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「戦後最高の総理大臣は田中角栄ではない」日本を経済大国に変えた"所得倍増"という奇跡

プレジデントオンライン / 2021年10月8日 10時15分

1964年6月30日、自民党総裁選挙に出馬表明し、3選を目指す池田勇人首相(東京・首相官邸) - 写真=時事通信フォト

戦後最高の総理大臣とはいったいだれだろうか。憲政史家の倉山満さんは「それは池田勇人だろう。最近は田中角栄の人気が高いが、田中は高度経済成長の遺産を食いつぶしただけの無能な政治家だ。池田の所得倍増政策なくして、いまの日本は存在しない」という——。

■「強い政治家だった」という意味不明な美化

戦後最高の総理大臣と言えば、古くは吉田茂と相場が決まっていました。今だと田中角栄でしょうか。

吉田は敗戦後の混乱期に、横暴極まりないGHQの圧力に対し、よく立ち向かいました。

なにより日本を独立に導いた功労者ですから、批判したい点も山のようにありますが、ある程度の高評価は納得できます。

しかし最近は、なぜか吉田以上に田中角栄の評価が高く、角栄の本を出せば売れる「角栄産業」と言われるほどの大人気ぶりです。

生前の角栄は、ロッキード事件など汚職で真っ黒の金権政治家として、およそマトモなオトナが名前を口にするのもはばかられるような汚水の臭いがする政治家でしたが、今となってはその強引な政治手法が「強い政治家だった」と美化されて、意味不明な感慨が人気を呼んでいます。

現実の田中角栄なんて、所詮は高度経済成長の遺産を食いつぶしただけの無能な政治家なのに、「日本の経済が一番立派な時代を作った立派な総理大臣」みたいな間違った歴史認識が蔓延(まんえん)しています。

もちろん、人間の評価に百点も零点もありません。

角栄の凄さはナンバー2だった時です。角栄は池田勇人内閣で大蔵大臣を三度も務めました。だから高度経済成長をけん引した政治家のイメージが出来上がったのですが、実際の角栄は「池田に使われていなければ何をしでかすかわからない人」にすぎなかったのです。

■現代の日本人は遺産を食いつぶしているだけ

さて、そんな吉田や角栄に対して、池田勇人の評価です。

池田は、吉田と角栄の間にあって、忘れられている存在と言ってもいいでしょう。

しかし歴史を知ればわかりますが、この池田勇人こそ戦後最高の総理大臣です。

日本を先進国にしたのは池田です。

いくら陰りが見えたと言っても、日本は世界の中では経済大国です。われわれ現代日本人が、いま生きていられるのは、すべて池田勇人のおかげです。

■池田勇人の真の目的とは…

一部のマニア、もとい学者と言論人の中には、「それまでの歴代総理は押し付け憲法を何とか改正して日本を自主独立の国にしようと努力していた。

ところが池田が憲法改正を封印してしまった。池田なんて日本人をエコノミックアニマルにしてしまった元凶ではないか」と言い出す人もいます。

まったく違います。

史実の池田は、志半ばで病に倒れました。

健康に恵まれ、佐藤栄作や安倍晋三のような長期政権を築いていたら、間違いなく大日本帝国は復活したでしょう。

池田と言えば自ら「経済の池田」を名乗りましたが、池田にとって経済は手段にすぎません。池田の真の目的は、大国に戻ることでした。

■未来を見据えていた日銀対策

政治家・池田勇人のすごさは、常に未来を見据えて動いているところです。

安倍晋三前首相が進めたアベノミクスの主要課題は日銀に紙幣を刷らせることでしたが、池田勇人の時は、そんなことは最初からメカニズムとして組み込まれていました。

金本位制の固定相場制でドルが基軸通貨です。だからアメリカがドルを刷ると、1ドル360円を維持するために日本も円も刷ることになります。

実は、池田内閣発足早々に日銀は大蔵省に対して「独立戦争」を仕掛けてきました。3年がかりで準備してきた日銀法改定案により中央銀行の独立を求めたのです。

日本銀行
※写真はイメージです(写真=iStock.com/YMZK-photo)

しかし、池田は中央銀行と政府の一体性を譲りません。結局、日銀法改定はなりませんでした(『日本銀行百年史』第5巻、日本銀行、1985年)。

未然に防いだ問題は忘れられてしまいがちで、池田の伝記などでも大きくとりあげられることがありませんが、ここで日銀法が改悪されていたら、その後の高度成長はなかったでしょう。

日銀の悲願である中央銀行の政府からの独立は、1998年の日銀法改定により達成されました。その後、財務省からの天下りを排除し、速水優・福井俊彦・白川方明の3代の日銀出身者が総裁となった15年間、日本は地獄のようなデフレを味わいました。

