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「五輪中止を訴えていたのに、メダルラッシュに大喜び」なぜマスコミは矛盾した行動を取るのか

プレジデントオンライン / 2021年8月1日 9時15分

2021年7月23日、東京五輪の開会式で五輪マークが登場し、花火が打ち上げられた木製の国立競技場 - 写真=dpa/時事通信フォト

■五輪開会式を見た7327万人の多様で複雑な心境

賛否両論が渦巻くなか、東京オリンピックが開幕した。

ビデオリサーチの推計では、オリンピック開会式をリアルタイムで視聴したのは日本全国で約7327万人に達したという。この数字をもって、開催前から言われていた「いざオリンピックが始まれば、事前の反対も忘れてみなテレビにかじりつくはず」という主張の正しさが裏づけられたようにも思える。大衆はしょせん「パンとサーカス」に弱く、彼ら/彼女らの感情的な意見にいちいち耳を傾けても仕方がないといった意見も耳にする。

しかし、テレビの前の人たちが何を考えていようと、とにかく数字さえ稼げればよいというのは、統治者かプロモーターの発想でしかない。7327万人という数字の背後には人びとの多様かつ複雑な心情が隠されているはずだ。

オリンピックにまつわる全てを受け入れるのでも、全てを拒絶するのでもなく、複雑な思いを抱えながらテレビに映し出されるパフォーマンスを眺めていた視聴者はかなりの数に上るだろう。多くの人が「絶対賛成」にも「絶対反対」にも振り切れない、そうしたあいまいさのなかで迎えたのが、今回のオリンピックなのだろうと思う。

■マスコミは五輪の利害関係者

そして、オリンピックを報道するマスコミもまた、そのようなあいまいさから完全に逃れることができていない。

もともと現代のオリンピックは、徹底した「メディア・イベント」だ。つまり、マスコミで報道されることを前提に開催される非日常的なセレモニーである。そこでマスコミに期待されるのは「第三者の立場から出来事を報道すること」ではなく「イベントを成功に導くこと」だ。

日本民間放送連盟とNHKによって構成されるジャパンコンソーシアムが巨額の放映権料を支払っていることも含め、オリンピックの盛り上がりはメディアビジネスに直結している。しかも、東京オリンピックでは全ての全国紙が「オフィシャルパートナー」もしくは「オフィシャルサポーター」に名前を連ねている。言わば、マスコミはオリンピックの利害関係者なのだ。

■五輪を盛り上げたいが、新型コロナも無視できない

実際、オリンピックが始まってから、テレビではその中継に多くの時間を費やしている。日本勢のメダル・ラッシュが続いていることも大きい。

それでもやはり、報道機関である以上、新型コロナウイルスに関する出来事を完全に無視することもできない。7月27日以降、東京都などで新規感染者数が過去最多を記録すると、控えめではあれ、それなりに報道は行われた。

そのため、全体としてはオリンピックを盛り上げたいという意向がきわめて強く伝わってくるものの、コロナ関連のニュースではオリンピックの影響が語られるなど、それに徹しきれない状況が続いている。

そうしたあいまいさがもっとも顕著なのが、開催中止を社説で訴えた信濃毎日新聞、西日本新聞、朝日新聞などのメディアだ。とりわけ朝日新聞の場合、中止を訴えながらも、オフィシャルパートナーを降りることもなく、競技の報道も続けていることから、ネットを中心にその「矛盾」を指摘する声は根強い。

■どう行動しても批判されるのがマスコミ

オリンピック開催を支持する側からみると、人びとをテレビに釘づけにして感染拡大を防いでいるオリンピックが、コロナとの関連で語られるのは許しがたく思える。逆に、開催に反対する側からすると、さまざまなリスクや問題を隠蔽(いんぺい)してオリンピック翼賛体制をつくりあげ、お祭りムードで緊急事態宣言の効果を弱めてしまっているようにみえる。

新聞の見出しには「緊急事態宣言」の文字
写真=iStock.com/Yusuke Ide
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

