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「誰かが死ぬまで続く」兄に殺されかけても家族全員が警察に相談すらしないワケ

プレジデントオンライン / 2021年7月25日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/xijian

ノンフィクション作家の吉川ばんびさんは、十数年以上、兄から家庭内暴力を受けていた。吉川さんは「『なぜ警察に通報しないのか』と思うかもしれないが、逮捕されてもそのうち戻ってくる。そのときの報復を家族全員が恐れていた。家族の誰かが兄に殺されるか、誰かが兄を殺すか。そのどちらかに至る恐れがある」という――。

■法律が適用されない「家族」というコミュニティ

人を殴ったり金を脅し取ったりすれば、刑事事件の加害者となり、罪を償う必要がある。この国では、そんな当たり前のことが保証されない、いわば被害者の人権がほぼ「無」に等しいコミュニティが存在する。社会で最も小さな集団ともいえる、「家族」のことだ。

過度に「家族関係」を重んじる日本では現状、加害者と被害者の間に血のつながりがあるというだけで、第三者間で起こる同等の犯罪に比べて被害が表沙汰になりにくいほか、被害者が勇気を出して被害を訴え出たとしても、ほとんどの場合、解決には及ばない。

例えば虐待やDV、家庭内での性暴力、家庭内暴力などがこのケースにあたる。虐待や夫婦間のDVは世間的な認知が進みつつあるものの、行政や第三者の介入などで解決されるものはごく一部であって、家庭内の被害は通常、外からはまったく見えないようになっている。

かくいう私自身もこの「家族」からの被害に、十数年以上も悩まされ続けた一人だ。

■いくら殴られようと「家族間の問題」

私が育った家庭では、子どもの頃から暴力が当たり前のように存在していて、特に兄からの暴力は中学に上がる頃からどんどん深刻になっていった。気に入らないことがあると腹いせに私や母を殴り、蹴り、髪をつかんでひきずりまわし、ひどいときには馬乗りになって首を絞めることもあった。

首に添えた手に体重をかけられたとき、私を見下ろす兄の目は赤く血走っていて、今度こそ本当に殺されるかもしれない、と思った。恐怖を感じるよりも早く、首から上の血の流れが止まっている感覚で満たされていき、苦しさを感じたあとは頭がフワフワとして、意識が途切れそうになる瞬間に、兄は突然、手の力を緩めた。おそらく私が抵抗しなくなったことで驚いたのか、兄はそのとき、かなり動揺している様子だったのを覚えている。

兄は頭に血が上りやすく、一度カッとなると自分で自分を制御できなくなり、疲れ果てるか、倒れるまで暴れる習性がある。だから家の壁は穴だらけで、家具や部屋のドアは壊れて使い物にならないものばかりだった。

私が学校やアルバイト先にいるときでも、関係なく「お前、今からすぐ帰ってこい。帰ってこないとぶっ殺してやるからな」と電話がかかってきて、帰っても帰らなくてもどのみち気の済むまで殴られることは分かっていたから、被害を最も少なくするために、素直に授業や仕事を切り上げて、理不尽な指示に従うしかなかった。

24時間365日、いつ因縁をつけられたり殴られたりするか、金を脅し取られるかわからない生活に疲れ果て、私と母親は少しずつ、極限まで追い込まれていった。

■被害者が加害者のケアをするという最悪の“解決策”

家から逃げられずに暴行を受け続けていた当時、「もう兄を殺すしかない」と考え続けていたことを、私は今でも、あながち間違いではなかったと思っている。うちにはいつも金がなく、壊れた家具を買い直す金も、設備を修理する金も、兄から逃れるために必要な金も、どうしても用立てできなかった。

日常的に暴力や支配を受け続けていると、人は正常な判断ができなくなってくる。「私も働くから一緒に逃げよう」と提案しても、母親はかたくなに拒否するばかりで、ああだこうだと言い訳を並べて、行動することをあきらめていた。もう何をしても無駄だ、と言わんばかりに兄の要求に従う母親は、いつも疲れ切っていた。そのうち私は「母親が自殺するのではないか」と思うようになり、なんとかして問題を解決できないかと、あれこれと思考をめぐらせるようになった。

家庭内暴力
写真=iStock.com/funky-data
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/funky-data

絶望的だったのは、虐待や夫婦間の暴力に関しては、行政が児童相談所やシェルターなどと連携を取り、被害者にある程度の逃げ道が用意されているにもかかわらず、子から親、きょうだい間の暴力となった途端、現実的な解決策がほとんどないことだった。

家庭内暴力の解決方法を調べると、だいたい「息子の家庭内暴力に悩んでいる」という被害者のクエスチョンに対して「息子さんの本当の思いを粘り強く聞いてあげましょう」とか「息子さんを病院に連れていき、治療を受けさせるべき」という専門家のアドバイスが次々と出てくる始末で、暴力を受けている「被害者(=親、きょうだい)」を救済する道筋を示す答えはどこにも書かれていない。それどころか、被害者に対して、加害者のケアをするよう促すという最悪の提案しか出てこないありさまである。

■家族だからといって「当事者間の問題」で片付けていいのか

精神科医の斎藤環氏が「家庭内暴力は、いかに息子のことを否定せず、反論しないかが最も大事である。とにかく言うことをすべて聞いてあげるべき」と何度も発言しているのを見たときには、今まさしく被害を受けている立場としては「そんなのもうとっくにやっていて、しかも、それだと暴力が激化していくばかりなのだが」と、怒りと諦めの感情をあらわにせざるを得なかった。

