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無名選手だったイチローに、オリックス仰木監督がひとつだけ施した"手直し"の中身

プレジデントオンライン / 2022年1月1日 11時15分

対ロッテ戦でプロ野球史上初のシーズン200本安打を達成、祝福のプレートを掲げファンの声援にこたえるオリックスのイチロー=1994年9月20日、グリーンスタジアム神戸 - 写真=時事通信フォト

プロ2年目のイチローの成績は12安打、打率1割8分8厘。当時は決して目立った存在ではなかった。しかしプロ3年目の1994年、オリックスの仰木彬監督のもとで才能を開花させる。なぜイチローはたった1年でスーパースターに変身したのか。スポーツライターの喜瀬雅則さんは「仰木監督のアイデアがイチローを変えた」という――。

※本稿は、喜瀬雅則『オリックスはなぜ優勝できたのか』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■優勝から遠のいていたオリックスは仰木彬を監督にした

1994年(平成6年)。

オリックス監督就任1年目の仰木は、その前年の3位から2位へと順位を押し上げていた。

近鉄の監督就任は1988年(昭和63年)。その2年目、昭和から平成に元号が変わった1989年にパ・リーグ優勝。近鉄での5年間は、すべてAクラス入りを果たしている。

退任直後から、水面下で監督就任への打診が相次いだといわれている。

その引く手あまたの仰木が、次なる挑戦の場として選んだのが、近鉄のライバルで同じ関西の神戸を本拠地とするオリックス・ブルーウェーブだった。

前身にあたる阪急時代の知将・上田利治のもと、1984年(昭和59年)のリーグ優勝を最後に、オリックスは長く栄光の座から遠ざかっていた。

西武は1985年(昭和60年)からの10年間で、9度のリーグ制覇。その黄金期真っ只中の1989年(平成元年)に、西武を制して優勝したのが仰木近鉄だった。

ちょうど阪急からオリックスへと歴史のバトンが渡った過渡期にあたるその10年間、前身の阪急とオリックスで8度のAクラス入りも、優勝には手が届いていなかったのだ。

近鉄監督の退任から、わずか1年で再び、闘いの場に戻ってきた。

仰木の代名詞でもある“マジシャン”としての手腕を存分に発揮するのは、ここから8年間のオリックス監督時代と断言してもいいだろう。

就任直後、仰木は後に「希代のスーパースター」となる若き日のイチローと出会い、その育成手腕やチームマネジメントの巧みさに、後に大きな注目が集まることにもなる。

その仰木にとって“知恵袋”の存在にあたるのが、新井宏昌だった。

■智将・仰木監督の右腕に選ばれた新井コーチ

新井は仰木の近鉄監督時代、2番打者として活躍した。

1986年(昭和61年)に南海(現ソフトバンク)から近鉄へ移籍。きっかけは、その年に34歳となる新井を、体力的な限界と判断した南海側がトレードを検討していることを聞きつけた当時近鉄コーチの仰木が、球団側に獲得を進言したことにあったという。

移籍翌年の1987年(昭和62年)には打率3割6分6厘で首位打者。さらに1992年(平成4年)には、40歳で通算2000安打を達成している。

その活躍ぶりからも、選手を見抜く“仰木の目”の確かさが分かる。

仰木が近鉄監督を退任した1992年、通算2038安打を放った新井も18年間の現役生活にピリオドを打った。

野球評論家を1年間務めた後、仰木に請われ、オリックスで初めてのコーチ職を務めることになった。

その卓越した技術と打撃理論を、仰木はかねてから高く評価していた。

■新井が監督に強く起用を推薦した選手

現役時代のことだったという。

「新井、ちょっと来てくれ」

仰木に呼ばれると、その場で早速、新外国人候補の映像を見せられた。

「これ、どう思う?」

一介のプレーヤーに、意見を求めたのだ。

1軍打撃コーチへの就任要請を受けた当時、新井は41歳。しかし仰木にとって、若いとか、コーチ経験がないとか、そういった序列や縦社会の理屈など、全く関係ない。

任務は「1軍打撃コーチ」。その重要ポジションを新井一人で務めることになった。指導歴のないコーチ1年目の新井に、打撃部門を完全に任せたというわけだ。

「だから、自分のアイディアとか思いを、最初から出させてもらえたんです」

大きなやりがいを感じていた新井が、仰木に強く推薦した一人の若手選手がいた。

「誰が見ても、この選手はいいと思います。レギュラーで使わない手はないでしょう」

それが、若き日の「鈴木一朗」だった。

■1993年度の成績は打率1割8分8厘だった「鈴木一郎」

プロ3年目を迎えたばかりの20歳。1993年(平成5年)の成績は12安打、打率1割8分8厘。身長180センチ、体重71キロの華奢な外野手で、当時は決して目立った存在でもなかった。

