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「NHKより早くテレビへ進出」日本テレビと読売新聞を作った正力松太郎のすごい眼力

プレジデントオンライン / 2021年10月31日 10時15分

正力松太郎〔写真=『アサヒグラフ』1955年3月16日号(朝日新聞社)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons〕

読売新聞社や日本テレビ放送網などの社長を務めた正力松太郎は、「経営者」という枠には収まらない人物だ。作家の福田和也さんは「昭和という時代を代表する人物だった」という――。

※本稿は、福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)の一部を再編集したものです。

■さまざまな人生を生きた正力松太郎

正力松太郎――。彼は、一体、いくつの人生を生きたのだろうか……。

治安維持に奔走し、社会主義者を容赦なく弾圧した内務官僚。

倒産寸前の新聞社を、日本一にした経営者。

日本にベースボールを定着させた興行師。

戦犯に指定されながら、見事、カムバックした、したたかな世渡り上手。

街頭にテレビを設置したアイデアマン。

原子力の父。

正力は、昭和という時代を代表する人物であり、その「代表」ぶりは、毀誉褒貶(きよほうへん)に塗みれているが、それこそが、正力の面目なのだろう。

■優れた柔道選手から東大法科へ

正力松太郎は、明治十八(一八八五)年四月十一日、富山県の射水郡枇杷首村(現射水市)で、父庄次郎の次男として生まれた。

正力家は、土建を稼業とし、苗字、帯刀が許されていた、いわゆる中農という家格であった。

松太郎は、虚弱な子供だった。当時、ひ弱な子供は、寄宿舎から学校に通うのが通例だったが、庄次郎のやり方は違った。

八キロほどの道程を、毎日、地下足袋で歩かせたのである。

勉強をするよりも、とにかく体を鍛えろという父の教えに従った松太郎は、健康になった。

もっとも、卒業の席次は、ビリから四番目だったけれど……。

それでも、北陸の名門、第四高校に、そのまま進めたというのだから、暢気な時代である。当時、第四高校では、西田幾多郎が倫理学を講じていた。

正力は柔道の選手としては、極めて優れた評価を受けていた。

無段ながら、第三高校の大将を倒したのだ。

第四高校卒業後、正力は東京帝大法科大学の独法科に進学した。

しかし、大学のキャンパスよりも、講道館にいる時間の方が長かった。

■最初のキャリアは警視庁

大学の同級生には、重光葵、芦田均、石坂泰三がいた。正力は、同郷の先輩の南弘――内閣書記官長、逓信大臣、台湾総督――に見込まれて、高等文官試験に合格し、警視庁に入ることになった。

警部の辞令を受けとったのは、大正二年六月。二十八歳の時だった。

翌年の六月、正力は、警視に任官し、日本橋堀留署長に任じられた。

問屋街や、蛎殻町の相場屋、人形町の盛り場を抱える、殷賑(いんしん)な地域である。

「成金」の代表格として、有名な鈴久こと、相場師の鈴木久五郎などは、客をもてなすのに、丸裸の芸者に給仕をさせた、という伝説が残っている。

富商が軒を連ねる街は治安も悪く、詐欺恐喝が横行していたが、被害者は後難を怖れて、泣き寝入りするしかなかった。

正力は憤った。

「悪党に手がでない、そんなことがあるか」

厄介なのは、刑事たちが、悪党と結託していることだった。

刑事たちは、彼らから小遣いをもらい饗応を受ける見返りに、情報を流していたのである。

正力は、刑事たちを集めて訓示をした。

「今までのことは、水に流そう。私も忘れるし、君たちも忘れてくれ。今後、諸君が、身命をかけて任務に精励することを、私は信じている」

整列する日本の警官
写真=iStock.com/akiyoko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/akiyoko