そもそも、加害者に治療が必要な場合でも、体が自分よりも大きく、とうてい力ではかなわないうえ、対話もできない相手をどうやって病院へ連れて行けというのだろう。睡眠薬でも飲ませて、体を縄で縛り付けて、無理やり車に乗せろとでも言うのだろうか。結局その答えは、どこにも書かれていなかった。

もしも加害者と被害者に血のつながりがなく「赤の他人」であれば、被害者は、自分に危害を及ぼした加害者へのケアをするよう世間から求められただろうか。もしも「赤の他人」なら、警察に暴力被害を申し出たときに「当事者間の問題ですので……」などと、やんわり介入を断られることがあるだろうか。

血のつながりがある場合のみ、加害者の責任が被害者にもあるというのは、あまりにもおかしい風潮ではないだろうか。

■兄がいない期間は自由そのものだった

家庭内暴力被害について話すと、当事者ではない人から「お兄さんが暴れているとき、警察に通報して現行犯で逮捕してもらえばいいのでは」と言われることがあるが、私たちはすでにこの方法も十分検討済みであった。そして結果、現実的な解決法ではないと判断し、却下していたのである。

私たちが最も恐れていたのは、報復だった。一時的に兄の身柄が確保されたとしても、そう長く拘留されないことを、私たちはよく知っていた。私たちが兄を通報し、兄が逮捕されたとしたら。兄は私たちを激しく恨み、出所して戻ってきた暁には暴力が激化し、殺される可能性も十分ある。兄の性質上、たとえどこへ逃げたとしても、絶対に追いかけてくるであろうことは明らかだ。

兄には、逮捕歴がある。それは私たち家族への暴行によるものではなく、他人への暴行、恐喝などの容疑で、17歳くらいのときに逮捕されたのである。母親は息子が逮捕されたことにショックを受けていたが、私はというと、内心かなりホッとしていた。兄がいない期間は自由そのもので、殴られることもなければ、金をゆすられることもない。しかも今回の逮捕では、自分たちへ兄からの恨みが向くこともない。

はずだった。

■刑務所から戻った兄からの「報復」

刑期を終えて出所した兄は、これまで以上に精神が荒んでいて、前科がついたことで自暴自棄になって帰ってきた。

「俺の人生は終わった、もう何回逮捕されても一緒、何も怖いものはない」「お前ら全員、殺してやる」などと言い、以前よりも暴力がさらに激化してしまった。私たちの体にアザや傷があるのはいつものことだった。学校の先生など、私の体の異常に気付いた大人は少なからずいたが、誰一人として「家で殴られているのか」と聞いてくる者はいなかった。

兄の暴力の恐ろしさは、私が就職と同時に実家を逃げるように飛び出して7年以上たった今でも、忘れられない。毎日のように兄に殴られる夢を見ては「助けて」「やめて」と叫びながら飛び起きたり暴れたりする生活を、精神科に通院しながら、もう何年も続けている。

しかし、本当の悪夢から抜け出せていないのは、母親の方かもしれない。母親はまだ、兄と同居を続けている。いくら説得しても逃げようとせず、私に「あの子が30万円用意しろと言うから、借金の仕方を教えてくれ」と泣きながら電話をかけてくることも、兄が母親に危害を加えるのを恐れて、私が代わりに金を用立てることもあった。

「あの子を生んだのはあたしだから、最後まであたしが責任取らないといけないから」

そう話す母親が救われる方法は、まだ見つかっていない。

■誰かが死ななければ「事件」として扱われない

2019年に発生した「元農水事務次官長男殺害事件」を、1996年に発生した「東京・湯島金属バット殺人事件」を、私はひとごとだとは思えない。

どちらの事件も、息子の家庭内暴力に苦しみ続けた父親が、解決のために試行錯誤を重ねたものの、最終的に自らの手で息子を殺害してしまったものだ。この2つの事件の加害者となった父親たちの行いを、正当化するつもりはない。しかし、彼らがどうして息子を殺めてしまったのか、長らく「兄を殺す以外に救われる方法はない」と考え続けていた私には、よくわかるように思えるのだ。

こうして殺人事件が発生して初めて、「家族」は世間から注目を浴びる。なぜ犯行を防げなかったのか、ニュース番組で答えの出ない議論が交わされる。彼らが受けていた家庭内暴力の内容が明るみに出て、それがどれだけ深刻なものであったか、ようやく理解されることもあるかもしれない。

事件にならなければ、どれだけ殴られ続けても、家族だというだけで、問題はなかったことにされ続ける。被害を訴えても、「家族ルール」のせいで誰にも取り合ってもらえない。

しかし、家庭内で毎日のように殴られて、これからも一生殴られ続けるかもしれないことへの絶望から、やむを得ず相手を殺害してしまったとする。そうすれば、もう「家族ルール」は二度と通用しない。一人の人間を、“しかも家族を”殺めた加害者として、刑務所で罪を償わなくてはならない。

もしもこの先、私が、母親が、兄を殺害したとする。そのとき、世間からは一体どんな反応があるだろうか。私たちが苦しみ続けた証しは、そこでしか認められないものなのだろうか。

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吉川 ばんび(よしかわ・ばんび)
ノンフィクション作家
1991年生まれ。作家、エッセイスト、コラムニストとして活動。貧困や機能不全家族などの社会問題を中心に取材・論考を執筆。文春オンライン、東洋経済オンライン、日刊SPA!他で連載中。著書に『年収100万円で生きる 格差都市・東京の肉声』(扶桑社新書)。

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(ノンフィクション作家 吉川 ばんび)

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