仰木は新井の提案に、すぐにピンときた。

オリックスの監督に就任した直後、仰木は米ハワイで、日本の各球団から若手選手たちが参加、混成チームを結成してプレーする「ウィンターリーグ」を視察していた。

その中に、鈴木がいた。

シュアなバッティング、のびやかな動き、守っても強肩、しかも俊足。その高いポテンシャルには、目を引かれるものがあった。

2月の宮古島キャンプ、さらには3月のオープン戦。仰木は鈴木を使い続けた。

「こいつはええぞ」「今年、最初から使うぞ」

マスコミにも積極的に若きホープの存在をアピールし続けた。

■才能ある野手を売り出すために仰木が行った奇策

「イチローの実力を認めたんです。これはブレークするから使い続ける。仰木さんは、やれると思ったらずっと使うんです」

イチロー抜擢の経緯を、仰木の傍らで見続けてきた横田昭作(現オリックス球団本部長補佐兼国際渉外部長)は当時、広報部の一員だった。

仰木は、その若きレギュラー候補を全面的に売り出すために、奇抜なアイディアを繰り出してきた。

「鈴木、では目立たんやろ?」

仰木がひらめいたというプランは「イチロー」というカタカナでの登録だった。

横田も「面白いアイディアだなと思いました」と即座に賛同した。

ただ「一人だけだったら違和感があるじゃないですか。そこを配慮したんでしょうね。仰木さんがうまかったのは、そこですよ」と横田は振り返る。

確かに「イチロー」という前例のないカタカナ登録とはいっても、まだ実績のない、無名の鈴木一朗という選手では、ただの物珍しさだけですぐに話題も途切れてしまう。

そこで仰木はもう一人、このプランに組み入れていた。

パンチパーマやユニークな発言で、そのキャラクターが際立ち、仰木が“スポークスマン役”として指名していた、当時5年目の外野手・佐藤和弘だった。

「パンチ」と「イチロー」

2人同時に、登録名をカタカナにする。

すると、メディアの注目は、まず言動が目立つ「パンチ」に向く。

そのついでに「イチロー」も露出する。

そうすれば、活躍して目立ち始めた時に「仰木監督が絶賛していたあの選手だな」と思い出してもらえる。

そうしたマスコミ対応も、仰木にはお手の物だった。

仰木の目論見は、見事なまでに的中した。

それどころか、仰木の想像もはるかに超えた大ブレークを果たし、日本中にイチロー・フィーバーを巻き起こすことになるのだ。

写真=Own work/ CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons
ほっともっとフィールド神戸(写真=Own work/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■仰木の理想とする2番打者像

仰木オリックスの打順は、1番イチロー、2番は当時33歳のベテラン・福良淳一(元オリックス監督、現ゼネラルマネジャー兼編成部長)の並びとなった。

福良は右打ちやバントなど、チームバッティングをそつなくこなせる。

堅実な二塁の守備でも、その年に二塁手連続無失策守備機会836の日本記録を達成するなど、仰木野球には不可欠なプレーヤーの一人だった。

イチローという、打って走れる若きスターとの1・2番コンビ。ただ、その意図を仰木から説明されたことは「一度もなかった」と、福良は笑いながら説明してくれた。

「ホントに、何も言われたことないんだよ。練習でも、ゲームでも、会話という会話、したことなかったと思うよ」

それは、仰木からの信頼の証でもある。

福良なら、イチローの良さや、さらなる能力を、きちんと引き出してくれる。

それは、現役時代の新井に対しても全く同じだった。

仰木は近鉄で、2番・新井の前、1番には大石大二郎(元オリックス監督)を置いた。

大石は、現役時代に4度の盗塁王に輝いた俊足巧打のプレーヤーだ。出塁した大石が相手をかき回し、クリーンアップが大石を本塁へ還す。

その繋ぎ役を、新井に委ねたのだ。しかも新井は、後に名球会プレーヤーになったほどの安打製造機。繋ぎでも、ヒットでのチャンス拡大でも、それこそ何でもできる。

「大石と2人でノーサインでした。それは、プレーヤーとして信頼されていたということなんでしょう」

■1番・イチローと2番・福良が交わしていた約束

仰木は、イチローに対して、出塁したら「いつ走っても構わない」と告げていた。つまり盗塁に関しては、常に「グリーンライト」というわけだ。

そこで福良は、イチローに「走れない時だけ、サインをくれ」と要望した。

塁上のイチローからフラッシュサインが出たら、福良はその時、最初から打って出る。

そのシグナルがなければ、イチローの動きを見ながら、二盗をアシストするために、まずは打たずに、様子を見ながら待つ。同時に相手の守備隊形、捕手の警戒ぶりも確かめ、状況を的確に判断し、自分の動きも決めていかなければならない。

そうした難しい制約のかかった中で、通常のプレーができる選手もなかなかいない。

それでも福良は、仰木1年目の1994年、114試合出場で打率.301をマーク。その時、イチローの打率は.385だから、何とも恐ろしい1、2番コンビでもあった。

「あの時のメンバーは、個々で考えられるというかな、レベルが高かったですよ。スタメンでも、途中から行くメンバーでもね」(福良)