■騒動に巻き込まれ大けが

大正七年七月二十二日。富山県下新川郡魚津町の主婦たちが、救助を求め騒動を起こした。

不漁の上、米価が騰貴していた。

大阪毎日と大阪朝日が、この騒動を報じたため、たちまち一道三府三十二県にひろがった。

一方、東京の日比谷公園では、米価問題市民大会が開催されようとしていた。

主催者も責任者もいない、無届集会だった。

警視庁は各署から五百人の警官を動員したが、手がつけられず、暴動となった。

日本橋久松署から、米穀取引所が襲撃を受けている、という報告が届いた。

正力が夜八時、現場にかけつけると、群衆は取引所を包囲して投石していた。

正力は、頭左部に大きな石をぶつけられ負傷した。

長さ、六、七センチ、骨膜に達する重傷だった。

正力の血まみれの姿を見て、群衆は静まりかえった。

警官隊は、その隙に、暴徒を一網打尽にして、検挙してしまった。

東京では、浅草吉原の襲撃をもって騒動は、鎮静していった。

井上清、渡部徹編の『米騒動の研究』は、実に百万人前後の人々が、騒擾(そうじょう)に参加した、と記している。

大正デモクラシーのさなかに起きた大騒擾事件は、山縣有朋を筆頭とする元勲たちにも、激しいショックを与えた。

■「虎ノ門事件」の責任を取らされ官界を辞す

大正十二年十二月二十七日。午前十時四十分。御病気の大正天皇の名代として、摂政裕仁殿下は、第四十八帝国議会開院式に御出席のため、侍従長の入江為守と共に、お召自動車で赤坂離宮を出発し、虎ノ門にさしかかった。

当時は、戦後のような厳しい警備はなく、警官や憲兵も、ごく少なかった。

お召自動車が芝区琴平町の家具商「あめりか屋」にさしかかると、拝観者に交じって不審な動きをした青年がいた。

青年は素早く警戒線を破り、仕込み銃を構えて、摂政に向けて発砲した。

右側のガラス窓に大きな亀裂が入り、車中に弾丸が散乱した。摂政は無事だったが、入江侍従長は、顔に小さな傷を負った。

狙撃した青年、難波大助は、「革命万歳」を叫びつつ、走っているところを警官と憲兵にとり押さえられた。

政府の対応は、早かった。山本権兵衛内閣は、その日のうちに辞表を提出した。摂政から留任するようにとの優諚(ゆうじょう)があったが、辞退して総辞職を決行した。

世に言う、虎ノ門事件である。警察の責任者として免官処分を受けたのは、警視総監湯浅倉平、警視庁警務部長正力松太郎だった。

かくして、正力松太郎の官界生活は、終わりをつげた。順調にいけば、次は県知事に就任するはずだった正力は、官界を去らざるを得なくなったのである。

■10万円で読売新聞を買い取る

案外早く、正力はカムバックの機会を得た。

神楽坂署長時代に懇意にしていた千葉博己が正力を訪ねてきたのである。千葉はいきなり、正力にこう言った。

「あんたは、もう官界には戻れまい。奮起一番、新聞をやらんか。あんたならできるぞ」

たしかに、もう官吏にはなれないだろう。それなら新聞をやるのも面白いのではないか……と正力も考えた。

正力は、伊豆長岡の後藤新平を訪ねた。

あいにく、後藤は西園寺公望の興津(静岡県)の別荘に赴いていたが、夕方近くになり、帰ってきた。

「何しに来たんだ!」「早急に、金が十万円ほど必要なんです」「何に使うんだ」後藤はそっけない。

「売りに出ている読売新聞を買おうと思いまして……」後藤はニンマリと笑ってみせた。

読売新聞東京本社
写真=時事通信フォト
2010年9月7日、建て替えのため、旧日産本社ビルに社屋を仮移転した読売新聞東京本社(東京都中央区銀座) - 写真=時事通信フォト

「分かった、十万円は引き受けた。二週間後に取りに来い」

当時の十万円といえば、資産家でも躊躇する額である。

「新聞経営は、難しいと聞いている。失敗したら未練を残すな。その金は返さないでいい。そのつもりで新聞に打ち込め」後藤は言った。

■朝日や毎日が戦艦なら、さしずめ読売は木造船

正力が、読売新聞を買った大正十三年頃、発行部数は四万部で、東京の新聞社としては、三流に位置していた。

正力は、社内で信望の厚い千葉亀雄を社会部長から編集局長に昇格させた。

一方、社務を統轄する総務局長には、警視庁特高課長だった小林光政、販売部長には、警視庁捜査課長の武藤哲哉、庶務部長に警視庁警部の庄田良を配し、営業局長には、新聞界に通じた毎日通信社長の桜井貢を抜擢した。

