「戦わずして勝つ」徳川家康を軍事力を使わずに従わせた豊臣秀吉の革新的アイデア
プレジデントオンライン / 2021年9月5日 15時15分
※本稿は、本郷和人『日本史の法則』(河出新書)の一部を再編集したものです。
■「私は関白です。だから偉い。皆さん、頭を下げなさい」
豊臣秀吉は自分が天下人である印として「関白」というポストを選択しました。「私は関白です。だから偉い。皆さん、頭を下げなさい」と。これは非常に巧いやり方だったのですが、なぜ彼がこのような手をつかったかというと、そこには徳川家康の存在があります。
秀吉は「小牧・長久手の戦い」(1584)で家康と戦いましたが、そのとき秀吉は、家康を単純な戦闘では負かすことができなかった。秀吉は明智光秀を打ち破り、柴田勝家を打ち破ってきましたが、家康を戦場に引きずり出して戦ったときには、家康を負かすことはできなかった。もし総力を挙げて家康に挑めば勝っていたかもしれませんが、そうして家康を滅ぼしたとしても、自分自身も相当のダメージを被ってしまう。そう秀吉は判断していたらしい。
当時の秀吉には、まだ四国に長宗我部がいて、九州に島津もいる。関東では北条が頑張っている。東北には伊達政宗のような大名がいるという状況で、敵対する可能性のある勢力がまだまだいた。そうした状況を踏まえて「ここであまり力を消耗したくない」と判断したのでしょう。
そこで秀吉は巧い手を思いついた。それが、朝廷の官位を活用すること。朝廷のポストを十分に使いこなすことで、家康の従属を勝ち取ろうという考えだったのではないかと、私は見ています。
秀吉が、そうした非常に面白い手を思いつくアイディアマンだったという評価は、だいたい研究者の間でも共有されている認識ですが、朝廷のポストを持ち出して家康を従属させようとしたところにも、彼の資質がよく表れていると思います。
■ズルをして家康を自分の下にした
ただ、朝廷はものすごく伝統にうるさい組織ですから、秀吉が「自分を朝廷でいちばん偉い人にしてくれ」と申し入れても、どうしても「それには手順がある」という話になる。
秀吉もその手順は、形だけ踏まえる。しかし実際にはズルをして偉くなります。「公卿補任(くぎょうぶにん)」という、朝廷のいわば紳士録のような、何年に誰がどういう役職に就いていたかといったことをみな記載した記録があるのですが、彼はそれを改竄して偉くなるのです。
記録を改竄して、過去に必要な官職についていたことにして、関白になってしまった。
そして徳川家康には大納言を与えて、「お前は大納言で、俺は関白」という「自分のほうが上」という状況をつくり出した。
ただしこれは会社員の人はよくわかると思うのですが、上司と一般の社員の間に上下はあるとしても、それはあくまで仕事上の関係。もちろん主従関係ではないわけです。秀吉は、自分が天下人となるためには、ほかの大名たちと主従関係を結び家来にする必要があった。
しかし家来になろうとしない家康を懐柔するために、朝廷の序列を取り入れたわけですが、朝廷の序列は会社員と同じ。上下はあっても、主従関係ではない。それをあえて取り入れることで「徳川は並みの大名と違う」と尊重する姿勢を見せつつ、序列を世間に対して可視化したわけです。
もっとも最終的には、ポストだけで家康を懐柔することはできませんでした。手を尽くして外堀を埋め、家康が重い腰を上げて秀吉に会いに行くことになり、正式に会見が行われる。
その前日に秀吉が家康のところへやって来て、彼の手を握って頼みこんだという話があります。
「家康殿、あなたは信長様の盟友だったが、私は信長様の家来だった。だから筋から言えばあなたのほうが格上だ」。ヤクザで言えば秀吉は親分の子分で、家康は叔父貴になるわけですから、家康のほうが格が上なのです。
「そのことは自分もよく知ってる。しかし世のため人のため、平和な世の中をつくるために一肌脱いでくれ。俺はあなたのことを尊重するけれども、明日の会見ではあなたを家来として扱う。よろしくお願いする」と言った。
家康もよくわかっていて、翌日の会見では「秀吉様」と呼びかける。今後は私が戦の指揮をいたします。秀吉様に戦場に出馬するご苦労はおかけしません。秀吉のほうは鷹揚に「おお、家康。これから励めよ」と応える。単なる上下でなく、主従関係が設定されたのです。そんな猿芝居が行われたと伝えられます。
この逸話自体は嘘だったでしょうが、ふたりの微妙な関係性を表す、絶好の話ではあります。
■関白というポストに権力はない
そうして秀吉は天下人になりました。しかし秀吉が関白を選んだのはあくまで手段。それに関白になったからといって、なにか権限が手に入るのかというとなにもない。なにも変わらないのです。
秀吉が実力で獲得したものが大事であって、だからこそ皆「秀吉は偉い」と感じている。関白というポストは、あくまで「秀吉の天下人としてのポジションをどういう形で世間に示すか」という意味しかなく、なんでもよかった。秀吉の実質に、関白であることが関与することはなにもないのです。
それがよくわかるのが、秀次事件ですね。秀吉は、自分に子どもが生まれ跡継ぎを授かることをずっと切望してきましたが、ようやく鶴松という子どもが生まれた。しかし大喜びしたものの、2歳で亡くなってしまう。秀吉は落胆し、そしてもはや子どもはできないと諦め、甥の豊臣秀次を後継者に定めた。
