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25歳で会社を辞めて"人生の夏休み"を取った僕が台湾に行き着いたワケ

プレジデントオンライン / 2021年12月8日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

生きていくためには、望まない仕事でもやらなければいけないのだろうか。フリーライターの神田桂一さんは「私もそう考えて就職したが、続かなかった。会社を辞めて、人生の夏休みを取った結果、私は自分の人生を取り戻すことができた」という――。

※本稿は、神田桂一『台湾対抗文化紀行』(晶文社)の一部を再編集したものです。

■敗北感だけが残った就職活動

2001年、僕はある大学のボンクラ学生だった。授業はロクに出ず、単位も落としまくり、かといって遊びまくるわけでもなく、友だちもいないので合コンにも誘われない、ただ単に、日々をぼんやりと過ごしているスーパー透明な存在であった。

しかし、人並みのキャンパスライフを送れなかった僕にも、三回生になれば、ちゃんと就活の時期だけはリア充と平等に到来する。僕は、はっきりいって就活を最初から放棄していた。半ば就活をバカにしていたし、半ば怖かったのである。

今はどうかわからないが、その当時、就活といえば、自己分析によって自分のやりたいことを発見し、自己アピール、志望動機を作成することが大事だと言われていた。これが僕にはわからなかった。「自己分析って、言われてわざわざするもんなんですか? 毎日が自己分析だと思うんですけど……」というのが偽らざる僕の気持ちだった。

自己分析によって、例えば、洗剤メーカーに就職したいとなる場合の、どういう思考プロセスによってそうなるのか、僕は切実に教えてほしかった。洗剤が死ぬほど好きなんです! という人は恐らく少ないであろうし、マニアな部類に入ると思うのだが。そして僕には、世の中の大半の企業に対しての自己アピールも志望動機もなかったのだ。

大学時代、何もやってこなかった自覚があるので、自分をアピールすることなんてできない。また、洗剤もネジも車も貿易もあまり興味はなかった。僕がエントリーシートを書くと嘘になる。そう、最初からつまずいているも一緒だった。

僕がやりたいことはただひとつ、ものを書いてお金をもらって暮らしていくことだった。でも、どうやったらそうなれるのか、当時の僕にはわからなかった。

自分に圧倒的な自信がなかったので、大手は避け、中小の出版社を受けたが、ダメだった。そして、就職浪人までしてモラトリアム期間を最大限延ばしたが、それも過ぎ去り、僕は自分を偽り、あるメーカーに就職が決まった。敗北感だけが残った。

新大阪から東京へ向かう新幹線の中で、僕は窓の外を見つめながら、大人気なくポロポロと涙を流していた。その日は、23年間、僕を育ててくれた関西から、新卒で勤める会社のある東京への上京の日だった。父親と母親がプラットフォームまで送りに来てくれた。僕は極めて冷静を装って、さよならの挨拶をした。

■上京する新幹線で号泣

しかし、新幹線に乗りしばらく経つと、急にセンチメンタルな気持ちになって、涙があふれてきたのである。自分が望む業界に就職できたわけではなかったので、将来に対する不安も大きかったのだ。

「一体、自分は東京でどうなってしまうのだろう」

そんな気持ちで胸がいっぱいになって、僕は、思いっきり泣いた。何かに心動かされて泣くことなんて生きてきてほとんどなかったのだが、よっぽど不安だったのだろう。もちろん東京に友だちのひとりもいない。しかし、新幹線が小田原を通過したあたりには、やりたい仕事じゃない、何もかもが自分の思い通りにいかない苛立ちを抱えながらも、それでも生きていかないといけないのだから、仕方がないのだからと、無理やり自分を納得させようとした。

東京駅に着く頃には、自己実現なんてバカらしいと開き直り、僕は、なんとか生き延びる狡猾さを身に付けようと努力することを決心していた。もう金輪際自己実現とかは考えまい、社会の歯車になるんだと、ホテルで寝ている頃には思っていたはずだった。

■「お前、俺らとしゃべるのがよっぽど嫌なんだな」

しかし、2004年6月、僕は、新卒で就職した会社に辞表を提出した。僕は営業で落ちこぼれていた。入社から1年経ち、いよいよ追い詰められ、「自分がすべき仕事はこういうことではないのでは?」という考えが頭から離れなくなった。