また日銀の性ですが、隙あらば公定歩合を引き上げようとします。これも池田は阻止します。

初動の段階で日銀をピシャッと押さえつけました。ちなみに当時の総裁は大蔵省同期の山際正道で、池田とは歩調をあわせて進みます。それで公定歩合が上がりません。

公定歩合とは日銀が民間銀行に貸しつけを行うにあたっての金利です。銀行はそれを目安に預貯金金利や貸出金利を設定する。

日銀が民間銀行に融資するときの金利が安ければ、銀行も企業に低く融資できます。利子が低ければ、借金をするハードルが低くなります。

また、現在の金利が低くても、いつ金利が上がるかわからないとなると誰も借金したがりません。しかし金利が上がらないという予測がつけば安心して借りることができます。政治が明確に経済政策の目標を掲げることで、経済活動をやりやすくなります。

■アベノミクスと所得倍増政策の決定的な違い

アベノミクスでは「インフレ目標を経済成長率2%」と掲げましたが、池田の焼き直しです。

金利が低いこと。その金利が将来にわたって上がらないこと。融資が活発に行われるためには、この二つが大前提です。

池田の時代には、企業が融資を受けて設備投資できるしくみが整っていました。そのため安心して企業が借金して投資する。積極的に投資するので商品の質が向上する。商品の質が向上すると消費者が買う。すると企業が儲かるので、余裕が生まれ、従業員の給料に反映される。給料が上がれば、生活に余裕が生まれます。

アベノミクスと池田勇人の所得倍増政策の大きな違いは貯金を重視しているかどうかです。アベノミクスでは、貯まりに貯まった貯金を使わせることが主眼でしたから、そこは状況が違いました。

今月、今年の給料がよくてもすぐに消費には結びつきません。

蓄えがあるから安心してモノが買える。貯蓄がなければ人生設計もできません。貯金残高がほとんどない状態で子どもなどつくれない。

文明社会では、ただ食べさせればいいというものではありません。教育にお金がかかります。高等教育を受けさせてやりたい。塾に通わせたり、音楽やスポーツなどの習い事をさせてやりたい。これらは決して贅沢なことではなく、現代日本の普通の庶民が望むことです。

貯蓄が増えていけば、安心してモノを買い、消費が増える。好循環です。

経済成長することによって、その規模が雪だるま式に増えていく。

理論上、毎年7.2%の経済成長をすると10年で2倍になります。しかし、池田は9%を打ち出した。ちなみに下村案は11%でした。実際には図表1のように年によって差がありますが、1960~65年の平均値は10%です。そのため所得倍増には10年かかりませんでした。

実質経済成長率の推移の図表
出所=経済産業庁「国税2000年の日本」より、出典=『嘘だらけの池田勇人』

1960年代の成長率は著しく、69年にはGNP(国民総生産)がヨーロッパ諸国を抜いて世界第2位となります。なお、最近ではGDP(国内総生産)が用いられ、使われなくなりましたが、かつて国の経済規模を表す単位は主にGNPでした。

アベノミクスは池田の政策の焼き直しです。しかし不完全燃焼を起こして当初ねらったはずの成果は上げられませんでした。

最大の違いは、池田勇人は最大の抵抗勢力である日銀を初動で叩きのめしましたが、安倍晋三はアベノミクス開始1年で財務省に消費増税を押し付けられました。どんな立派な経済理論も、実行する総理大臣の実力次第なのです。

■佐藤内閣福田蔵相は公約泥棒

池田政権の経済政策を批判していたのは、佐藤栄作と福田赳夫です。

急激な所得倍増ではなく、安定成長こそ必要だと主張していました。

池田が自民党総裁に3回目の出馬の構えを見せた時、佐藤は「長期政権反対」と阻止に立候補します。

そして、常軌を逸した金権選挙を繰り広げました。

直後に池田が病気退陣、総裁選で善戦していた佐藤に政権が転がり込みます。

佐藤は最初こそ池田内閣の居抜きで臨みますが、半年後の内閣改造で自前の人事で組閣。

蔵相には福田を起用しました。

佐藤内閣福田蔵相は、池田以上の高度経済政策を採りました。

結果、池田政権4年4カ月と佐藤政権7年8カ月の12年間は、「戦後日本の黄金時代」となりました。

佐藤や福田のやったことは明々白々な公約泥棒で、議会政治の本場のイギリスでは卑怯者のやることと厳に戒められるのですが、日本人は「政治は結果責任だから」と問題にしませんでした。

佐藤を脅かしそうな政敵は、次々と死んでくれました。大野伴睦は既になく、大野派は分裂します。

池田も退陣後にほどなく亡くなります。池田の死の1カ月ほど前の昭和40年7月8日、最大のライバルだった河野一郎も憤死同然に急死しています。

その後の佐藤は、検察を使い旧池田派と旧河野派を弱体化させました(詳細は、小著『検証 検察庁の近現代史』光文社新書を参照)。

■もし池田に長寿が許されたらどうなったか

池田退陣から4年後の昭和43年、日本の防衛事情が劇的に変わりえた大きな機会がありました。アメリカのニクソン大統領が日本に核武装を求めてきたのです。

昭和42(1967)年6月、中共が初の水爆実験を実施しました。アメリカはベトナム戦争で苦しんでいました。

ニクソンは同年10月に論文を発表し、その中で「世界の警察官」としてのアメリカの役割は今後限られたものになるからと、日本を含めた同盟国に防衛努力を訴えました。

ニクソン大統領と笑顔で会談する佐藤首相。1972年5月1日、サン・クレメンテ。
ニクソン大統領と笑顔で会談する佐藤首相。1972年5月1日、サン・クレメンテ。(写真=Bob Moore/PD-USGov/Wikimedia Commons)

