日、とうとう知多さんは耐えきれなくなって言った。

悲しい気持ち
写真=iStock.com/kieferpix
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kieferpix

「お義母さん、家でもリハパン穿いてください。オシッコがあちこちに落ちてて臭うんです」

すると義母は激怒。

「そんなこと誰にも言われたことはない! オシッコが漏れるのは病気ではないと先生に言われた! 若い時から苦労してここまできたのに、清美に言われるくらいなら死んだほうがいい!」

そう言って大号泣。騒ぎを聞きつけてきた夫に事情を説明し、知多さんはその場を離れた。

義母が寝たあと夫は、「おふくろの性格わかってるだろう。お前にしては失敗だったな。明日謝ったほうがいい」と言う。

知多さんは心の中で、「泣いたもん勝ちじゃん。本当に泣きたいのはこっちだわ」と毒を吐きたかったが、「私だって同居してからずっといろんなことを我慢してる。私がかげで泣いてるの知ってる?」とだけこぼした。妻のストレスがたまっていると感じた夫は、「週末娘のところにでも行って、ゆっくりしておいでよ」と言った。

■手とおでこを畳につけて土下座「私は女優になるんだ! 演じるんだ!」

翌朝、知多さんは義母の前に素早くひざまづき、手とおでこを畳につけて、土下座の体勢になる。

「昨日はすみませんでした。言いすぎました。申し訳ありませんでした!」

知多さんがそう言うと、義母は昨日と同じことを繰り返す。

「もう長生きなんてしたくないからデイにも行かない」

「ごめんなさい。許してください!」

「今まで誰からも言われたことがないのに……」

「若いころからずっと苦労してきたお義母さんなのに、出来の悪い嫁でごめんなさい。今まで誰からも何も言われたことがないお義母さんなのに、嫁の私が言いすぎました。申し訳ありませんでした。もう二度と言いません!」

知多さんは自分に「女優になるんだ! 演じるんだ!」と言い聞かせていた。そばにいた夫は、「清美もいろいろ我慢してるんだ」と妻をかばい、「後は任せろ」と目で合図した。

その後、廊下に尿が落ちていることはなくなったが、義母は一度だけ、「清美が出ていけばいい」と口にしたことがある。それを聞いた夫は、「何言ってる! そんなこと言うな!」と怒鳴ったので、それ以降は口にしなくなった。

しかし知多さんはその晩、「出て行けと言うなら喜んで出て行くから」と夫に言うと、「アホか」と苦笑された。

■腰痛持ちの夫

若い頃から腰痛持ちの夫は、2016年の秋頃から腰痛が悪化。12月には歩くのもつらい状態になってしまい、整形外科を受診した。

問診、触診を受け、レントゲン撮影後改めて先生の診察を受ける。知多さんも一緒に説明を聞いたところ、椎間板や椎骨に、素人でも分かるほどの異常が見えた。

翌朝MRIを受け、薬を受け取って帰宅。しばらく薬を服用して様子を見ることに。翌年1月の初めには義父の一時帰宅と、半ばには娘夫婦が遊びに来る予定だ。

夫は早く腰を直さねばと畑仕事を休み、安静にしていた。しかしこのときはまだ、夫に重大な病気が隠れているとは、本人も知多さんも知る由もなかった(以下、後編に続く)。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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