他にも理由はあった。サラリーマン同士の飲み会に誘われても僕はお酒が飲めないし、まわりには好きな音楽や、演劇のことを語り合える同僚もいない。タバコを吸わない僕は、休憩も満足に取ることもできなかった。ずっとデスクに座っていて気が狂いそうになったときは、よくトイレにこもっていた。

住まいも会社の寮なので、仕事を終えて帰った後も、容赦なく玄関のドアがドンドンと叩かれる。宅飲みに来いという合図だ。一切無視した。土日は、ゴルフの誘い。もちろん一切無視した。ベランダから侵入しようとした先輩社員もいた。

ある日、僕は、会社の先輩から、僕が持っていた、まだそんなに普及していないiPodを差して「それって何?」と聞かれた。僕は、答えるのも面倒くさかったので、「ウォークマンみたいなもんですよ」と答えた。すると先輩は、「お前、俺らとしゃべるのがよっぽど嫌なんだな」と言われた。すべてを見透かされた瞬間だった。

これを機に、僕の会社での居場所はどんどんなくなっていった。日が経つにつれ、朝の満員電車のなかで、貧血で倒れることも多くなった。自分はやりたいこともやらずに無駄なことに労力を費やして何をやっているんだろうか。全部自分のせいとはいえ、これが日本の会社の常識なら、辞めるしかない。そう思い詰めた。

辞表を手にする男性の手元
写真=iStock.com/Yusuke Ide
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

■自分で何かを作って反応をもらう嬉しさ

日本の企業文化のあまりの息苦しさに耐えかね、僕は、吹っ切れた。「ライターになる!」今度こそは逃げないでやり遂げてやる。そう思って、僕は仕事の合間をぬって、ネットで知り合った大学生の男とふたりでミニコミ誌をつくり始めた。その作業が楽しくて、どんどんのめり込んだ。

そのミニコミ誌は、『にやにや笑う』といって、初期『クイックジャパン』に影響された、ニュージャーナリズム的なストリートルポや、出版界の偉人(菊池寛・岩波茂雄・宮武外骨など)の墓参り、その他よくわからないページで構成された、本当に若気の至りのようなものだった。印刷した紙をホッチキスで留めて、サインペンで価格を書いた。完全に手作りのミニコミ誌だった。だが、そんなものでも、全然知らない人たちがブログで取り上げてくれたりした。

僕は、初めて、何かを自分でつくり、その反応をもらう嬉しさを知った。特にこの感想は記憶に残っている。

「斜に構えているようで、直球だ。ふざけているような文体だが、言っている事はこの上なく本気だ(と思う)。本気で遊ぼうとしている人たちの文章だ(と思う)。面白い。何だこれ。悔しい」

まさに僕らがやろうとしていたことだった。これは今現在の僕の文章に対する態度でもある。

■会社を辞めてやりたいことをできる喜びを知る

そうして、僕は、何かに突き動かされるように、会社を辞めた。次の当てはなかった。

上長に辞意を伝えたとき「何を夢見ているんだ。会社で働くっていうのはそんな甘いことじゃないんだよ!」と諭された。ライターになりたいと告白した同僚にはこっぴどくバカにされた。

散々な辞めようだったけれど、運のいいことにある出版社の就職試験に受かって、僕は記者としてのキャリアをスタートさせる。面接にミニコミ誌を持っていったが、「君がこれからやることはこれじゃない。商業誌だから、わかるよね?」と一蹴された。僕は、元気よく「はい!」と返事した。

僕はやっと自分のやりたいことをできている喜びで、日々、浮かれていた。それは夢のような日々だった。その出版社のデスクがカンボジア復興支援のNPO活動を行っていたのだが、ある日「手伝いをしないか」と言われ、誘われるままにカンボジアに行った。それがほぼ初めての海外体験で、僕は旅の醍醐味にすっかり魅せられた。

バックパックを背負って空港を歩く男性
写真=iStock.com/VivianG
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/VivianG

■取り憑かれたように海外放浪へ

年齢は28歳。少し時代遅れのバックパッカーとして、それから休みを見つけてはバックパックを背負って海外放浪の旅に出ることが多くなり、世界そのものを見るようになった。