■リーグ2位という躍進を遂げる

当時、仰木の組む打線は「日替わりオーダー」「猫の目打線」と揶揄された。

相手投手との相性、球場、調子によって、前日に本塁打を打った好調な選手ですら、翌日にはスタメンから外すこともあり、周囲を度々驚かせた。

1994年は、1番・イチロー、2番・福良のコンビは130試合中90試合。

イチローが1番を務めたのは110試合あるが、福良以外の20試合での2番打者は6人も使っている。

翌95年、福良は6月に右膝十字靱帯断裂の大怪我を負ったことで、シーズン中盤以降の2番打者は、入れ替わり立ち替わりの8人を起用せざるを得なかった。

仰木が、福良というイチローへの“アシスト役”をいかに重視し、全幅の信頼を置いていたかが、よく分かるだろう。

そうした仰木の大胆な選手起用や巧みな戦略で、オリックスは上位争いを繰り広げた。

イチローの勢いも、とどまるところを知らなかった。

■球団史上最高の観客動員数だった94年のオリックス

1994年6月29日。

オリックスの63試合目は、大阪・日生球場での近鉄戦だった。

この試合でイチローは4安打を放ち、打率を.407とした。

日本球界で、いまだにシーズン打率4割超を達成したプレーヤーはいない。その“未踏のゾーン”に、シーズン半ばの時点で、20歳の若きバッターが足を踏み入れたのだ。

若きスーパースターの誕生に、メディアの取材が殺到した。

広報にとっては、かつてない大反響に、それこそてんてこ舞いの日々だった。当時はまだ携帯電話やメールも普及していない。取材申請は、球団への電話とFAXだった。

遠征先のホテルに届いたメッセージやFAXも、部屋のドアの隙間から入り切らないほどになり、広報の横田の部屋の前には試合後、数センチの束となった取材依頼書がうずたかく積まれていたという。

日本中の注目を浴びる中で、イチローは打ちまくった。

1994年、チームは2位に終わったが、イチローは史上初のシーズン200安打超えとなる210安打を放ち、打率.385で首位打者、パのMVPにも輝いた。

「イチロー」はその年の流行語大賞となり、球団の観客動員も、当時の球団史上最高となる140万7000人をマーク。さらに、日本一に輝いた1996年には179万6000人に伸ばし、これは2021年(令和3年)に至るまで、依然として球団史上最高の数字である。

仰木の演出した“イチロー旋風”が吹き荒れた1年だった。

「本人もさることながら、仰木さんもすごいですよね。あれが『鈴木』というままだったら、どうだったんだろうと思ったりしますよ。イチローは絶対にレギュラーになる、絶対にやる。その確信はあったでしょうけどね」

その横田の指摘は、何とも興味深い。

■「個」を尊重しながら勝利に向かって最善の手を打つ

平成の時代が終わりを告げようとしていた2019年(平成31年)3月。

東京ドームで行われたシアトル・マリナーズの開幕カードを最後に、イチローも28年の現役生活に幕を閉じた。

喜瀬雅則『オリックスはなぜ優勝できたのか』(光文社新書)
喜瀬雅則『オリックスはなぜ優勝できたのか』(光文社新書)

日米通算4367安打、19年の長きにわたってプレーしたメジャーリーグでも「ICHIRO」の名前は定着している。

これが果たして「SUZUKI」なら、どうだったのか。ちょっと想像がつかない。

その「ICHIRO」をメジャーに送り出したのも、仰木だった。

野茂英雄、長谷川滋利、吉井理人、田口壮。

日本球界からメジャーにチャレンジした男たちは、仰木が監督を務めた近鉄、オリックス時代の選手が目立つ。

体全体を大きくひねって投げる、野茂の「トルネード投法」に対し、批判する外野からの声を仰木は一切無視し、コーチ陣にも「触るな」と厳命した。

イチローにも、右足を揺り動かしながらタイミングを取る「振り子打法」に対して、フォームの矯正や手を加えることなど、一切しなかった。

「個」を尊重しながら、その一方で実力をシビアに見極め、勝利という目的に向かって最善の手を打つ。

1995年のオリックスには、その“仰木イズム”に、ぴたりと当てはまる、実力と個性を兼ね備えたタレントが、ずらりと顔を揃えていた。

野手ならイチロー、田口壮、藤井康雄、福良淳一、中嶋聡。

投手なら佐藤義則、野田浩司、星野伸之、長谷川滋利、平井正史。

若手、中堅、ベテランのバランスも良く、チームがうまくかみ合っている。

これなら、優勝できる――。

仰木には、確信があった。

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喜瀬 雅則(きせ・まさのり)
スポーツライター
1967年神戸市生まれ。関西学院大学経済学部卒。90年に産経新聞社入社。94年からサンケイスポーツ大阪本社で野球担当として番記者を歴任。2008年から8年間、産経新聞大阪本社運動部でプロ・アマ野球を担当。産経新聞夕刊連載「独立リーグの現状 その明暗を探る」で11年度ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。17年7月末に産経新聞社を退社。以後は業務委託契約を結ぶ西日本新聞社を中心にプロ野球界の取材を続けている。

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(スポーツライター 喜瀬 雅則)

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