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「実は将軍家の跡継ぎ争いではなかった」応仁の乱が11年も続いた本当の理由

プレジデントオンライン / 2021年9月24日 10時15分

歌川芳虎(江戸時代)の作品(写真=Japanese-finearts.com)

なぜ応仁の乱は11年間も続いたのか。東京大学史料編纂(へんさん)所の本郷和人教授は「戦のきっかけは足利将軍家の跡継ぎ問題だが、それ以上に重要なことがある。それは、瀬戸内海の交易権をめぐる経済戦争としての側面だ」という――。

※本稿は、本郷和人『日本史の論点』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■八代将軍・義政には長いこと子どもができなかった

「応仁の乱」(一四六七~一四七七年)のきっかけについては諸説ありますが、「原因は足利(あしかが)将軍家の跡継ぎ問題だった」というのが定説です。

当時の室町幕府がどんな状態だったかというと、くじ引きで選ばれた六代将軍の足利義教(よしのり)が暗殺され、義教の息子である足利義勝(よしかつ)(一四三四~一四四三年)が七代将軍に就任していました。ところが、義勝はまだ幼いうちに亡くなってしまい、八代将軍として義勝の弟である足利義政(よしまさ)(一四三六~一四九〇年)が選ばれました。

義政は、銀閣寺を建てた人としても知られていますが、長いこと子どもができませんでした。次の将軍をどうするか考えた際、義政は「自分の弟に僧侶になっている者がいるから、彼に将軍の位を譲る」と言い出しました。ところが、その出家した弟にそのことを伝え、還俗(げんぞく)してもらおうとすると、難色を示されます。

■弟が還俗したあとに息子が産まれる

弟からしてみれば、父の六代将軍である義教は暗殺されているし、将軍になることが良いことのようにも思えない。だから「義政兄さんはまだ若いから、子どもができるかもしれない。もし息子ができた場合、自分がいたらどうせ邪魔にされるだろうからイヤだ」と、断りました。しかし、義政は、「大丈夫だ。どんなことがあってもお前を後援するから、還俗して自分の跡を継いでくれ」と言う。

そこまで言われるのなら仕方がないと、還俗し、足利義視(よしみ) (一四三九~一四九一年)と名乗るようになりました。

ところが、人生とは皮肉なものです。そんな話をした翌年、足利義政の妻である日野富子(ひのとみこ)(一四四〇~一四九六年)が息子を産んでしまいます。それでも、八代将軍の義政は「息子は生まれたものの、弟と約束している以上、将軍職は予定通り弟に譲る」と考えていました。還俗した義視の立場からすれば、「あれだけ強く約束したのだから、息子が生まれたからといって、約束を反故(ほご)にするのは勘弁してくれ」と主張するのは当然です。でも、日野富子にしてみれば、自分がお腹を痛めて産んだ子を将軍にしたい。そこで、九代将軍に誰を据えるべきかという問題が勃発しました。

■高級娼婦から「あなたの子よ」と言われたものの…

足利将軍家で問題が起こっていた頃、畠山(はたけやま)家も同様の問題で揉(も)めていました。ここで簡単に、室町幕府の政治事情について補足させてください。当時の室町幕府は、斯波(しば)家、畠山家、細川家の三つの家が代わる代わる「管領(かんれい)」になることで、運営されていました。管領とは、幕府の実質的な政治責任者のこと。つまり、畠山家は、幕府政治に非常に強い発言力を持っている家柄だったのです。

くじ引き将軍・義教の八百長の実行者としての疑いがある畠山満家(みついえ)も、畠山本家の当主です。また、満家の息子の畠山持国(もちくに)(一三九八~一四五五年)は、畠山家の全盛時代を築いたと言われるほどに優秀な人物でした。

ところが、彼の次を決める際に、息子である畠山義就(よしなり)(一四三七?~一四九一年)と、甥にあたる畠山政長(まさなが)(一四四二~一四九三年)の間で非常に面倒な跡継ぎ問題が起きてしまったのです。

どうして息子がいるのに、甥(おい)が後継者候補に挙がり、さらに二人の間でバトルが起こったのか。かつて、畠山持国はオペラの“椿姫”のような高級娼婦と深い仲になり、相手の女性が妊娠して、男の子を生みました。女性からは「あなたの子よ」と言われたものの、なにせ相手は高級娼婦。数多くの恋人がいるはずです。そこで、持国は、「え、本当に自分の子なの?」という疑いを抱きました。誰の子だかわからない男の子を、自分の家に迎え入れたくはない。そこで、持国は、息子が生まれたらすぐに寺に送り、僧侶にしてしまいました。

■いきなり息子が登場して後継者争いが勃発

月日が経(た)ち、持国は跡目について考えるようになりました。「私には息子ができなかったな。仕方ない。甥の政長を後継者にしよう」と決めました。しかし、あるとき京都にある相国寺(しょうこくじ)へ行くと、「あれ? もしかして、お父さんじゃないですか?」と一人の少年に話しかけられます。それは、かつて“椿姫”から生まれ落ち、自分が寺へ送った息子でした。赤ん坊の頃にはわかりませんでしたが、いざ成長した息子を見てみると、その顔は自分に瓜二つ(うりふたつ)です。「これは、自分の子に違いない」と持国は、確信します。