経営の現場に立つと驚くばかりだった。

崩壊の瀬戸際だというのに、社員の前借、車賃、接待費などが、際限なく蕩尽(とうじん)されていたのである。

後年、正力は、当時の状況をふりかえって、こう語っている。

「たとえば朝日や毎日が戦艦なら、さしずめこちらは木造船である。木造船で軍艦に手向かえば、こっちは自滅する。戦闘には水雷艇でゆくことが先決だ」

■ベーブ・ルースを招聘するために

大正三年三月、大正天皇の即位を記念する東京大正博覧会が催された。上野公園に、軍事から美術までの展示館を並べたもので、観覧者は、約七百五十万人に及んだ。

博覧会の集客力を知った正力は、娯楽的な要素が多い、納涼博覧会を計画した。

無料入場券を配って、景気を煽ることで、読売本紙の新規購読者を獲得しようという目論見である。

読売新聞はこうしたイベントで部数を伸ばしていく。

昭和四年の暮れ方。報知新聞の論説記者、池田林儀が正力を訪ねて来た。

池田は、記者仲間では、国際通という定評を得ている人物だった。

「正力さん、あなたベーブ・ルースを知っていますか」

正力は、高岡中学で野球をしていたことがあった。

「本塁打を一シーズンに、六十本も打っているんですよ。朝日も毎日も、ベーブ・ルースを招聘(しょうへい)したいが、ギャラが高すぎて手がでない。読売が招いたら、面白いんだけれど……」

池田は、言った。

「で、池田君、いったいギャランティはいくらなんだい?」
「二十五万円です」

当時、シボレーの4ドアセダンが、二千五百円であった。莫大なギャラである。

その頃、野球はようやく国民的スポーツの一角を占めるようになっていたが、まだまだ本格的に普及しているとはいえない状況だった。

けれど、ベーブ・ルースが来日すれば、野球人気が沸騰するのは、目に見えていた。

「池田くん、ルースを呼んでくれ。二十五万円といっても、五万ぐらいは値切れるだろう」

正力は、早大野球部の監督を辞したばかりの市岡忠男を、読売の運動部長に抜擢した。

外務省は、率先してルース招聘の道筋をつけた。

険しさを増していた日米関係にとって、またとない機会だと考えたからである。

ニューヨークの総領事、斎藤博から、ハンター監督との交渉経緯が届いた。

「交渉は進んでいます。ギャランティは、ルースが七万円、ルー・ゲーリッグが三万円、他に監督、選手、審判を加え夫人同伴で、二人を含めて総額二十五万円。ただしルースとゲーリッグ以外は二流どころになります」

正力は、叫んだ。「俺は、一流主義だ! 二流は御免被る!」

■「日米野球のポスターで、東京を埋めてしまえ!」

ハンター監督が来日し、正力と見(まみ)えることになった。

「今回の招聘は、日米親善と読売新聞の宣伝以外の目的はない。だから私は一文も儲けようとは思っていない。もしも上手く儲かったなら、全部君たちに進呈しましょう」

正力の言葉にハンターは驚き、「ギャランティは十万円でいい」ということになった。

ベーブ・ルース
日米野球で来日したベーブ・ルース〔写真=『横浜グラフ』(日本国際写真通信社)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons〕

当時、読売の経理は、火の車だった。

読売新聞は、ようやく二十二万部を達成したばかり。

アメリカ・チームの招聘は、紛うことなく、社運が賭けられていた。

正力は宣伝の陣頭にたった。

「日米野球のポスターで、東京を埋めてしまえ!」

結局この興行は大成功となり、東京、大阪、神戸どこへ行っても試合は観客に溢れ、これにより読売新聞は五万部も発行部数を伸ばした。

このキャンペーンの経費は、四万八千円かかったという。

■満州事変がきっかけで夕刊が生まれた

昭和六年九月。満州事変が勃発した。新聞紙面の様相は一変した。

大衆小説や娯楽面、スポーツや催事を通して販路の拡張を進めてきた新聞各紙は、大きな方向転換を余儀なくされた。

事変の勃発以降、速報が新聞の生命線になり、朝日と毎日は、百人を超える記者を前線に送り込んだ。

電送写真や携帯無線機を駆使して、連日紙面を賑わせていた。

その点で読売は、一歩遅れをとっていた。そのハンディを克服するために、正力は、夕刊の発行を決断したのである。

「満州事変を詳しく報道するには、夕刊が必要なのだ。記者諸君は、いい記事を書いてもらいたい。いい紙面を作れば読売は売れる」

満州事変が支那事変に発展した、昭和十二年前後には、販売網の再編を進めつつ、特派員を前線に送りこみ、朝日、毎日に引けをとらない紙面を作りあげていった。

報知新聞や時事新報など、東京系が凋落(ちょうらく)著しいなか、読売は大阪系両紙と対等の競争を展開していた。

■戦犯として逮捕され巣鴨プリズンへ

読売新聞の新社屋が落成したのは、昭和十四年十一月であった。

その年の九月ドイツ軍がポーランド進撃を開始し、第二次世界大戦が勃発している。

工事の進行とともに発行部数も増えていき、昭和十年時の二倍の百二十万部と急増し、業界のトップに君臨することになった。

正力は、厳しい統制時代の渦中にも、全国制覇の野望に燃えていた。

昭和十六年十二月八日。海軍が、真珠湾を攻撃し、太平洋を舞台にした大戦争が勃発した。昭和二十年八月十五日正午。天皇は、ラジオを通じてポツダム宣言の受諾、戦争終結の詔を放送した。

