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「子ども家庭庁」は最悪なネーミング…親の無理心中に巻き込まれる子どもが減らないワケ

プレジデントオンライン / 2022年1月6日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Favor_of_God

■「自民党内の保守派に配慮した」という報道も

子ども政策の司令塔として2023年に新設予定の「こども庁」が、ここにきて急に「こども家庭庁」へと名称が変わった。

この議論の座長を務めた加藤勝信衆議院議員によれば、「子どもは家庭を基盤に成長する。家庭の子育てを支えることは子どもの健やかな成長を保障するのに不可欠」と判断したということだが、それはあくまで建前で、実際は自民党内の伝統的家族観を重視する保守派に配慮したからだという報道もある。こっちの説明の方が、個人的にはしっくりときている。

岸田内閣の閣僚も多く加盟している「日本会議国会議員懇談会」と「神道政治連盟(神政連)国会議員懇談会」に名を冠す2つの保守系団体は、夫婦別姓、LGBT法案などとともに「こども庁」に対して後ろ向きだ。

■「家族の価値」を守るために「家庭」をねじ込む

それがよくわかるのが、神政連の機関紙「意」。ここでは最近、「静かなる有事」という特集が組まれ、今回の子ども庁議論にも影響を与えたと報じられる、モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所の高橋史朗氏が《『子ども庁』議論の問題点》を寄稿、以下のような提言をされている。

《国連の委員会に働きかけて対日勧告を出させ、「こども庁」創設、「子ども基本法」制定を企てている人たちの背後で暗躍する「新しい全体主義」者たちの巧妙な文化革命戦略に騙されてはならない》(意 No.215 18ページ)

本稿によれば、「新しい全体主義」とは、フェミニストがつくりだしたジェンダーイデオロギーに基づく「グローバル性革命」だという。これが国連のロビイングで世界に広まって、健全な社会を可能にする「家族の価値」が奪われている、と高橋氏は警鐘を鳴らしておられるのだ。

このような考えの保守系団体から選挙支援を受ける自民党保守系政治家からすれば、「こども庁」創設を白紙にできなかったら、次に目指すべきは「家族の価値」を最大限守ることだ。そこで強引であっても名称に「家庭」をねじ込んだ……と考えればすべてつじつまが合う。

■日本の子どもの精神的幸福度は38カ国中37位

そのように「子ども家庭庁」という、とってつけた感の強い役所名からは、さまざまなオトナの事情が垣間見えるわけだが、では当事者である子どもからすれば、この新名称はどうかというと、「最悪」の一言に尽きる。

日本の子どもたちを100年以上前から苦しめ、時に命まで奪ってきた「子どもは親の所有物なので、第三者が勝手に引き離してはならぬ」という不文律が、これまで以上に強まってしまう恐れがあるからだ。

「日本ほど子どもが大事にされて幸せな国はないし、そんな不文律はない! デタラメを言うな!」と怒りに震える方もいらっしゃると思うが、ユニセフが調べたところ、日本の子どもの精神的幸福度(生活満足度、自殺率)では38カ国中37位(ユニセフ報告書「レポートカード16」先進国の子どもの幸福度をランキング 日本の子どもに関する結果)。

また、そんな国際比較に頼らなくとも、親に虐待され、時に殺される子どもたちが、なぜそのような苦境へ追いつめられていったかという原因を客観的に振り返れば、「子どもは親の所有物」という現実があることは明らかだ。

日本の児童虐待の相談件数は30年間右肩上がりで増え続け、2020年度にはついに20万件を突破。そして当然その中には、親のすさまじい暴力の果てに命を落とすだけではなく、生きることを諦めた親の巻き添いで殺される児童も一定数いる。

第9回児童虐待防止対策に関する関係府省庁連絡会議幹事会に提出された資料によれば、2003年から2016年まで、727人の子どもが虐待で命を奪われ、514人が「心中による虐待死」で亡くなった。14年間で1241人の子どもが、親から所有物のような扱いを受けて、その短い生涯を終えているのだ。

■親からの暴力も愛があれば「しつけ」になる

もちろん、児童虐待は世界中で見られる普遍的な現象なので、日本よりも深刻な児童虐待被害の国もあれば、そうではない国もある。親に殺される子どもの数も桁が違う国もある。