両者に共通するのは「マスコミはけしからん」という主張だ。

ネット上では、マスコミがどのように行動しても「けしからん」という声が散見される。たとえば、大規模災害が発生した際、記者が被災地に乗り込むことで報道被害を生じさせるというのは、いまでは定番になった批判だ。

他方、2019年に千葉県南部で大規模な台風被害が発生した時のように、マスコミによる被害状況の報道が遅れると、それはそれで批判は起きる。さらに、ツイッターなどで被害現場の写真や動画を上げているユーザーにマスコミが接触を試みている様子もしばしば揶揄(やゆ)の対象になる。「情報は自分の足で拾ってこい」というわけだ。

■悪天候を予想した気象予報士が脅迫を受ける理由

取材に行こうか行くまいが批判が起きるのは、言うまでもなくネットの声が一つではなく、それぞれに別のユーザーが別の角度からマスコミ批判を行っているからだ。

また、取材活動への嫌悪は、あくまで相対的なものだということも考えられる。もっと嫌われる人物や組織が注目を集めると、取材への嫌悪よりも情報に対するニーズが上位にきて「なぜアイツに取材しないのか」という不満が出てくることにもなる。

報道陣に取り囲まれインタビューに答える男性
写真=iStock.com/microgen
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/microgen

さらに、大規模災害時のように、人びとに大きな心理的ストレスがかかる状況下では、マスコミへの批判が強まりやすくなる。社会心理学の分野で指摘されるのは、「悪い知らせを伝える者は疎まれる」ということだ(ロバート・チャルディーニ『影響力の武器(第三版)』誠信書房)。

その例として、古代ペルシャでは戦いに勝利したことを伝えた伝令は盛大にもてなされた一方、敗北を伝えた伝令はその場で殺されたという逸話や、悪天候を予想した気象予報士が非難や脅迫を受けるという状況が挙げられる。感染拡大について悲観的な予想をした専門家が誹謗中傷に晒されるというのも、その例に加えて良いだろう。

■悪い知らせはニュースバリューが高い

他方、マスコミュニケーション研究で繰り返し指摘されてきたのは、良い知らせよりも悪い知らせのほうがニュースとしての価値(ニュースバリュー)が高いとみなされる、ということだ。

オリンピックで自国選手が金メダルを獲得したというほどの強いインパクトがない限り、良い知らせは「良かったね」で終わってしまう。それに対し、悪い知らせは、より多くの人びとのより強い関心を引き寄せられる。「マスコミは文句ばかり言ってくる」という批判が生まれるのも、こうしたニュースバリューの性質に原因の一端があるように思われる。

これを先の「悪い知らせを伝える者は疎まれる」という現象と足し合わせると、大規模災害や感染症拡大のような状況下において、マスコミはどうしても批判されやすくなる。悪い知らせに起因するストレスが、それを率先して伝えてくるマスコミに移し替えられてしまうのだ。

■政治的分断の下でメディアの選択肢は二つしかないが…

とはいえ、「悪い知らせを伝える者は疎まれる」のも、悪い知らせのほうがニュースバリューが高いのも、いまに始まった話ではない。マスコミが批判されるのには、それ以外にも地域や時代ごとにさまざまな要因がある。

まず挙げられるのが、政治的分断の進行だ。分断が起きている状況下では、メディアには大きく分けて二つの選択肢がある。

一つは、党派性を明確にし、一方的な意見ばかりを伝えるという選択だ。幅広い層から読者や視聴者を集めることは諦め、特定の層にのみアピールする。もちろん、立場を異にする層から激しい批判を浴びることは覚悟しなくてはならない。今回のケースでいえば、オリンピック翼賛で完全に腹をくくったメディアということになるだろうか。

もう一つは、意見の対立がある場合には双方の見解を紹介するなど、ある程度の中立性は保持するという選択だ。しかし、どっちつかずのそうした手法は、強い意見をもつ人びとからの反発を招きやすい。「明らかに間違っている意見」や「重要ではない問題」をなぜわざわざ取り上げるのかという話になってしまうからだ。

