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難病で寝たきりになった妻のオムツ交換、介助を続けた40歳夫が最期にかけた言葉【2020年BEST5】

プレジデントオンライン / 2022年1月5日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/show999

2020年(1~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。老後部門の第3位は――。(初公開日:2020年11月28日)
23歳で指定難病を発症した妻の病状は次第に悪化。32歳で自力歩行ができなくなり、34歳で飲み込みが困難に。自身の不随意運動によるケガ防止のため24時間の拘束が必要になった。同い年の夫は妻のオムツ交換や食事、入浴の介助などを一人で行った。「妻の容体がコロナ禍で急変した時は不思議と落ち着いていた」と語る理由とは——。
(前編の主な内容)
22歳の時に高校の同窓会で再会したのをきっかけに交際・同棲した九州在住の男性。交際後、相手の女性は脳の一部の神経細胞が失われていく遺伝性・進行性の疾患(指定難病)のハンチントン病と診断された。だが、男性は愛を貫き結婚し、話し合って妊活を決意した——。

■難病だが、障害年金はおりず、医療費の公費負担も得られなかった

(前編からつづく)

相手の女性が指定難病と知りつつ結婚入籍した瀬戸良彦さん(仮名、現在40歳・独身)は27歳になった頃、それまで勤めていた会社を退職し、地元九州で親族が経営する小さな会社へ転職することにした。

妻はハンチントン病という疾病にかかっていたが、2人でよく相談して妊活を決意。念願かなって妊娠したため、妻の介護と生まれてくる子の育児の両立を考え、互いの実家がある故郷に戻り、親族が経営する会社を手伝うことにした。「将来のためにはどちらかの実家へ身を寄せたほうが良いだろう」と思い、妻の希望で瀬戸さんの実家に住むことに決めたのだ。

結果的に、妻は流産してしまったが、瀬戸さんは妻への献身をやめることはなかった。だが、不安な気持ちにさせる出来事が次々に襲いかかってきた。

この頃、瀬戸さんは妻のために障害手帳や障害年金などの手続きを開始。しかし、国民年金に数カ月の未払い期間があったため、障害年金はおりなかった。また、日本では2015年の難病法施行時にハンチントン病は難病に指定されたが、当時はまだ施行前だったため、医療費の公費負担も得られなかった。

■ある日、妻が階段から落ちて気を失っていた

2010年8月、瀬戸さんや瀬戸さんの両親は仕事があるため、日中は妻一人で留守番となる。ある日、瀬戸さんが様子を見に帰宅すると、妻が階段から落ちて気を失っていた。すぐに救急車を呼び、検査を受けたところ、幸いコブ以外に異常はなかった。

瀬戸さん夫婦は帰郷以来、実家の2階で暮らしていた。「もう、階段の昇り降りは危険だ」と考えた瀬戸さんは、“離れ”の建築に着工する。

「今後、『どうなりそうだ』という情報を、建築士の友人に伝え、それを踏まえて設計してもらいました。『母屋と軒先が続いていれば行き来しやすい』など、友人からの意見も取り入れました」

■介護の負担を減らすため「スマートホーム化」を進める

翌年1月、“離れ”が完成。

介護の負担を減らすために、「Google Home Mini」と「Live Smart」の「LS Mini」を導入し、「スマートホーム化」を進める。車イスでの出入りを前提にした玄関。緊急搬送経路の確保。ストレッチャー、棺桶の搬入・搬出が可能な窓。トイレ、洗面台、お風呂、台所も全面バリアフリー。トイレは後にタンクレス化し、身体を支えるひじ掛けと背もたれを設置。手すりは当初は設置せず、進行に併せて脱着できるようにした。

リビングルームにスマートスピーカー
写真=iStock.com/simpson33
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/simpson33

さらに瀬戸さんは、「Google Home Mini」は、ネットだけでなく、服薬時間を知らせるアラームや、起床時にその日の予定を読み上げてもらうなど、スケジュール管理に活用した。

「LS Mini」は、使用しているリモコンを記憶させ、ネットにつなげば、スマートフォンやタブレットで操作ができ、エアコンや扇風機の起動条件を、自分たちの生活リズムや好みの温度に設定することも可能。両機器を連動させれば、音声操作ができるため、いちいちリモコンを探す手間が省ける。

外出時の切り忘れ防止には、「OK、Google。いってきます」と言うとOFF、「OK、Google。ただいま」と言うとONになるよう設定。手が離せない場合や、ケア用手袋をしている最中でも声で操作ができるので、大幅にストレスが軽減できた。

■32歳で自力歩行ができなくなり、34歳で飲み込みが困難に

2012年。32歳になった妻は自力歩行ができなくなり、車イスを購入。それでも瀬戸さんは、妻の体調がいいときには買物や近所の散歩、観光地などへドライブに連れ出した。

