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「日本人の愛国は、アメリカ人とこんなにも違う」硫黄島を戦った元日本兵に会ってわかった真実

プレジデントオンライン / 2021年7月13日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TkKurikawa

アメリカ人は公的な場所で国への愛情を盛んに訴える。一方、日本人は国旗や国歌との関わり方も限定的だ。これは日本人の愛国心が低いからなのだろうか。元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんは「特に戦争を体験した世代は、他人の前で国への愛情を訴えようとしない。しかし、だからといって国を愛していないわけではない。元日本兵との邂逅でその理由がわかった」という――。

※本稿は、マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■「日本兵のお守りを遺族に返してほしい」

戦中の狂信的な愛国は、戦後、どのように変化したのだろうか。それを感じた私の個人的なエピソードとともに紹介したい。

時は2003年にさかのぼる。当時私はウォール・ストリート・ジャーナル紙の東京支局で働いていた。ある日、自宅に突然送られてきた手紙に大きな衝撃を受けた。送り主は私の祖父の従兄弟(以下、大叔父と記す)で、当時80歳を超えていた。そこには、大叔父が太平洋戦争中の硫黄島の戦いに兵士として参戦したこと、死亡した日本兵のお守りをアメリカへ持ち帰っていることが記されていた。

そして、遺品であるお守りをどうにかして遺族に返してほしい、とあり、そのお守りが同封されていた。

大叔父とはアメリカにいるときに幾度となく会ったことがあった。知っていたのは、彼がアイオワ州の田舎の農場で育ち、18歳のときに徴兵され、いきなり遠い太平洋に行かされたこと、聞いたことのない島で会ったことのない異国の敵と戦ったこと、などだった。戦争での具体的な体験については沈黙を守っていたので、硫黄島で戦っていたことは初耳だったし、日本兵のお守りについてもこの手紙で初めて知った。

■想像するだけで悲しい気持ちが込みあげてきた

戦いから半世紀以上が過ぎていた。自責の念に駆られながらも、だれにもいうことができず、胸中に封印してきたのだろう。大叔父がアメリカ海兵隊でどのような師団に所属し、硫黄島のどこで戦ったのかは詳しくはわからない。抱いてきた苦しみはどれほどだったのだろうか。

想像するだけで、悲しい気持ちが込みあげてきた。戦争は人間を狂気に駆り立てる。時間が経過していくなかで大叔父は、戦地へ赴いたアメリカ兵と日本兵に、敵と味方ではありながらも、共通点を見出だすようになったのかもしれない。

戦争の目的こそ日米の間で違っていたものの、実際に硫黄島で戦火を交えた日本兵たちに罪があったとは思えなかったのだろう。彼らもまた母国のために、悲壮な思いを背負って戦っていたからだ。

しかし私は、受け取ったお守りを見て途方に暮れた。「不動明王」という判が押された極めて簡素なものだったからだ。持ち主の名前はもちろん、地名や寺院名などはなにも記されていない。

おそらくは戦時下の日本で大量生産され、戦地へ赴く日本兵へ、日本軍から、あるいは家族から手渡されたものだろう。大叔父は日本語が読めなかったが、日本に住んですでに7年を迎えていた私ならば何とかしてくれるだろうと考えて、送ってきたのだと思う。高齢となった大叔父はそのころ体調もよくなかった。その年齢に至るまで心にしまっていたのかと思うと何とか思いに応えたい、という気持ちが募った。

■人口1050人の小島で繰り広げられた激戦

ここで硫黄島の戦いを簡単に紹介しておきたい。

戦前、この島には1050人ほどの日本人が住んでいた。硫黄の採掘やサトウキビの栽培、沿岸漁業などに従事していたという。島自体は東西に8.3キロ、南北には4キロほど、面積にすれば約24平方キロだ。現在、自衛隊の基地が置かれているが、一般の人の立ち入りはできない。

