バナナや牛で飢えをしのぎ…30年間も密林に留まり続けた"日本軍情報将校"の戦闘力
プレジデントオンライン / 2021年10月20日 9時15分
■私の戦争を終わらせにきた一人の青年
春、終戦の日がやってくる。
私の“終戦記念日”は、昭和四十九年、元上官の谷口義美少佐から「任務解除命令」を受け、フィリピン空軍司令官に投降した三月十日である。
この季節になると、私はもう会うこともできなくなった一人の青年を思い出す。鈴木紀夫君(昭和六十一年十二月、ヒマラヤで遭難死)。私の運命を百八十度転換させた男である。
「おいッ」
私は男の背後から声をかけた。
炊事のため火を燃やしていた男は立ち上がってこちらを見た。大きな丸い目、長髪、青黒いズボン(ジーパン)でサンダルをつっかけている。
「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と繰り返し、彼はぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。手が震えていた。
私は腰だめの姿勢で銃を構えていた。安全装置をはずし、右人差し指が引き金にかかっている。顔を男の真正面に向けたまま、眼球だけを左右に走らせた。人の気配がすれば男を射殺する。
「小野田さんですか?」
男はうわずった声で聞いた。
「そうだ、小野田だ」
「あっ、小野田少尉殿デアリマスカ」
急に軍隊調になった。
「長い間、ご苦労さまでした。戦争は終わっています。ボクと一緒に日本に帰っていただけませんか」
私は彼を怒鳴りつけた。
「オレには戦争は終わっていない!」
■敵が日本語のできるやつを送り込んできたのか?
私は四日前からジャングルの斜面に立ち、この青年の行動をずっと監視していた。彼は捜索隊が「和歌山ポイント」と呼ぶ川の合流点に、白い蚊帳(かや)のテントを張っていた。野営するからには狙撃兵を連れた討伐隊か、パトロールに違いない。
私は軍帽と上着を裏返しにして小枝の葉で擬装し、監視の輪をしだいに狭めていった。
落日を背に青年に接近した。
「小野田さん、陛下や国民が心配しています」
「お前はだれの命令を受けてきたのか?」
「いえ、単なる旅行者です」
(怪しい男だ。敵が日本語のできるやつをオトリに送り込んできた)
私は警戒心を強めていた。
ただ一つ、男には私に銃の引き金を引かせることをためらわせた点があった。サンダル履きのくせに、毛の靴下を履いていた。軍人ではない。もし住民だとしても、靴下を履く階層は靴を履く。
昭和四十九年二月二十日、ルバング島山中。これが私に祖国日本への生還の道をひらいてくれた鈴木紀夫君との遭遇だった。このとき、彼は二十四歳、私五十一歳。
のちに知ることだが、日本の敗戦から三十年近くがたとうとしていた。
■密林で暮らし、バナナや水牛をとっては食べる日々
日はとっくに暮れていた。闇(やみ)がジャングルの静寂を支配していた。
「小野田さんはここに骨を埋めるつもりですか」
「任務解除の命令がない限り、ここを動くわけにはいかんのだ」
すでに三時間がたとうとしていた。夕暮れどき、東の空にあった星が、真上まで動いている。私には星が時計である。時刻は九時近くだろう。
「小野田さん、“お宅”はどちらですか?」
突然、鈴木君が妙なことを聞いた。お宅? そんなものあるわけがない。私は「残置諜者(ざんちちょうじゃ)」(※)としてこの島で諜報、ゲリラ戦を戦っているのだ。
※敵の占領地内に残留し、味方の反撃に備えて各種の情報を収集しておく情報員
彼の頭には、二年ほど前、グアム島で発見された横井庄一さんのこと(捜索隊が置いていった日本の新聞で、私は知っていた)があり、私が洞窟(どうくつ)にでも住んでいると思ったようだ。
私たちの部隊は一五度ほど傾斜した密林の斜面で暮らしていた。主食はバナナとヤシ、いぶし肉である。潜伏初期は水牛や馬、野ブタ、山ネコ、尾まで入れたら一メートルもある大トカゲなども食べたが、においがきつくてまずかった。
密林の中でも、バナナ畑やヤシ林が近く、牛が獲りやすい場所を選んで、住民たちが「バハイ」と呼ぶ小屋をつくった。寝室は竹や木を組んで高床にして、じゅうたん代わりに住民から“徴発”した航空会社のバッグをほどいたものを敷いて暮らしていた。
三十年近いこの習慣で、日本に帰還した当初、寝床を一五度ほど傾けなければ眠ることができなかったほどだ。
■あっけらかんと“最高機密”を聞いてくる
「オレは逃げ隠れして生きているんじゃない。全島の状況を常時把握するために偵察で動き回っているんだ。それに一カ所に定住していたら、すぐ発見され、ズドンだ」
私はちょっとカンにさわった。
「そりゃそうですよね」