九月二日には、アメリカの戦艦ミズーリ号で重光葵および梅津美治郎両全権により降伏文書の調印が行われた。

十二月二日朝。GHQは、戦争犯罪人の指定を行った。梨本宮守正王を筆頭に、平沼騏一郎、広田弘毅ら重臣、元蔵相の池田成彬、元内務大臣の後藤文夫、そして正力松太郎も、戦犯として逮捕された。

東條英機元首相は、米軍の到来を目前にして、自決を図ったが、心臓を撃ち損ねて死にきれなかった。正力は、巣鴨プリズンに収監された。わずか三畳の部屋で、三十五年ぶりに座禅を組んだ。一日、五時間、坐ったという。

■「今、アメリカでは、テレビジョンが流行っている」

二十二年には釈放されたが、公職から追放され、カムバックには時間がかかった。読売の社屋は出入りが禁止された。怏々(おうおう)とする日々が続く中、日産コンツェルンを築いた鮎川義介が訪ねてきた。

「今、アメリカでは、テレビジョンが流行っている。この仕事は、君にしかできない」

実のところ、正力もテレビについては、深甚な興味を抱いていたのである。

必要な資金は、十億円という莫大なものだった。

しかし、正力は諦めなかった。池田勇人蔵相の肝いりで、三田綱町の蔵相官邸で、テレビに関する懇談会が設けられ、財界、政界からの全面的支持をとりつけた。

昭和二十六年十月、正力は電波監理委員会へ「日本テレビ」の免許を申請。

翌年七月予備免許が交付された。かくして、有楽町の読売新聞社別館に「日本テレビ放送網株式会社創立事務所」の看板が掲げられたのである。

正力の構想に、最も大きな衝撃を受けたのは、NHKだった。

テレビを手がけるのであれば、当然、公共放送たるNHKが先という目論見が完全に破れたのである。

昭和二十八年八月二十八日。日本テレビの開局披露式が行われた。

■テレビを普及させるための突飛なアイデア

吉田茂首相を筆頭とする朝野の名士が、テレビ放送の開始を祝った。とはいえ、テレビの普及率は、けして高くはなかった。

電化製品のなかでも、飛び抜けて高価だったからである。

これでは、なかなかテレビは普及しない……。

そこで正力は、奇抜なアイデアをもちだした。盛り場や街頭に、テレビ受像器を設けたのである。

街頭テレビ
1967年6月、街頭テレビで野球中継に見いる人々(写真=foundin_a_attic/ CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

当時の受像器は、かなり小さいものだったが、それでもテレビの魅力を伝えるには十分だった。

特にプロレスの人気は高く、力道山はたちまち国民的英雄になった。

■原子力発電を日本で広める

正力に、原子力についての知識をもたらしたのは、橋本清之助であった。

橋本は、大政翼賛会周辺の活動家だったが、大戦後、日本原子力産業会議の初代事務局長を務めた人物である。

橋本は正力に対して、アメリカでは原子爆弾で発電しよう、という気運がある、と教えたのだった。正力は、敏感に反応した。

昭和三十四年五月五日。第三回東京国際見本市が開かれていた。

福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)
福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)

見本市の目玉は、実働原子炉UTRだった。

原子炉といいながら、出力は、わずか〇・一ワット。

原子炉を安定的に運転するために出力を抑制していたのであり、実際は百キロワットまでは、問題なく発電できた。

昭和天皇、皇后は、五月十二日に見本市を訪れた。

ドイツ、チェコスロバキア、アメリカなどの特設コーナーを見て回ったあと、天皇は、原子炉を視察した。

天皇は強い興味を抱いたようで、自身で原子炉の周囲に巡らされた柵を取り払い、階段を昇り、炉心部を直接、覗いた。

その後、正力は読売新聞や日本テレビを使った大々的な原発推進キャンペーンを展開し、初代の原子力委員会委員長に就任した。

「国は原子力発電の開発に全力を尽くす。地方自治体は、アイソトープの利用法の開発を手伝っていただきたい」

原子力委員長に就任した直後の発言である。

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福田 和也(ふくだ・かずや)
作家
1960(昭和35)年東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。慶應義塾大学環境情報学部教授。『日本の家郷』『教養としての歴史 日本の近代(上・下)』『人間の器量』『死ぬことを学ぶ』『昭和天皇』『〈新版〉総理の値打ち』等、著書多数。

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(作家 福田 和也)

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