沢木耕太郎の紀行文学の傑作『深夜特急』を模倣した、芸人・猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク企画がテレビで人気を博していたのは、僕が高校生の頃、1996年のことだ。またその前年に刊行された写真家・小林紀晴の旅行記『アジアン・ジャパニーズ』も話題のベストセラーとなっていたことから、大学生になる頃にはインドやタイに行く人が多かった。しかし僕は、性格的にへそ曲がりで同時代の流行に反発する傾向があったので、その頃はバックパッカーの旅に一切興味がなかった。

そんな自分が、いつの間にか取り憑かれたように、海外放浪に出かけるようになったのだ。

訪れた国はどこも刺激的で、人生について考える上でなんらかの示唆を与えてくれた。当然のことながら、日本社会の一般常識が普遍的なものでもなんでもない、という事実にも気づかされた。そのことによって、自分の思考の自由度が、どんどん広がっていくのを感じた。

その後、僕は、ある芸能事務所の出版部門に転職した。これまでの報道ではなく、カルチャー系の雑誌をやってみたかったからだ。しかし、そこでは、思うように仕事ができなかった。また、僕はもっと長期の旅に出たいと思っていた。しかしこのまま会社にいると、定年までそんなことはできない。絶望的だった。だから僕は、ふたたび会社を辞めてしまった。

■「本当に必要とするものを売って生活することが労働を楽しくする」

退職してしばらくは、誰とも連絡をとらずに、引きこもっていた。そのときにふと思いついたのが、海外放浪の旅に出ることだった。

失うものは何もない、そう思ったら行動に出るのは早かった。僕は、これまで貯まったマイルを使って、フライトのチケットを予約した。オープンチケット1年間。二度目の人生の夏休みは、1年間と区切られた。すぐさま日本を飛び出し、トルコとエジプトを旅した。あえて、パソコンは持っていかなかった。誰とも連絡をとるつもりはなかったからだ。

放浪の旅のときくらい、その旅に浸っていたい。バックパックに入れたのは一冊の本、レイモンド・マンゴー『就職しないで生きるには』。同書は、60年代のアメリカでベトナム反戦運動に参加した著者が、73年、シアトルに〈モンタナ・ブックス〉を開店し、「本当に人々が必要とするものを売って生活することが労働を楽しくする、それが嘘にまみれて生きることへのアンチテーゼだ」と主張して、読者の共感をさらった。

神田桂一『台湾対抗文化紀行』(晶文社)
神田桂一『台湾対抗文化紀行』(晶文社)

他人のルールで働くことに嫌気が差していた僕にとって、このメッセージには響くものがあった。旅に出ることを決定づけてくれた本でもある。旅の途中、もうライターに戻る気も失せていた。何か他の職業について、自由に行きていこう。手に職をつけるのもいいかもしれない。そんなことを思っていた。

しかし、結局僕は2カ月ほどで日本に帰国して、フリーライターになった。やっぱり書きたいものがあったからだ。もう嘘をついて生きるのはやめた。僕は時代遅れのバックパッカーとして、いつか旅のルポルタージュを書きあげようと心に決めた。レイモンド・マンゴーが掲げた「自由」の意味を常に頭の片隅で考えながら。

■日本のボタンの掛け違いを直すヒントは台湾にある

そんな「自由」を僕に実感させてくれたのが台湾だった。台湾の旅を続けているうちに、ふと、僕はパラレルワールドに紛れ込んだような錯覚に陥った。これから何かが始まりそうな旺盛な空気。そこには、なんとなく僕が追い求めている理想があるような気がした。もしかしたら台湾は、日本にとって、かつてそうであったと同時に、そうであったかもしれない未来を体現する国なのではないか。

社会も人間も日本ととてもよく似ている台湾。日本のボタンの掛け違いを正常に戻すヒントは、もしかしたら台湾にあるのかもしれない。そんなことを思いながら、僕は今日も就職をしないで、なんとか自由に、この社会を生きている。

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神田 桂一(かんだ・けいいち)
フリーライター
1978年、大阪生まれ。写真週刊誌『FLASH』記者、『マンスリーよしもとプラス』編集を経て、海外放浪の旅へ。帰国後『ニコニコニュース』編集記者として活動し、のちにフリーランスとなる。。著書に『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(菊池良との共著、宝島社)、『おーい、丼』(ちくま文庫編集部編、ちくま文庫)。マンガ原作に『めぞん文豪』(菊池良との共著、河尻みつる作画、少年画報社。『ヤングキング』連載中)

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(フリーライター 神田 桂一)

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