ただ、日本の「虐待で殺される児童」には大きな特徴がある。どんなに本人が「助けて」と訴えても、行政が虐待の事実が確認しても、「やっぱりパパとママと一緒がいいよね」と家庭に送り返して、命を奪われているという点だ。

「子どもの人権」を重視する国では、親が子どもに手を上げただけでも問答無用で逮捕される。行政が虐待の事実を把握しても、親と子どもを躊躇なく引き離すのも一般的だ。しかし、日本では親が子どもをボコボコに殴っても「愛があるので」の一言で「しつけ」になる。

また、行政が虐待の兆候を確認しても、親がちょっとでも後悔や反省の素振りを見せれば、子どもを保護しない。親と子どもを引き離すことを極力避けて、家庭内で児童虐待を解決させようとするのだ。

■虐待する継父の元に引き渡された女児

その最たる例が2018年3月、東京・目黒区で5歳女児が両親からすさまじい虐待を受けて亡くなった事件である。

「もうおねがいゆるしてゆるしてください おねがいします ほんとうにもうおなじことしません ゆるして」

亡くなる前、そんな反省文を書かされていたこの女児は香川県で暮らしていた時から、母の再婚相手である継父から「しつけ」の名目で暴力を受けていた。しかもその事実は、児童相談所もしっかりと把握していた。

深夜に裸足で外を歩いているところを保護された時、女児は「パパにたたかれた」と説明した。医療センターで唇、両膝、腹部などいたるところに傷やアザが確認された時も、女児は「パパ、ママいらん」と泣いた。海外なら即座に保護され、継父は刑務所送りになるケースだが、児童相談所は女児を、加害者である継父と、それを傍観した母親に引き渡して、いずれも書類送検のみで不起訴となっている。

香川で「不問」にされた継父の虐待は、東京へ引っ越してからさらにエスカレートしていく。ダイエットを強要し、時に冷水をぶっかけ、先ほどのような反省文を書かせて、食事を与えないなど心身ともに追いつめたが、東京の児相も香川と似たような対応だった。

■「子供の人権」意識が欠けている日本

やがて女児は寝たきりになり、トイレに行くこともできずオムツをつけた。発見された遺体は痩せこけて、臓器は健康な5歳児と比べて5分の1まで萎縮、死の直前に嘔吐した形跡もあった。彼女に本当に必要だったのは、「家庭」などではなく、「子どもの人権」を何よりも尊重して、命を守るために親と引き離してくれる「子ども行政」だったのである。

では、なぜ日本の児相は、DVやストーカー被害を受けて命からがらシェルターに逃げ込んできた女性を、加害男性に差し出すような対応をしてしまうのかというと、先ほど述べたように、「子どもは親の所有物」という不文律によるところが大きい。

日本では「こども庁」の議論が出てきたことで、ようやく「子どもの人権」というものが真剣に論じられるようになったが、欧州ではフランス革命のあたりから「子どもの権利」や虐待の防止がうたわれ、米国でも1909年にホワイトハウスで第1回全米児童福祉会議が開催された。

絵を描く児童
写真=iStock.com/FatCamera
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/FatCamera

しかし、日本ではなかなかそういう話にならなかった。1933年(昭和8年)に満州国で国際社会の中で孤立が始まり、陸軍が少年航空兵制度を始めたあたりでようやく、児童虐待防止法が制定された。ただ、これも「子どもの人権」という視点ではなく、「子どもはお国の大事な戦力」ということで、戦地に出す前に、親が折檻や人身売買で殺すことを規制するためだ。

■「親権への遠慮」は昭和時代から変わらない

では、なぜ日本では「子どもの人権」という視点が欠如していたのか。1933年に発行された『児童を護る』(児童養護協会)のなかで、東京帝国大学教授の穂積重遠氏はこう分析をしている。

「親が自分の子供のことを始末するのだから、それにどうもあまり立入ることは宜しくあるまいといういふことで、この親権といふものに遠慮していたといふことが、少なくともこの児童虐待防止法といふものが今まで制定されたなかつた一つの理由ではなかったらうか。斯う思ふのであります。(中略)この時計は私の所有物であるといふののと同じやうな意味で、子供は親の所有物だといふやうな意味から、親の権利として親権といふものが認められるやふになつて来たに相違ないのであります。沿革上は確かにさうであります」(『児童を護る』児童養護協会 33ページ)