そして2014年。飲み込みが困難になったことによる体重減少から、胃ろうを造設することに。

2016年、瀬戸さんは訪問介護を検討するが、相談員から「介護保険を使わないと利用できない」と案内があり、40歳未満の妻(36歳)は利用できないことがわかった。介護ベッドや痰吸引器など、レンタル割引も適用されないため、介護用品は助成制度を活用しながら購入。

2019年、介護支援で訪問介護が利用できることが判り、10月から利用を開始するが、ハンチントン病は症例が少なく、介護・福祉経験が豊富な人でも、実際に対応したことがない人がほとんどだ。

ハンチントン病の不随意運動は、病状が進むにつれて激しくなり、薬を服用しても完全には止めることができないため、24時間拘束しておかないと本人がケガをしてしまう。瀬戸さんは、初めての病院や、新しい訪問介護士には理由を説明し、しっかりとした拘束をお願いしたが、それでも「痛そう」「きつそう」と気を遣われて、拘束を緩められた結果、不随意運動で顔を叩き続けるなどして、妻がケガをしてしまうことが少なくなかった。

■妻のオムツ交換や食事・入浴の介助……なぜ寄り添い続けられたのか?

瀬戸さんは、訪問介護を利用するまで、妻のオムツ交換や食事、入浴の介助などを一人で行ってきた。瀬戸さんの家族は介護に協力的だったが、妻が恥ずかしがるため、様子見以外で家族に妻の介護を手伝ってもらうことはなかった。

瀬戸さんは一連のマンツーマンの介護を、どんな気持ちでしていたのだろうか。

「私は神様ではないので、急いでいるときや虫の居所が悪いときは、妻が不随意運動で私に攻撃してきたら、『邪魔だからやめて!』ときつく言い、冷たく払いのけてしまうこともありました。でもそれが許されないなら、感情を持たないロボットか全てを達観した神様になるしかない。私は、ロボットや神様になるつもりはなく、ただ夫としてできるだけ長く妻の傍らにいたい。それだけでした」

しかしつらいときは何度もあった。どんなに情報を集めても、勉強して知識を深めても、「自分はハンチントン病の患者ではない」。そのため、ふと妻に「僕も同じ病気になれば、君がしてほしいことをわかってあげられるのに」と言ったことがある。すると妻は激しく怒り、「私は最期まであなたのそばにいてあげられないから、あなたに同じ病気になってほしくない!」と言い、自分の病気が確定したとき以上に号泣した。

手を握り寄り添うナース
写真=iStock.com/shapecharge
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/shapecharge

妻の口数が減り、発語が難しくなってくると、妻自身が会話を諦めてしまう場面が増えた。瀬戸さんは、「諦めたら話せなくなるよ!」と叱り、「バターがほしい」の一言に30分以上かけたこともあった。

「妻はつらかったかもしれませんが、妻は本当に言葉が出なくなった後も、必死に喋ろうとする姿勢を崩しませんでした。だから私は、妻に寄り添い続けることができたのです」

■誤嚥防止の手術を受けたため呻き声さえも発することができなくなった

2017年、誤嚥防止のため、気管と食道を分離する永久気管孔の手術を受けたため、呻き声さえも発することができなくなる。それでも瀬戸さんは「横にいていい? いないほうがいい?」と定期的に問いかけ、妻は拒絶しなかったため居続けた。

ところが、気管孔施術以降、瀬戸さんは1年ほど軽い鬱を患った。

「あの頃は家の中が荒れ、ささいなことでイライラしたり、妻の顔を見ているだけで涙が溢れたりしました。私は、肩に力が入り過ぎていたのです」

それを気付かせてくれたのは、前の職場で懇意にしてもらっていた男性の言葉だった。

「病気の奥さんの介護をするらしいけど、どんなふうに付き添うつもり? 真横で一緒に歩くのか、あなたは後ろ歩きになり、奥さんと向き合って歩くのか、奥さんの後ろに回って支えるのか……?」

ずいぶん前に言われたことだが、ようやく腑に落ちたという。

「当時、私は20代半ばで、介護も人生も経験不足だったため、言葉の意味が全くわかりませんでした。しかしこの男性が亡くなり、形見分けの品をいただいたことで、思い出すことができたのです。できなくなることは、受け入れてしまえばいい。いつまでも同じ位置、同じ接し方をすることが必ずしも正解ではない……と。考え方を変えることができて、とても楽になりました」

■「妻が生きた証しと意味を残したい」と献体を思いついた

やがて瀬戸さんは、「妻が生きた証しと意味を残したい」と献体することを思いついた。だが、さっそく最寄りの大学病院に相談したが、本人の意志が確認できないため、断られてしまう。

次に相談したのは「NCNPブレインバンク」(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター内)だった。これは、献体のように身体全体を提供するのではなく、研究対象となる脳組織だけを提供して研究に活かしてもらうものだ。

