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「必ず独裁と貧困をもたらす」それなのに社会主義に共感する人が多いのはなぜなのか

プレジデントオンライン / 2021年11月21日 12時15分

社会主義体制をとるベネズエラでは、産油国にもかかわらず燃料不足がたびたび発生している。給油を待つトラックやバスの長い車列。(2021年3月4日) - 写真=AP/アフロ

「脱成長」や「反資本主義」を唱える本が最近ベストセラーになっている。哲学者・経済学者の柿埜真吾さんは「脱成長や社会主義の訴えが一部の人に魅力的に響くのは、私たちの文化が長い間親しんできた考え方とうまく調和するためである」という――。(後編/全2回)

※本稿は、柿埜真吾『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

■気象関連災害による死亡者数は激減している

(前編より続く)地球温暖化問題はどうなのか。やはり資本主義は環境を破壊し、ますます被害を拡大させているのではないか。2019年に16歳のスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリ氏が国連のスピーチで述べたように、「〔気候変動により〕多くの人が苦しんでいます。多くの人が死んでいます。私たちは大量絶滅の始まりにいる。それなのに、あなたたちが話しているのは、お金のことと、経済成長がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!」(*1)と言いたくなる方もいることだろう。

だが、やはり事実を見てほしいというしかない。気象関連災害による死者は経済成長とともに大幅に減少してきた。人類はかつて自然と調和した素晴らしい生活を送っていたのに資本主義と経済成長のせいで、自然に復讐(ふくしゅう)されているといった物語は事実に反する。母なる自然は有史以前から人類に全く親切ではなかったのである。

【図表1】世界気象関連災害の死者数の推移
出所=『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』P.22 EMDAT database. 各年代の平均値

20世紀以降の世界全体の気象関連災害による死亡者数は、2010年代が最も少なくなっている(図表1)。死亡率は1920年代から、なんと約99%も減少している。古い時代には報告されていない小規模な災害も少なくないと考えられるので、この数字は実際の低下率をかなり過小評価している。これは経済成長に伴い、人々がより頑丈で安全な家に住むようになり、防災インフラも向上した結果である。

■脱成長こそおとぎ話だ

災害大国である日本は昔から深刻な水害に何度も見舞われてきた国だが、水害の被害額の対GDP比率や死者数は経済成長に伴って高度成長期以降、大幅に低下している(図表2)。経済成長とは、まさに人類の素晴らしいサクセスストーリーである。貧困をなくし、世界を豊かにしてきたのは経済成長であり、経済成長を可能にした資本主義である。経済成長を罵倒したところで温暖化問題は解決しないし、脱成長にすれば自然と調和して人類は幸福に暮らせるというのは全くのおとぎ話というしかない。

【図表2】日本における水害の被害の推移(1875-2019)
出所=『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』P.23

温暖化についてはまだわかっていないことも多いが、気候変動と闘うためにも革新的な資本主義経済が不可欠であることは間違いない。チェルノブイリ原発事故などを想起すれば容易に理解できるように、社会主義体制が温暖化対策に有効である可能性は極めて低い。社会主義体制は経済成長せず、国民を豊かにできないだけでなく、合理的な資源配分メカニズムが欠如しているため、環境にも最悪の影響を与える全くとるところのない体制である。

豊かになることを望み、自由なライフスタイルを楽しみたいと考えるのは人間の自然な本性である。経済成長は誰かが無理やり作り出したものではなく、人間の自由な経済活動を制約しなければ自然に生じてくる結果である。脱成長を強要しようとすれば、政府や共同体が生活に事細かに介入し、何をなすべきか命令する恐ろしい監視社会にならざるを得ない。人間自然な姿を否定すれば、待っているのは全体主義社会である。

■早まって成功の鍵を捨ててはいけない

パニックになる必要はない。冷静に事実を検討すれば、人類のこれまでの歩みは間違っていなかったし、未来は希望に満ちていることがわかるはずである。私たちが唯一恐れるべきことは、根拠のない恐怖に惑わされて、これまで人類の成功の鍵だった資本主義と経済成長を捨ててしまうことである。

コロナ禍や気候変動といった人類の直面している課題を乗り越えるために、今ほど資本主義が必要とされているときはない。早まって資本主義を捨てることは、先人たちの築き上げてきた文明の遺産を捨て去ることである。人類のかけがえのない自由、民主主義、人権は、資本主義文明の産物である。

■社会主義経済は例外なく独裁を生み出す

これまで歴史上に現れた社会主義経済体制は、例外なく個人の自由を認めない最悪の独裁体制を生み出してきたが、これは決して偶然ではない。私的所有権がなく、政府が資源配分を決める社会主義経済では、ロシアの革命家レオン・トロツキーが述べたように、「働かざるもの食うべからずという古い掟は、従わざるもの食うべからずという新しい掟にとってかわられる」ことになる。

ベルリンの壁と見張り台
写真=iStock.com/Frank-Andree
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Frank-Andree

資本主義社会では、どんな理由からにせよ、ある会社がこの本をお読みの読者との取引を拒んだとしても、読者は他の会社と取引できるが、社会主義社会では政府が読者との取引を拒めば、読者は何一つ手に入れることが出来ず、餓死するしかない。

社会主義者は企業家のことをよく「独占資本」などと罵倒するが、社会主義計画経済は、政府という唯一の雇用主しか存在しない究極の独占である。資本主義社会では、ある会社が読者を雇わないと決めても、読者は別の会社を探せばよいが、社会主義社会では政府が読者を決して雇わないことに決めたら、読者は生活手段を完全に失ってしまう。