それまで後継者候補の1番手が秀次、2番手が後に関ヶ原で西軍を裏切る小早川秀秋だったのですが、もはや秀次を後継者として正式に定め「これから一生懸命やれよ」ということを言って、そうして関白職を譲った。
関白というポストに権限と権力が付随しているのであれば、これで秀次が天下人です。秀吉は引退という形にならざるを得ないのですが、秀吉が生きているのに「関白職を降りた秀吉より、新しく関白になった秀次のほうが偉い」などと受けとめる人は誰もいない。関白職を退いた人を太閤と呼ぶわけですが、秀吉は太閤殿下として天下人であり続けたし、秀頼が生まれると、秀次はあっさり殺されてしまいます。
■「皇帝」になろうとした織田信長
信長については「三職推任(さんしきすいにん)問題」という議論が取り沙汰されることがあります。
1582年、「本能寺の変」が起きるその年に、朝廷側から信長に対して「関白か太政大臣か将軍か、この3つのうち、どれでも好きな職に就いてください」という申し入れがあった。信長は、「わかりました」とは答えたのですが、具体的にどの職をのぞむか回答せずに京都から帰る。その後、「本能寺の変」が起こって命を落としたものですから「信長は一体何になろうとしていたのか」という謎が残ってしまった。
これが「三職推任問題」です。この問題を考えることで、「信長は一体どのように朝廷を捉えていたのだろうか」という視野も導かれることになります。
かつては「信長は神になろうとしていた」という説もありましたが、信長は右大臣を一度やって辞めており、朝廷から提案された三職についても、今さら興味がなく、どの職にもつくつもりはなかったと、一時は皆、だいたいそのように考えていました。
しかし最近になって、だいぶ潮目が変わってきた。「信長はどれかになろうとしていたのではないか」。さらに言うと「将軍になろうとしていたのではないか」という論調に変わってきています。私自身はその見方には反対で、信長ほど高度にオリジナリティのある人が、さて朝廷からポストをもらうことにありがたみを感じるものでしょうか。
彼は、安土城の天守閣に住んでいた。中国の偉い人の絵を描かせたり、インドの仏教の仏様を描かせたりした障壁画に囲まれて起居していた人です。岐阜という名前。天下布武。そうした信長の世界観を想像すると、「自分は仏よりも中国の孔子たちよりも偉い」と考えていたのではないでしょうか。そんな信長が朝廷のポストをありがたく思うはずがない。信長は案外、皇帝になろうとしていたのではないでしょうか。そう私は考えています。
ですから、私は、万世一系の天皇という存在が、もっとも危険にさらされたのは、信長の時ではないかと考えています。ただ、信長が自身の考えを表明し、その構想を実行に移す前に、本能寺で命を落とすことになりました。
■征夷大将軍に就く前から家康は偉かった
秀吉は、先にも述べたように、「小牧・長久手の戦い」までは、朝廷の官職について興味を持たなかった。それが、家康を正面から叩き潰すのが難しいとなったときに、突如として官職を手に入れようとして動き出し、関白になった。これは完全に目的ではなく手段でした。その意味で言うと、秀吉も基本的には「官職は使えるならば使う」という捉え方だったと見ていい。
家康はご存じの通り、征夷大将軍になって江戸で幕府を開いています。しかし信長、秀吉の段階ですでに、朝廷の与えてくれる位についてはずいぶんと乾いた感覚だったわけですから、家康の当時、征夷大将軍にそこまで意味があるかといったら、とりあえずなかったと私は思います。
「頼朝が鎌倉幕府を開いたのはいつか?」。彼が征夷大将軍になった1192年説は現代では支持されず、その前の1185年にすでに鎌倉幕府は成立していたという解釈が一般的です。
では「足利尊氏が室町幕府を開いたのはいつか?」。以前は尊氏が征夷大将軍になった1338年とされていましたが、現代では建武式目がつくられた1336年が定説になっています。
となると家康も、彼が征夷大将軍になった1603年ではなく、「関ヶ原の戦い」の勝者となった1600年に、徳川幕府を開いたと見てよいのではないでしょうか。
関ヶ原の戦後、家康は大名たちに「お前は俺のために戦ってくれたから、領地を倍にしてやる。お前は敵に加担したから領地没収。お前はさらに積極的に敵に回ったから切腹な」と、彼個人の意志で天下の戦後処理を行っています。
だから私は、1600年の段階ですでに家康は天下人になった。江戸幕府はそこから始まったと見ていいのではないと考えています。その3年後に家康は征夷大将軍になりますが、それはもう本当にオマケのセレモニーでしかなかったのです。彼はやがて将軍職を息子の秀忠に譲りますが、大御所様として天下人であり続けます。
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東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本資料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)
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