翌年11月、佐藤首相は訪米しますが、このときニクソン大統領は沖縄の核兵器をアメリカ製から日本製のものへと変えるように促しました(江崎道朗『知りたくないではすまされない』KADOKAWA、2018年)。

佐藤はこれに対して「非核三原則」で応えます。

日本に戦う意思なしと見たニクソンはソ連の脅威に対抗するために中国に近づいていくことになります。

ニクソンが日本に「核武装して大国に戻る気はないか」と打診してきたときの首相が池田勇人だったら、どうでしょう。

外交交渉で「もし軍事力があれば発言力が10倍だったのに」と嘆く池田、「いざとなれば軍事的解決を行う」と即答する池田が、ニクソンに核武装を持ち掛けられていたら……。

日本は核保有国となり、名実ともに大国の一員に返り咲くのは容易だったでしょう。

憲法改正など、当然です。吉田から池田までの歴代総理は、その日が来るまで敗戦国の立場で耐えてきたのですから。

ところが史実においては、佐藤内閣はアメリカの核武装提案を握りつぶしました。佐藤は「日本は永遠に敗戦国のままでいい」と決断したのです。

そんな日本をしり目に、中国はアメリカとの接近を強め、今やアメリカの覇権を脅かしかねない超大国に成長しました。佐藤の取り返しのつかない失敗です。

■佐藤内閣以後、「悪夢の自民党」に成り下がるまで

そういえば、佐藤内閣の頃から「新憲法」が死語になりました。

敗戦、日本国憲法制定から20年、もはやこの敗戦憲法を押し戴いて未来永劫、敗戦国として生きていくことを日本人は決断したことになります。

日本国憲法とともに、自民党の存在も万年与党として定着しました。そこに業界団体がぶら下がり、実際の政治は官僚が行う。いわゆる政官業の「鉄のトライアングル」の完成です。

自民党は「資本主義と日米安保条約にさえ賛成すれば、その他の思想信条は問わない」とするいい加減な政党でしたが、佐藤後継の田中角栄が台湾を切り捨てて北京政府と組んだので、その二つすらいい加減になりました。

角栄はなぜか高度経済成長の申し子とされ、何がどう間違ったのか「戦後最高の総理大臣」とされています。しかし、首相の時の角栄は、日本列島改造論による狂乱物価で高度経済成長を終わらせました。しょせんトップの器ではなかった人間を持ち上げた、日本人へのしっぺ返しでした。

悪いことに、石油ショックが直撃します。それでも石油ショックを乗り越えた日本はバブル景気に沸きます。昭和の自民党政治は「国民に飯を食わすこと」だけは実行しました。

時は平成に代わりバブルは崩壊、日本は長いデフレ不況に突入します。その中で例外は、小泉内閣の5年間はゆるやかな景気回復を達成し、第2次安倍政権の8年間がさらにゆるやかな(たいしたことはない)景気回復を実現しました。

自民党以外の政権では、村山富市社会党内閣の時に阪神大震災、菅直人民主党政権で東日本大震災。第2次安倍政権末期にはたいしたことがない景気回復すら消費増税であやしくなっていましたが、それでも災害対策だけはマトモにやっていました。

ところがコロナ禍です。安倍晋三前首相は「悪夢の民主党政権に戻してよいのか」と有権者を脅して佐藤栄作を超える長期政権を実現しましたが、コロナ禍の自民党の無能は軽く「悪夢の民主党」を凌駕しています。

■戦後、日本の経済状態は悪い時期のほうが長い

日本は戦後76年で、経済状態が悪い時期のほうが実は長いとお気づきでしょうか。

倉山満『嘘だらけの池田勇人』(扶桑社新書)
倉山満『嘘だらけの池田勇人』(扶桑社新書)

戦後まもなくはもちろん混乱期ですから経済状態がいいわけがありません。

そして昭和25(1950)年に朝鮮戦争が起き、好景気となります。

その後、昭和47(1972)年までの22年間は本当に景気がよい時期でした。一時的な落ち込みを除けば20年です。

その後は石油ショックの長期不況で、バブル景気がだいたい5年。小泉・安倍の13年は好景気というよりデフレが少しマシになっただけですが、この13年をカサ上げしてようやく戦後76年間の半分程度の38年に達します。

さらに言うと、昭和48年以降の約50年だと、本当に景気がよかったと言えるのはバブル期の5年だけです。それでも日本は落ちぶれたとはいえ世界第3位の経済大国です。池田の遺産がいかに大きかったかがわかろうというものです。そして、私たちはその遺産を食いつぶしているのです。

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倉山 満(くらやま・みつる)
憲政史家
1973年、香川県生まれ。中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学。在学中より国士舘大学に勤務、日本国憲法などを講じる。シンクタンク所長などをへて、現在に至る。『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA)、『ウェストファリア体制』(PHP新書)、『13歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)など、著書多数。

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(憲政史家 倉山 満)

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