この小さな静かな島が、なぜ激戦地となったのか。戦争末期、アメリカ軍と日本軍の双方にとって極めて重要な戦略拠点となったからだろう。

アメリカ軍は1944年7月から8月にかけて、マリアナ諸島を制圧して日本軍を駆逐した。そして、すぐにグアム島やサイパン島、テニアン島の飛行場の整備を開始し、配備させた新型重爆撃機B-29による日本全土への空襲を開始させている。マリアナ諸島から日本本土までの距離は、片道だけで2000キロ以上あった。中継基地として目をつけたのが硫黄島だった。

日本軍にとっても硫黄島に航空部隊を配備することで、マリアナ諸島へ攻撃を仕掛けることができた。加えて、マリアナ諸島から出撃したB-29は硫黄島周辺の空域を通過するため、早期に発見すれば迎撃することができる。その態勢を整えるうえでも重要な拠点だった。

錆びた航空機エンジン部品
写真=iStock.com/Matthew Troke
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Matthew Troke

■灼熱と飢えに苦しみながら坑道を掘り続け…

日本軍は1944年6月の段階で硫黄島の防衛をさらに固めることを決めた。壮健な若い男性を除いた島民を疎開させたうえで、硫黄島の全面的な要塞化に着手する。

採用された作戦は内陸部にアメリカ軍を誘い、持久戦やゲリラ戦に持ち込むというものだ。そのために、出入り口が1000ヶ所にもおよぶ地下坑道を築いた。

ときに60℃にも達する地熱とすさまじい飢えに苦しめられ、わずかな雨水と硫黄臭を発する井戸水をすすりながら、兵隊たちは手作業で人工の坑道を掘り続けた。天然の洞窟を合わせた地下坑道の全長は18キロに達した。

硫黄島へ上陸し、内陸部へ前進するアメリカ軍に対し、日本兵たちは、張り巡らされた坑道のなかで身を潜めながら機会をうかがって奇襲攻撃を重ねた。

アメリカ軍がとった対抗策もすさまじい。日本軍が潜む坑道を火炎放射器や火炎砲戦車で焼き払い、火炎が届かない場合には手榴弾や催涙ガス弾を投げ込む。流れ出てくる煙によって特定した出入り口を重機でふさぎ、日本軍の逃げ道を断つ。加えて坑道の上部に削岩機で開けた穴からガソリンや猛毒の黄燐を流し込んでは火を放っていった。

アメリカ軍は、硫黄島で開戦するにあたって、完全に占領するまでに必要な日数を「5日」と想定していた。上陸を開始したのは1945年2月19日、戦闘が終結したのは3月26日。36日目にしてようやく終結したのだった。

■敵兵の願いにもかかわらず快く協力してくれた

さて、そのお守りである。どうにかして遺族にたどり着けないかと、私は硫黄島に関して調べまわった。そのなかで硫黄島の戦いからの生還者や戦没者の遺族でつくられる硫黄島協会という民間団体が存在することがわかった。本部は神奈川県横須賀市だ。

何とか手がかりがつかめないかという思いで電話を入れて顛末を話した。状況を理解してくれた硫黄島協会の担当者は、硫黄島から日本へ帰還した数少ない元日本兵の一人、金井啓さんを紹介してくれた。

見ず知らずの外国人から突然入った連絡だったが、金井さんは快く協力を申し出てくれた。かつて敵同士として硫黄島で対峙し、戦争という特異な状況下で殺し合ったアメリカ兵の願いであるにもかかわらず。

私はそのとき気づいた。戦争の最中は敵であった人々は、戦争が終わったら逆説的に仲間意識が生まれるのでは、ということに。ほかの人たちが理解できない、平和しか知らない世代とは語ることのできない、特殊で極端な体験を共有しているからである。私が生存者の孫同様の存在であるから、同じ仲間に入れてくれたのかもしれない。