鈴木君はあっけらかんとした顔だ。だが次の質間は、私の急所に触れた。
「小銃の弾丸はあといくつ残ってるんですか。どこに置いてあるんですか?」
「余計なこと聞くな!」
まったく大胆なことを聞く男だ。弾丸の数は私にとって最高機密だ。
三時間ほどの間に、私は生まれ故郷の和歌山のこと、鈴木君が最近の日本の世相や、鳥の住民が私を「山の王様」「山ネコ」と呼んで恐れていることなど、いろんな話をした。
私はまだ確かめねばならないことが残っていた。徹夜しなければならないが、やむをえない。
テントに入らず、大地にあぐらをかいた。
「では、今晩はゆっくり飲み明かしましょう」
彼はジンのびんを持ち、紙のコップを差し出した。
「オレは酒は飲めないんだ。戦前、中国で商社員やってたころさんざん練習したんだが」
彼は「残念だなあ」と一人で飲み始め、「小野田さんは甘党ですか」と豆の缶詰を開けた。
私は彼が先に口にするのを待った。毒殺を警戒したからだ。私の疑いには頓着(とんちゃく)なく彼は食べ始めた。私も豆をひとさじ、口に含んだ。三十年ぶりの祖国の味だった。
■戦争を続けているのに「戦前の日本人に会いたい」
「ところで、君が島へきた本当の目的は?」
「小野田さんに会うためですよ。ボクは戦後生まれだけど、いまの日本と戦前では人間まで変わってしまっているんですよね。新聞で見て本当に陸軍の将校さんが残っているなら、戦前の日本人の考え方を生で聞いてみたい……と」
なんだかわけのわからない話である。
「オレは民主主義者だよ。いや、自由主義者の方がいいな。だから兵隊になる前は中国で随分勝手気ままに遊んだものだ」
「小野田さんは英雄です」と、彼はだし抜けにいった。私は当惑し「英雄とは文武両道に秀でた男をいう」と辞書のような解釈を持ち出し、「オレは英雄じゃない。軍人として与えられた任務をただ忠実に遂行しているだけだ」と説明した。
「一億玉砕、百年戦争を叫んで日本は戦争に突入した。でも現実は、二発の原爆で無条件降伏です。小野田さんは当然のことをしていると簡単にいうけど、ほかの日本人はあっさり手を上げてしまったんですよ。やっぱり英雄だと思うな」
彼と英雄論議をやっても、らちのあく話ではないので、私は話題を変えた。
「日本人はみんなメシを食えているのか。貧乏して苦労しているんじゃないのか?」
私にはどうしても確かめたいことがある。それは祖国のことである。
捜索隊が残した新聞や敵から奪取したトランジスタ・ラジオの日本語短波放送で、私はおおよその祖国の現状は察知していた。私の情勢分析では日本本土は米軍に占領され、カイライ政権がつくられている。しかし、本当の日本政府は満州“現中国東北部”のどこかに存在しているはずだった。
■日本からの捜索隊を米軍の謀略だと思い込み…
ルバング島は、フィリピンの首都マニラから南へ約百六十キロ。北緯一四度、東経一二〇度、南シナ海に浮かぶ南北二十七キロ、東西十キロの小さな孤島である。マニラまでプロペラ機で飛んでもわずか三十分、日米の激戦地になったバターン半島ののど元にあいくちを突きつけるように位置している。真北には、あのマッカーサー米軍司令官が「アイ・シャル・リターン」の言葉を残して脱出、再上陸したコレヒドール島の砂浜が見える。
島の北側はフィリピン空軍の飛行場、一万数千人の住民が住むニッパヤシの家の集落があるが、南はゴンチン山系の険しい密林が断崖(だんがい)の海岸線に落ち込んでいる。
私は情報が隔絶されたこの島で三十年近く、祖国の敗戦を信じず「残置諜者」として戦ってきた。
私は日本の現状をまったく知らなかったわけではない。
約三十年の間に九十三回の討伐(フィリピン空軍の記録では百三十三回だった)を受け、二十七年間、行動を共にした小塚金七一等兵が戦死してからは、大掛かりな「救出捜索」という名の“討伐隊”がやってきた。彼らが残した日本の新聞や雑誌から、おおよその日本の状況はつかんでいた。
しかし、私はこれらを米軍が日本兵をおびき出すために新聞、雑誌を巧妙に改ざんした謀略、宣伝工作だ、と信じて疑わなかった。
いまになってみれば、情報将校としてお恥ずかしい限りの現状誤認である。私に弁解の余地はないが、歴史の偶然は、当時の私の情勢分析通りに進んでいったのである。
■「満州から徹底抗戦する」同時期に朝鮮戦争が勃発
昭和十九年十二月、私は比島(フィリピン)方面軍司令部から「ルバング島で遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」という赴任命令を受けたとき、参謀部に呼ばれ今後の戦局推移の説明を受けた。