オリンピックは盛り上げたいが、かといって反対意見や開催にまつわる問題を完全に無視することもできない。そうした煮え切らなさは、賛成派と反対派の両方からの批判を招くことにもなる。このように、政治的分断が深まれば、マスコミがどのようなスタンスをとろうとも、批判が生じるのは避けられない。

■国境を越えるネットの影響力は無視できない

もっとも、いくつかの研究をみる限り、日本社会においてそれほど政治的な分断が深まっているようには思われない。むしろ、もめやすい話題はなるべく避けたいというのが大多数の心情だろう。

それではなぜ、ネット上では先鋭的な意見や、それに基づくマスコミ批判が目立つのだろうか。SNSに関する研究では、政治的な書き込みの過半数は、強い政治的意見をもつごく少数のユーザーによって行われているのだという。世の中の大多数は、ネット上で政治的意見を開陳したりしないのが現状だ。

ノートパソコンを使用している手元
写真=iStock.com/Photobuay
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Photobuay

そうした一部のユーザーからすれば、マスコミはそもそも偏向しているか、それとも両論併記などと称して「間違った」意見を垂れ流しているということになりがちだ。ネット上にマスコミ批判が満ち溢れている理由の一端は、こうした観点から説明できる。

だとすれば、ネット上の批判など、意識の高いごく一部の層が文句を言っているにすぎないのだからスルーしてもよい、ということになるのだろうか。

しかし、オリンピック開会式直前のごたごたからも明らかなように、ネットで発せられた声はしばしば反響しあい、時に国境を越えて広がっていくことで、いまや無視できない影響力を持つに至っている。

加えて、若年層がSNSを主要な情報源としている現状も無視はできない。マスコミ自体への接触が減少し続けるなら、ネット上の批判ばかりが目に入ることが多くなり、「嫌なもの」というイメージだけが蓄積されていくことにもなり得る。

■五輪に「あいまい」な人たちを記録すべきだ

話をまとめよう。利害関係者としてのマスコミは、その立場上、オリンピックを盛り上げざるを得ない。他方で、報道機関でもあるがゆえに、今回のような状況下では盛り上げに徹しきることもできない。そのため、オリンピックに賛成する側からも反対する側からも批判を呼ぶことになる。

しかも、長期にわたるコロナ禍のストレスのせいで、人びとの不満は政府や国際オリンピック委員会のみならず、マスコミにも向かいやすくなっている。SNSではマスコミ批判がもともと盛り上がりやすい構造がある。

以上を踏まえると、オリンピックのおかげでテレビの視聴率が上がり、配信記事の閲覧数が増えたとしても、マスコミ自体のイメージは悪くなることはあれ、良くなることはなさそうだ。今後の感染状況いかんでは、マスコミに向けられるまなざしはさらに厳しさを増すことにもなり得る。

実際、オリンピックに関するマスコミの無節操さ、あいまいさに対して、ネット上ではすでに厳しい声が上がっている。ただ、本稿の冒頭でも述べたように、そうしたあいまいさは、可視化されない無数の人びとにも共通するものだ。多くの視聴者は「絶対賛成」とも「絶対反対」とも言い切れないままに、オリンピックを楽しんでいるのではないかと思う。

個人的に期待したいのは、活躍した選手のみならず、絶対賛成の人や反対の人、あるいは全く無関心な人(前回の東京大会の時よりもずっと多いはず)も含め、そのように複雑な心境で2021年の夏を迎えた多くの人びとについての記録だ。

「事前の反対も忘れてみなテレビにかじりつきました」という単純化された物語に回収されない人びとの姿を記録しておくこと。おそらくそれが、今回のオリンピックについてマスコミが後世に残すことのできる最大の「レガシー」ではないだろうか。

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津田 正太郎(つだ・しょうたろう)
法政大学教授
1973年生まれ。1997年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。2001年サセックス大学大学院(Media Studies, MA)修了。2003年慶應義塾大学大学院法学研究科単位取得退学。財団法人国際通信経済研究所を経て現職。専門はマスコミュニケーション論。著書に『ナショナリズムとマスメディア』(勁草書房)、『メディアは社会を変えるのか』(世界思想社)など。

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(法政大学教授 津田 正太郎)

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