不当さを訴えようにも、話を聞いてくれる新聞社も弁護士もいないだろう。仮に読者に同情する心ある人がいたとしても、その人もやはり政府に解雇されてしまうだろう。全てのメディアが国営メディアである国に言論の自由などあるはずがない。

■実際の社会主義国の歴史を見れば……

気取った知識人はしばしば物質的問題を軽蔑して見せるが、物質的問題を精神的な問題と切り離すことは不可能である。精神の自由は、個人が自分自身の私的領域を持つことを許されない社会ではありえないのである。

実際の社会主義経済は、私的所有権を部分的に認めたり、市場経済を一部取り入れたりしているので、ここまで徹底してはいないが、歴史的に見て、社会主義の要素が強ければ強いほど、政治体制がますます抑圧的で全体主義的になる傾向は明瞭に見て取れる。レーニン、スターリンのソ連、毛沢東の中国、金王朝の北朝鮮、ポル・ポトのカンボジアといった20世紀の全体主義体制はその最悪の実例である。

■脱成長も社会主義も反動思想である

「21世紀の社会主義」を標榜するチャベス大統領が民主的に政権に就いたベネズエラも、かつては豊かな天然資源に恵まれた民主主義国だったが、今では一人当たり実質GDPは半減し、電気や水道、食料にも事欠き、人口の2割(*2)という驚くべき数の難民を出している独裁国家になり果てている。

前著(『ミルトン・フリードマンの日本経済論』)でも紹介したように、ベネズエラは社会主義化が進むにつれて次第に自由を失い、遂には経済も完全に崩壊するに至っている。現在のベネズエラでは反体制派は食料の配給から排除されており、トロツキーの言葉通りの状況に置かれている。社会主義はいつの時代であれ、常に独裁と貧困をもたらさずにはいないのである。

ところが、悲惨な実績にもかかわらず、脱成長と社会主義には人を惹きつけてやまない魅力がある。一方で、素晴らしい実績にもかかわらず、経済成長や資本主義は誤解され、否定的に評価されがちである。これは一見不可解な現象だが、それほど不思議なことではない。

■近代以前は「自然と調和した素晴らしい社会」だったのか

脱成長や社会主義の訴えが一見すると魅力的に響くのは、私たちの文化が長い間親しんできた考え方とうまく調和するためである。資本主義の下での経済成長が始まったのは人類の歴史全体から見ればごく最近に過ぎない。

人類はその歴史の大半を通じてゼロ成長の閉鎖的な部族社会や封建社会で暮らしてきたし、いつも貪欲や競争を非難し、禁欲的生活を称賛する思想家や宗教家の教えに従ってきた。脱成長と社会主義の思想は、人類が太古から信じてきた教えに極めてよく似ているのである。

だが、近代以前の古き良き社会が自然と調和した素晴らしい社会だったと考えるのは幻想である。近代以前の社会とは血なまぐさい戦争や内部抗争を繰り返す、階級制社会であり、自然と調和してなどおらず、常に自然の猛威にさらされていた。昨日までの恐ろしい世界から、資本主義を発見した人類は経済成長によって抜け出してきたばかりである。

■「脱成長」は新たな「隷従への道」である

厳格な掟や因習に支配された部族社会やあらかじめ特定の思想家が構想した設計図のある社会主義社会や宗教原理主義共同体とは異なり、資本主義社会には予め決まった設計図もなければ定められた運命もない。資本主義社会の将来を決めるのは、多様な考えを持つ人々の民主的討論と自由な挑戦である。人類のサクセスストーリーはもしかするともう終わりなのではないか、これまでの成果は本当に確かなものなのか、時に不安を感じるのは当然である。

柿埜真吾『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP新書)
柿埜真吾『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP新書)

だが、心配することはない。資本主義文明が達成したこれまでの成果は想像もしなかったような素晴らしいものだった。よりよい未来を目指して、資本主義文明のもたらした、開かれた社会への道を引き返すのではなく、さらに進むべきである。

経済成長を放棄したところで、理想的な状態など決して訪れるはずがない。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が提唱するような「脱成長コミュニズム」では、現代の文明を守っていくことは到底できない。かつて、オーストリアの経済思想家フリードリッヒ・ハイエク(1899-1992)は、『隷従への道』(1944年)において、社会主義計画経済は必然的に全体主義体制を招くと警告したが、昨今流行している「脱成長コミュニズム」がもたらすものは、その意図に反して、まさしく新たなる隷従への道に他ならない。

筆者は斎藤氏の本を読んだとき、斎藤氏のご意見には一つとして同意することはできなかった。とはいえ、冷戦終結以来、ほとんどの左派知識人が明確なビジョンを示してこなかった中で、斎藤氏が明確なビジョンを打ち出し、資本主義に挑戦状をたたきつけたことは高く評価できるだろう。『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』は、ある資本主義者による斎藤氏に対する回答である。

(*1)「グレタ・トゥーンベリさん、国連で怒りのスピーチ。『あなたたちの裏切りに気づき始めています』(スピーチ全文)」ハフィントンポスト、安田聡子、2019年9月24日
(*2)国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)による。

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柿埜 真吾(かきの・しんご)
経済学者・思想史家
1987年生まれ。2010年、学習院大学文学部哲学科卒業。12年、学習院大学大学院経済学研究科修士課程修了。13~14年、立教大学兼任講師。20年より高崎経済大学非常勤講師。主な論文に「バーリンの自由論」「戦間期英国の不況に関する論争史」など。著書に『ミルトン・フリードマンの日本経済論』がある。

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(経済学者・思想史家 柿埜 真吾)

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