せっかく息子がいるのならば、甥ではなくて、息子に跡を継がせたい。そう思った持国は、その僧侶を還俗させ、義就と名乗らせ、家へ連れて帰るのです。

さて、ここで困ったのは、政長とその家来たちです。政長にしてみれば、「自分が後継者になると思っていたのに、いきなり出てきた息子にその地位をかっさらわれてしまうのか」と愕然(がくぜん)としたでしょう。政長の家来たちにしても、将来的には政長が家督を継ぐと思っていたからこそ、一生懸命彼に取り入る努力をしていたわけで、「だったら、これまでの自分の努力はなんだったのだ……」とがっかりしてしまったでしょう。

逆に、政長に取り入るのに失敗していた家来たちは、「新しい跡取りとなる義就さんに取り入ろう」と考えて、義就を持ちあげます。この跡目争いによって、畠山家は真っ二つに割れてしまいました。しかも、騒動の最中に、問題の原因を作った持国は死んでしまい、争いは苛烈(かれつ)を極めました。

■畠山家と足利将軍家の跡継ぎ問題で幕府が真っ二つに

どちらが家督を継ぐべきかを議論した末、幕府側が支持したのは甥の政長側でした。一方の義就は、謀反人と認定され、討伐の対象になりました。それでも、義就は、自分の名誉を守るため、懸命に戦いました。

応仁の乱に登場してくる武将は、みな軍事面では平凡です。ですが例外的に畠山義就は、戦上手でした。その様子に目を付けたのが、山名一族の長で、当時の幕府に大きな権力を持っていた山名宗全(そうぜん)(一四〇四~一四七三年)です。ねばり強く戦う義就を見て、「こいつは使えるな」と思った彼は、「山名は義就を支持することを決めた」と宣言します。

困ったのは、政長です。山名宗全が義就を支持するのならば、自分はどうなるのかと不安になった彼は、三管領であり、幕府内で山名と対抗できるだけの力を持つ細川勝元(かつもと)(一四三〇~一四七三年)に、「自分を支持してくれますよね?」と詰め寄った。勝元は、「もちろんあなたを支持しますよ」と賛同します。ここで、幕府内に、畠山義就を推すグループと、畠山政長を推すグループが誕生します。

この畠山家と足利将軍家の跡継ぎ問題によって、室町幕府は、細川勝元が率いる東軍と、山名宗全率いる西軍に真っ二つに割れました。両者の争いは、京都で十一年間の長きに渡って行われ、気が付いたら京都は焼け野原になっていた。これを「応仁の乱」と呼びます。

応仁の乱発祥の地
応仁の乱勃発地の碑=2014年10月30日、京都市上京区の御霊神社(写真=時事通信フォト)

■応仁の乱の本質は「誰が幕府の運営をするか」を巡る権力争い

教科書などでは、非常に複雑な人間関係で説明される応仁の乱ですが、この解釈の問題点は、両軍が何を求めて戦っていたのかがハッキリしない点です。

では僕はどう考えるか。僕は応仁の乱の本質は「誰が幕府を運営するか」を巡る、権力争いだったのだと思います。平凡すぎますか? まあ聞いて下さい。

改めて考えてみたいのが将軍の地位についてです。以前、将軍職は「私がやります!」「いや、私が!」と人々が奪い合う華々しい地位でした(たとえば、くじ引き将軍義教の兄弟、大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)は将軍の座を狙って運動し、討たれています)が、応仁の乱前後の将軍職というものは、さほど魅力的なものではないし、何といっても義教が暗殺された影響か、将軍自体の影響力も失墜していました。だから、将軍家の跡継ぎ問題などはどう転んでも幕政に変化をもたらすものではなかった。

■瀬戸内海の交易権をめぐる経済戦争

むしろ、重大な意味をもったのは、細川と山名による幕府内の勢力争いです。その頃、両家の火種になっていたのは、瀬戸内海の交易権ではないかと僕は思っています。瀬戸内海の交易は当時非常に盛んでしたので、これを押さえれば、豊かな富が手に入ります。瀬戸内海交易の延長線上には、日明(にちみん)貿易の利権もあります。日明貿易は儲(もう)かるので、誰もがやりたいと考えるのですが、明との交易は将軍の名がないとできません。自分が幕府の実権を握って将軍を自在に操れれば、日明貿易も手中に収めることができます。

書影
本郷和人『日本史の論点』(扶桑社新書)

そこで、細川と山名は、瀬戸内海沿岸にどれだけ自分の拠点が築けるかを争います。

細川は四国を拠点としており、堺の商人と連携していました。

対する山名は、備後(びんご)や安芸(あき)、現在の広島県あたりに拠点を構え、航行する船に対して税金を取っていました。さらに、山名の盟友には、山口に拠点を持つ大内氏がいます。大内は「自分は朝鮮の王朝の子孫だ」と名乗っていたほどなので、朝鮮との交易も行っています。また、彼は博多の商人ともしっかりとつながりを結んでいたので、明との交易にも強かった。

つまり、室町時代には、「どちらが瀬戸内海の交易権を押さえるか」を争う「経済戦争」が行われていた。それが、応仁の乱が十一年も続いた要因のひとつではないかと僕は思います。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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