ハンチントン病も研究対象となっていたため、瀬戸さんは妻と相談し、登録。ただ、提供実績がまだ少なく、死後の組織摘出と保管施設までの搬送手続きを担当医に相談したが、確実に対応してもらえるという確約は得られず、院内会議の議題に上がり、議論が交わされることになった。

■2020年9月12日、妻の容体が急変「不思議と落ち着いていた」

2020年4月、新型コロナによる緊急事態宣言が発出されるまでは、瀬戸さんは妻と月1回は買い物や観光地に出かけていた。

8月、亡くなった息子のお盆の迎え火や送り火、お墓参りは毎年欠かさなかった。

例年9月には、胃ろうに使用している器具の交換を兼ねて、2週間ほど定期入院をしている。

妻の入院中は、病室にラジオを持ち込み、2人でイヤホンを分け合って、地元AMの「GO!GO!ワイド」や、FMの「耳が恋した!」といった番組を聞いた。面会時間が終わると、妻は病室で、瀬戸さんは帰りの車で続きを聞いた。

アナログラジオ
写真=iStock.com/123ducu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/123ducu

入院は14日までの予定だったが、11日に早まって喜んでいたところ、10日の朝に主治医から「昨晩から39度を超える発熱が始まったので、抗生物質の投与を開始した」と電話があり、退院は延期に。

瀬戸さんは、妻がいつ帰ってきてもいいように、部屋の隅々まで掃除し、ベッドのシーツも洗濯して、新しいものに取り替えていた。

10日の午後に病院へ行ったが、安静中のため面会ができず、「解熱方向ではあるので、問題が起きなければ、当初の予定通り14日退院で考えている」という説明を受け、そのまま帰宅。

ところが12日の夕方、妻の容体が急変。「今から蘇生処置を行う」という連絡を受けた。その時、瀬戸さんは不思議と落ち着いていたという。すぐに病院に向かったが、緊急措置のかいなく、妻は帰らぬ人となった。40歳だった。

「駆けつけたとき、彼女は拘束具が外された状態でした。私は彼女の手首をさすりながら『外れても動かなくなって良かったね』と声をかけました。その後、病理解剖などの手続きを行ってから帰宅したのですが、今は解剖結果が届いていないため、彼女はまだ入院しているだけのような感覚が抜けません。おそらくブレインバンクとの兼ね合いで遅れているのだと思いますが、結果が届いたら、彼女の死の全てを受け入れられるような気がします」

10月31日。妻の50日祭(神式。仏式で言う四十九日)が行われた。

瀬戸さんは、なぜここまで妻に寄り添い続けられたのだろうか。

「私は常に、『立場が逆だったら』を考えて行動していました。もしも私が病気だったら、妻が病気を理由にして、私の元から去っていくのは最も恐ろしいことです。だから私は、私を心配する人々が提案してくれた『妻の元を離れる』という選択肢を真っ先に消すことができました。認知度の低い病気だったため、周囲の人に理解されないもどかしさや、日ごと確実に進行する病状に、私の気持ちが追いつかず、鬱になってしまったこともありましたが、私のようにならないためには、説明しなくてもわかってくれる、先回りしてアドバイスしてくれる存在が必要だと思います」

瀬戸さんは、『日本ハンチントン病ネットワーク』に参加し、ハンチントン病の患者や家族を支える活動を開始。

「患者本人と付き添う者が、やりたいことやしてあげたいこと、これから起こりそうなことや気持ちを、紙に書き出しながら擦り合わせると、意外な解決法を見つけることができます。その書き出した物は、病状が進行する度に見直して、『現在はどう思うか』を書き足しながら軌道修正を行うと、お互いが大きく道を違えることが無いのではないかと思います」

11月初旬、瀬戸さんは妻の大好きだったスイカのミニチュアを購入し、妻と息子の仏壇に飾った。

「彼女と過ごした約15年、介護を前提に生活リズムを作ってきたため、急に自由になっても、何をしたらよいのかわかりません。しばらくは、これまで以上に彼女のために時間を使おうと思います」

高齢者の介護も十分とは言えないが、若年層や中年層の介護については、高齢者の介護以上に公的なケアやサポート、情報が不足している。そのうえ、妻は症例が少なく、認知度の低い難病。瀬戸さんの苦労は計り知れない。

シングルケアラーは、周囲の人が介護に理解や関心がないために孤立するケースが少なくないが、瀬戸さんのケースは自身で努力や工夫もしたが、両親の理解もあり、深刻な孤立もなく介護をやり遂げられた好例だと言える。

何よりも、被介護者と介護者が、被介護者自身のゴール(最期)について話し合うところからスタート(入籍時)しているのが印象的だ。誰もができることではないが、被介護者と介護者がタブーなく「死(ゴール)」について話し合うことが、よりよい「生(介護)」につながるのは間違いないだろう。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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