金井さんや硫黄島協会の他のメンバーと何度か会って相談を重ねているうちに、そのお守りを靖国神社に奉納してはどうかと提案された。靖国神社には、戊辰戦争以降の戦没者が祀まつられているという。

■お守りの主のことを思うと重々しかった

お守りの持ち主はわからなかったが、太平洋戦争の戦没者たちが祀られている有名な神社に奉納したと伝えれば、大叔父も喜んでくれるのではないか。私には思いつかない名案だった。

「ぜひお願いしたいです」と伝えると、金井さんは靖国神社への予約など、さまざまな段取りをしてくれた。さらに遺品を納める当日には、靖国神社へ同行してくれた。

お守りを納める儀式は短いものだった。金井さんと私が社殿に入ると、白い衣装を着ていた神主がすでに待っていた。私がお守りを両手に持ち、神主が榊(さかき)の枝をその上で振った。その後、お守りをお盆に置いて、神主がそれを引き取った。以上である。

儀式そのものはとても簡単で早かったが、私の気持ちは重々しかった。故郷から遠い硫黄島で戦わされ、お母さんや家族の顔が見たかったにもかかわらず戦場で無念の死を迎えた、名前も知らない顔立ちも知らない若い日本兵へ、一抹の責任感を感じたからである。

お守りを奉納してから十数年の歳月がすぎた。大叔父はすでに天寿をまっとうしてこの世を去った。長年の心残りが少し晴れて、安らかな思いで旅立てただろうか。その後、年賀状を交わしていた金井さんも10年以上前にこの世を去った。

あのお守りは今でも他の遺品と一緒に靖国神社にあるだろう。そう考えるだけで私もほっとしたような、うれしいような気持ちになる。金井さんの心遣いには今でもとても感謝している。

■「こんなに大きな国となぜ戦ったのか」

金井さんが語ってくれた体験も特異なものだった。

硫黄島の戦いが終結した後も坑道で1カ月ぐらい身を潜め続けたが、飢えと渇きが極限に達し、やむなく外へ出てアメリカ軍を捜しに行き、ジープを発見したところで倒れたという。殺されると観念したが囚われの身となり、グアムおよびハワイを経由してアメリカ西海岸のサンフランシスコへ連れていかれた。

そして、モンタナ州とユタ州の収容所へ陸路で向かった。鉄道に揺られること数日間。果てしなく広がるアメリカ本土の大地を車窓越しにながめながら、金井さんは、「こんなに大きな国となぜ戦ったのか」と自問自答を繰り返したという。

戦後に帰還するまでの1年未満の虜囚生活でも、虐待などは受けなかったそうだ。自問自答はやがて太平洋戦争そのものを「間違いだった」ととらえ、「二度と繰り返してはいけない」という不戦の誓いに変わっていった。

広島原爆ドーム
写真=iStock.com/crsdsgn
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/crsdsgn

■金井さんの中に芽生えた複雑な「愛国」

金井さんは、戦争を体験した他の日本人と同じように、自分と自分の戦友を勝ち目のない戦争へ行かせた日本政府への「愛国」を疑うようになった。

これは、日本に対しての愛情がなくなったという意味ではない。金井さんが拒絶したのは、日本の戦時中の「愛国」、つまり政府や軍隊が主導する国家への煽動的な忠誠心である。多くの日本人が国を愛せと言われ、政府のいうことに従順に従ってしまったから、日本という国は、310万人もの日本人が犠牲となった太平洋戦争という大惨事に遭ったと彼は考えていたようだ。

金井さんは、もう二度とその愚かな間違いをしないと決意し、戦後ずっと国家や政府による「愛国」を否定してきた。一方で、日本への愛情は強かった。彼の愛国は、その犠牲となった戦友たちへの想いにより表現されていた。

表面的に見ると矛盾に見えるかもしれないが、決してそうではない。戦争を起こした国家と、戦争で犠牲となった若い兵士たちを区別している。戦争を起こした権力者への愛国は拒絶するが、国のために命を失った戦死者たちの愛国心を尊重する。

