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「なぜ日本はフィギュアスケート強豪国に変われたのか」トッププロが指摘する2つの理由

プレジデントオンライン / 2022年1月18日 19時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AlexandrBognat

欧米でさかんなフィギュアスケートは、文化が根付いていない日本には不利な競技とされてきた。だが近年、オリンピックで日本人選手が相次いでメダルを獲得するなど、状況は一変している。なぜ日本は強くなったのか。プロフィギュアスケーターの佐藤有香さんが解説する――。

■実は日本人は「恵まれた骨格」を持っている

私が女子シングルの選手だった80年代から現在にかけて、日本でフィギュアスケートが根付き、多くの方に愛されるスポーツになっていったことはとても嬉しく思っています。日本選手が世界の舞台で対等に戦えるようになった理由は「日本人のポテンシャル」と「日本のフィギュアスケートの流れ」の中にあると考えます。

「日本人のポテンシャル」のひとつとして「恵まれた骨格」があります。フィギュアスケートは氷の上でスピン、ステップ、ジャンプ等の要素を行う競技。その中で重要なのは「骨格が小さく、細身でコンパクトに回転できること」ではないでしょうか。得点が高いジャンプでは回転の際に軸が安定していて小さい方が跳びやすいですし、回転速度も速く跳べます。スピンも、大きな筋肉がついてしまうと柔軟性に欠けてしまうため、男性でも華奢な方が取り組みやすいのです。

一方で、アイスダンスやペアスケーティングなどのペア競技では、男性が相手を持ち上げるリフト等の技もあるため、体格が大きく筋肉がついている方が有利といえます。そのため、日本人がペア競技で世界と対等に戦うには、まず筋肉をつけることから始めることになります。

もうひとつは「努力をし続けられるメンタリティ」です。私は現役を引退してからアメリカに拠点を置いているのでより如実に感じますが、日本人の真面目で努力ができるというメンタリティは、地道なトレーニングが必要なフィギュアスケートにおいては有利に働きます。

■「欧米出身のジャッジ」にアピールしなければならない

こういった日本人のポテンシャルがある一方で、私が現役選手だった80年代~90年代は、フィギュアスケートはまだ「欧米のスポーツ」でした。北米で開催される試合に行っても、欧米の選手たちがコーチ・スポーツドクター・サポーター、そして多くの選手たちから成る大きなチームで出場しているのに対して、日本選手は私一人でポツンとしていたのを記憶しています。今となっては日本選手が出場するのが当たり前という雰囲気で、日本人のファンも多く遠征しますが、当時は全くそんなことはありませんでした。

また、当時の審判員の多くは欧米の方でした。私は試合の度に「どうすれば欧米出身のジャッジに効果的にアピールでき、評価してもらえるか?」を考え、16歳の頃カナダに留学しトレーニングを開始。現地では選曲や振付に対して自分の案を提案しても、「何を考えているの?」と言われることもあり、北米の指導陣や振付師が勧める方針を受け入れることからスタートしたのです。そういった出来事の一つひとつから、評価されるようなプログラム作りや確かな技術を磨いていきました。

■「新人発掘」の1期生だった荒川静香さん

当時はフィギュアスケートというとテレビでの試合の中継も少なく、メディアで大々的に取り上げられることは無かったと思います。

プロフィギュアスケーターの佐藤有香さん(撮影=吉成大輔)
プロフィギュアスケーターの佐藤有香さん(撮影=吉成大輔)

そんな状況でしたが、伊藤みどりさんの89年の日本人として初めての世界選手権優勝、92年のアルベールビル五輪での銀メダル獲得、そして私の94年の世界選手権の優勝後には国際的に一流とされていた欧米のアイスショーが日本でも開催され、ショーやイベントのテレビ放映も一時的に増加しました。また、92年からは日本スケート連盟が新人発掘合宿を開催するようになり、若い実力のある選手の養成も行い始めたのです。その新人発掘合宿の1期生として合宿に参加していたのが、2006年のトリノ五輪で金メダルを獲得した荒川静香さんでした。