「盟邦ドイツの降伏は時間の問題だろう。戦況はわが軍にますます不利だ。サイパンが陥落し、海軍はレイテ沖海戦で壊滅的打撃を被った。米軍は今後まず沖縄上陸作戦を敢行。九州・大隅半島に上がり、浜松を拠点化、九十九里浜上陸を目指す。本土決戦は必至である。最悪の場合、米軍による日本本土占領もありうる。その場合、日本政府は満州(現中国東北部)に転進、関東軍を中心に徹底抗戦を図る。大陸には陸軍八十万人の兵力が温存されている。反撃攻勢の時期は三年ないし五年後と想定される」
五年半後の昭和二十五年六月、朝鮮戦争がぼっ発した。マニラ湾の米艦艇、空軍基地の動きが急に慌ただしくなった。西風の日、海岸に機帆船の残がいが漂着した。日本船籍を示す「○○丸」の字が読みとれた。私はついに日本が大陸から反攻に転じた、と判断した。
私の状況判断を決定的に誤らせる歴史の偶然は、まだ続く。
■ベトナム戦争を「日本軍による反撃が始まった」と…
三年ほどでマニラ湾米海軍基地の激しい動きが止まった。参謀部の最悪の想定通り、米軍は「日本本土占領」を完了したに違いない。祖国はどうなっているのだろう? 長い静かな時が流れた。
昭和四十年冬の朝、突如、東の水平線から三機編隊の白い飛行機雲が垂直に上昇すると、島の真上を長い尾を引いて飛び、南シナ海西の水平線に消えていった。米軍の大型爆撃機だ。
朝六時と夕方六時、連日、定期便のような飛行が目撃された。七個編隊から九個編隊、多いときは十七個編隊五十一機という日もあった。
どうやらルバング島のレーダーサイトをチェックポイントにして飛んでいる。方角、往復の飛行時間から計算して仏印(フランス領インドシナ=現ラオス、ベトナム、カンボジア)だ。
米軍がこれほどの戦力を投入するからには「仏印方面で日本軍が再度、猛反撃に出たのだ」と私は確信した。これがベトナム戦争の北爆とは、当時の私が知るはずもなかった。
戦争が継続している証拠が、もう一つあった。
■そもそも「任務解除命令」が届いていない
日本人まで動員して「戦争は終わった」と呼びかけながら、なぜ師団司令部から「停戦命令」「任務解除命令」が届かないのか。もし、帝国陸軍が満州で新国軍に再編成されていても、兵籍簿、命令系統は引き継がれているはずだ。私の任務はまだ解かれていない、と判断した。
参謀部から聞かされた今後の戦局推移をもとに、私なりに日本の現状を推論すると、日本本土には米占領軍のカイライ政権が誕生、アメリカ式民主主義に衣替えしたようだ。だが、あくまで大東亜共栄圏確立を目指す真の日本政府は満州に樹立され、戦争を続行している。
大陸の日本新政府は、毛沢東の中共(中国共産党)軍と相いれない蒋介石政権と軍事同盟を結び共同戦線を張っている。満州国、ジャワ、スマトラなどが同盟国で、インドもチャンドラ・ボースが首相になって独立を果たし、友好国になっているかもしれない。
■30年間で百件ほどの死傷事件を起こしていた
私は陸軍中野学校で「大東亜共栄圏完成には百年戦争が必要だ」と教え込まれてきた。陸軍参謀本部内の一部には開戦当初から「これは勝てる戦争ではない」という見方もあった。
勝てない戦争なら、負けないように戦えばいい。アメリカは民主主義の国だ。戦争がいつ果てるともない泥沼状態と化し、兵が死に、国民生活が疲弊すれば、アメリカ世論は反戦、厭戦(えんせん)に傾く。
日本はそれを計算し、降伏でなく条件講和に持ち込む戦略だ、と考えていた。
いま思えば、見当はずれの推論である。しかし、私はそれを信じ1人で戦争を続けていた。
後の昭和四十九年三月、上官・谷口義美少佐の命令を受けて私が投降したとき、隊長のアサンサ少佐に『大統領命令で取り調べは禁止されているが』と、未解決凶悪事件のリストを見せられた。百件ほどの死傷事件(※)が並んでいた。
※小野田さんは1974(昭和49)年3月、谷口少佐からの命令で任務解除を認識、マルコス政権下のフィリピン軍に身柄を拘束され、日本政府に引き渡された。当時のマルコス大統領は「オノダの過去のすべてを赦す」と恩赦を与え、小野田さんが起こした刑事事件を不問としている。
いささか余談になるが、何年か前、ある講演会で「私は本当にそう信じ込んでいたので、いまだに日本の政府が、アメリカのカイライ政権に見えて仕方がないんです」といったら、爆笑とともに拍手をもらった。
■今や経済大国になっているなんて信じられない
星が降るような夜空だった。ルバング島の二月の夜は、肌寒いほど冷え込んでいた。時刻はもう真夜中を過ぎているだろう。
私は日本の現状について、質問をつぎつぎと鈴木紀夫君にぶつけてみた。
彼の答えは私が、捜索隊の置いていった新聞や雑誌、敵から奪取したトランジスタ・ラジオで知り得た知識から一歩も出るものではなかった。
(本当のところはどうなんだ。日本本土は米占領軍のカイライ政権下にあり、真の日本政府は満州で健在なんだろう?)