■戦勝国アメリカとの大きな違い

今思い返しても、だれもが愛国について金井さんと同じような思いがあった。愛国心は政府に利用されやすいから、その気持ちを警戒するようになった、と語ってくれた。自分の国に対して誇りを持っているが、戦時中の極端な愛国に対しての反省が感じられた。

戦争を体験した世代が特に嫌がっていたのは、他の人の前で国への愛情を訴えることだ。教訓の一つとして、愛国を公的な場で表現することを拒絶するようになった。

来日した当初、私が、日本とアメリカで大きく違うと思ったところは、日本人が公共の場で愛国心をあまり見せないということだった。アメリカでは、毎日学校で国歌を歌ったり、国旗の前で直立したり、忠誠の誓いを言うこともある。メジャーリーグなどスポーツの試合の前にも国歌を歌う。

日本では、このような愛国心を見せる日常的な儀式をあまり見かけないように感じた。学校の卒業式で国歌を歌ったり、祝日に交番に国旗があがったりしているのを見るが、アメリカよりはるかに少ないと感じた。

■国への愛情は「日本文化」に表れるようになった

一方で、日本に対しての愛情や誇りがなくなったわけではないことも感じていた。それは別の形で表現されていた。

マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)
マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)

その代表的な例は、文化論ではないだろうか。日本文化論というのは、日本に特色のある文化や社会制度があり、それが諸外国とは質的に異なっており、日本が世界の中でユニークで独特な国であることを強調するものである。日本ほど「自分たちが違うんだ」と主張する国はあまりないのではないか。アメリカにもアメリカ例外主義(American Exceptionalism)という似た考え方があるが、日本ほど広く共有されていない。

書店に行くと日本文化論についての本が非常に多くある。来日当初、それを見たときの驚きは今も鮮明に覚えている。日本の読者は、自国の伝統や社会、価値観などを褒める本を、果てしなく求めていたようだ。バブル時代だったということもあったが、日本人とユダヤ人の比較とか、日本人独特の心理学や美的感覚を紹介する本、「日本的経営」の強さを追求する本など、文化論の種類は豊富であった。

■ボトムアップの愛国が育っていった

海外の著者にも同じような本を求めていたため、和訳された洋書で長年人気があったのはエズラ・ヴォーゲル氏の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』だった。ちなみに、ニューヨークの書店には、アメリカ文化はこんなにユニークだぞ、という本はそれほど多くない。

当時の日本人は国に対して持つ自尊心を、国歌や軍隊と違う場所で満たしていたと言えるかもしれない。国歌や軍隊は疑っているが、日本の強みは社会や文化、商業など、庶民的なところにあると考えていたのではないか。国が上から押し付けたナショナリズムではなく、日本のいいところを国家と別の場所で探していたのだ。いってみれば下からの愛国で、これは決して悪いものではないと私は思う。

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マーティン・ファクラー(まーてぃん・ふぁくらー)
元ニューヨーク・タイムズ 東京支局長
アメリカ合衆国ジョージア州出身。ダートマス大学卒業後の1991年、東京大学大学院に留学。帰国後、イリノイ大学、カリフォルニア大学バークレー校で修士号取得。96年よりブルームバーグ東京支局を経て、AP通信社ニューヨーク本社、東京支局、北京支局、上海支局で記者として活躍。2003年よりウォール・ストリート・ジャーナル東京支局特派員。05年よりニューヨーク・タイムズ東京支局記者となり、09~15年に支局長を務める。現在はフリージャーナリストとして日本を拠点に活動。著書は『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書)、『米国人ジャーナリストだから見抜けた日本の国難』(SB新書)など。ツイッター(@martfack)でも積極的に発言。

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(元ニューヨーク・タイムズ 東京支局長 マーティン・ファクラー)

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