この「親権への遠慮」が現代日本でも健在であることは、先ほどの5歳女児のような虐待を受ける子どもたちが後を絶たないことがすべて物語っている。児童相談所が、虐待の事実を確認しても、子どもが「助けて」と訴えても、保護をせずに家庭へ送り返すのは、子どもが「親の所有物」だからなのだ。

親子の影
写真=iStock.com/AlexLinch
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AlexLinch

■「親の所有物」という考えが無理心中を生む

この日本独自の人権感覚を象徴しているのが、「こども庁」に「家庭」にねじ込んだ人々の「親が幸せにならないと、子どもも幸せにならない」という主張である。

パッと見、正論のような印象を受けるだろうが、冷静に考えれば、これは子どもを「独立した1人の人間」ではなく、「親の付属品」だと捉えていることに他ならない。このロジックでいけば、親が不幸になったら、子どもも不幸にならなくてはいけないし、親が人生に絶望をして死を選ぶなら、子どもも後を追わないとといけない。「無理心中」で我が子を道連れにする親の頭の中でほとんど変わらない考え方だ。

こういう「子どもは親の所有物」という考えが根強く残るこの国で、子ども行政に「家庭」という概念がねじ込まれることが、子どもたちにとってどれほど「最悪」なことかというのは容易に想像できよう。

■子ども行政に「家庭」がねじ込まれるリスク

2018年の悲劇を受けて、児童相談所も他県からの転居を受けた情報共有体制や、警察との連携を強化している。東京都でも、日本で初めて保護者の体罰を禁止する条例ができるなど、少しずつではあるが、子どもの人権や命を守る動きが進んでいるのだ。しかし、そのようないい流れが一気にひっくりかえってしまう恐れがある。

子ども行政を司どる機関の名称に「家庭」の2文字がねじ込まれるということは、この機関の法的根拠にも「子どもは家庭を基盤に成長する」という理念が明文化されるということだ。公務員というのは基本的に、法令などの範囲でしか動けないので、こういう文言がある限り、どんなに子どもがアザだらけでも、ボコボコに殴られていても、児童相談所は「親権に遠慮」しなくてはいけない。

それはつまり、「パパ、ママいらん」と行政に救いを求めながらも、「家庭」という地獄へ送り返された、あの5歳女児のような犠牲者がこれからも増えていくということでもあるのだ。

■「家庭」という地獄で苦しむ子どもを救えるか

「子どもが家庭を基盤に成長をする」というのは当たり前だ。「子どもは親と一緒にいることこそが幸せ」というのもよくわかる。しかし、世の中はそんな幸せな子どもばかりではない。

たまたま戸籍上は親にはなったが、「親になってはいけなかった人」がたくさんいるからだ。彼らはわが子を「モノ」のように扱って、自分の気分で手を上げる。さらに最悪なのは、自殺するのに道連れにする。昨今話題になった「親ガチャ」ではないが、このような「親になってはいけなかった人」のもとで生を受け、「家庭」という名の地獄で苦しむ子どもたちにこそ、「子ども行政」は必要なのである。

そんな役所の名称に「家庭」を強引にねじ込む。そういう日本の政治家の旧態依然とした人権感覚が、年間20万件の児童虐待相談件数と、「子どもの精神的幸福度38カ国中37位」という今につながったと言っても過言ではない。

創設まではまだ時間がある。自民党議員の皆さんは、ぜひもう一度、この役所が、自分たちの支持団体のためではなく、子どもたちのためにあるということを再認識していただきたい。

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窪田 順生(くぼた・まさき)
ノンフィクションライター
1974年生。テレビ情報番組制作、週刊誌記者、新聞記者等を経て現職。報道対策アドバイザーとしても活動。数多くの広報コンサルティングや取材対応トレーニングを行っている。著書に『スピンドクター“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術』(講談社α文庫)、『14階段――検証 新潟少女9年2カ月監禁事件』(小学館)など。

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(ノンフィクションライター 窪田 順生)

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