だが、敵か味方かわからないこの青年に、単刀直入に真相を質(ただ)すわけにはいかなかった。
「小野田さんはどうも納得してないようだけど、ボクの話で、日本は敗れたとはいえ、いまは立派に復興して世界有数の経済大国になっている事実がわかってくれたでしょう」
私は冷たくいった。「ああ、君の話は実につじつまが合っている。オレの持ち合わせの知識では論破できない。しかし、世の中には小説というものがあるからな。君の今晩の話は、よく出来た『小説・日本敗戦記』として承っておくとしよう」
鈴木君は「あーあ、バカらしい。もう話すことはない」といって仰向けにひっくり返り、ジンの酔いも手伝ってか眠り込んでしまった。
夜が明け始めた。
■ついに私への命令書が届く
鈴木紀夫君と別れてほぼ二週間がたっていた。
私はフィリピン空軍レーダー基地を偵察するため「ヘビ山」に登った。「あてにしないで待ってるよ」と彼にいった通り、期待するものは何もなかった。
近くのヤシ林の方向で住民の声が聞こえ、捜索隊が設けた連絡箱があるのを、ふと思い出した。
(敵の手の内でも見ておくか)
箱にビニール袋が貼(は)りつけてあった。あのとき鈴木君が撮った私の写真が二枚入っていた。
見た瞬間、あれ、二人の叔父に似ている、と思った。私はこの三十年近く、川に映る自分の顔しか見ていなかった。
手紙が入っていた。
少佐の「命令は口達す」という文書もあった。「口達す」――これこそ私が長い間待っていたものだ。諜報など特殊任務要員には命令書のほかに、直接、本人に口頭で命令を伝えることになっている。その役目で谷口少佐がきたらしい。
■「命令を下達する」。そして…
「和歌山ポイント」まで二日かかった。
(敵のワナの可能性もある)
私は包囲された場合の突破作戦を考え、日没まで警戒した。
日が落ちた。一気にテントに接近した。外に洗濯物を取り入れている鈴木君の後ろ姿が見えた。
「小野田さんだッ、小野田さんだ。谷口さん、小野田少尉です!」
「おお、小野田君か。いま出て行く」
少佐が姿を現した。
「小野田少尉、命令受領にまいりました」
私は不動の姿勢をとった。
少佐は菊のご紋入りのたばこを差し出した。
「命令を下達する」。少佐は最初、山下奉文大将名の「尚武集団命令」を淡々と読んだあと、「参謀部別班命令」に移った。
一、大命ニ依り尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ停止セリ
二、参謀部別班ハ尚武作命甲第二〇〇三号ニ依リ全任務ヲ解除サル
三、参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ 已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍卜連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ
第十四方面軍参謀部別班長 谷口 義美」
少佐は、少し間をおいて「終わり」と告げた。
私は次の言葉を待った。少佐は何もいわず、ゆっくりと命令書をたたんだ。
昭和四十九年三月九日、私の三十年戦争は終わった。強風を必死で雨戸で押さえていて不意に風がやんだため、突然、体ごと外に放り出された――ちょうどそんな感じだった。
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旧日本軍将校
1922年、和歌山県亀川村(現:海南市)生まれ。1939年、旧制中学校卒業後、商社員として「田島洋行」漢口(現:武漢)支店勤務。1942年、和歌山歩兵第61連隊に入隊、陸軍中野学校二俣分校などを経て、1944年12月、比島派遣軍司令部参謀部付としてフィリンピンに派遣される。ルバング島で遊撃指揮・残置諜者の任務を与えられて以降30年間、任務解除の命令を受けられないまま戦闘を続行。1974年3月、作戦任務解除命令を受け、日本に帰還。その後ブラジルに移住、ルバング島の経験を生かした青少年育成のための財団法人『小野田自然塾』を設立している。
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(旧日本軍将校 小野田 寛郎)
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