荒川静香さんは確かな技術のセンスと技を習得する理解力に秀でている選手。彼女が実力をいかんなく発揮して日本女子初の金メダルを獲得して以降、特徴的な「イナバウアー」もあってかメディアでフィギュアスケートが取り上げられる機会が各段に増えました。そして、2006年に荒川静香さんが引退した後、すぐに頭角をあらわしたのが浅田真央さんです。彼女はただ競技面で強いだけでなく、華のある演技や親しみやすい人柄で多くのファンを獲得したことは皆さんがご存知の通りでしょう。

■2人の登場が日本のフィギュアスケートを変えた

荒川さんの金、浅田さんのシニアデビューは当時のフィギュアスケートの2つの状況を変えました。

ひとつはスポンサーの獲得。彼女らの活躍によって、フィギュアスケート選手にもスポンサーがつくようになったのです。フィギュアスケートは海外の試合への遠征、指導を受ける費用など、莫大なお金がかかる競技。スポンサーがつくことによって有望選手が競技そのものを継続できるようになりました。また、それだけではなく世界の指導者から一流の指導を受けに行くこともできるようになりました。

例えば、浅田真央さんは、現在ネイサン・チェンのコーチをしているラファエル・アルトゥニアン、ロシアの指導の第一人者であるタチアナ・タラソワ、世界的な振付師のローリー・ニコルなどの一流の方々から一流のテクニックを、世界を飛び回りながら教わっています。彼女の才能やセンスは素晴らしいものでしたが、それを花開かせるのはこうして下地を作ることができたからではないでしょうか。

もうひとつの変化は、荒川さんや浅田さんに憧れて「スケートをやってみたい」とスケートリンクに立ち寄る子どもが圧倒的に増えたことです。本来ならば、サッカーや野球、水泳など他のスポーツを始めていたであろう子どもたちがフィギュアスケートを習い始めたことで、身体的能力が高く、スケートの資質がある子どもを集め、有力選手に育て上げることが可能になりました。

スポンサーの獲得、そして、有望な子どもたちがスケートを始めたこと。これらが荒川静香、浅田真央に次ぐ日本のスター発掘につながり、日本をフィギュアスケート大国に押し上げたのです。

■「欧米との文化の壁」を壊したコンテンツの平等性

また、先ほどお話した、「欧米との文化の壁」が低くなってきたことも、日本がフィギュアスケート大国に成長したひとつの理由でしょう。インターネットや電子機器の発達により、世界の人々が同じ文化にアクセスしやすくなり、世界中で同じコンテンツが流行するという状況が当たり前になっています。フィギュアスケートでも伝統的なクラシック音楽だけでなく、映画音楽など、世界中で流行っている選曲が増え、表現できる世界観の幅も広がりました。

佐藤有香『スケートと歩む人生』(KADOKAWA)
佐藤有香『スケートと歩む人生』(KADOKAWA)

また、日本独特の文化が世界でも知られるようになったこともあるかと思います。日本選手が日本独特の文化を選曲や振付に取り入れても観客や審判員は理解、評価しています。

文化の話からは逸れますが、SNSや動画サイトの発達によって、海外の有力選手の技術を選手自身が分析・判断し、自分の技術向上に取り入れることができるようになったことも、フィギュアスケートというスポーツが欧米一辺倒ではなくなった理由なのではないかと思います。フィギュアスケートとは一見関係のなさそうな電子技術の発展が、日本選手が自分の技術や表現を磨くうえで大変役に立ったといえるでしょう。

フィギュアスケートの2021-2022シーズンももう後半戦。こういった背景をふまえて試合をご覧いただければ、選手たちの強さや魅力をより感じられるのではないでしょうか。

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佐藤 有香(さとう・ゆか)
プロフィギュアスケーター
1973年東京都生まれ。フィギュアスケート選手で種目は女子シングル。フィギュアスケートのコーチをしていた佐藤信夫、久美子夫妻の間に生まれ、趣味でスケートを始める。ジュニアの頃から実績を残し、1994年のリレハンメルオリンピックでは5位入賞、同年の世界選手権では優勝し、伊藤みどり以来、日本人二人目の世界女王となった。その後、プロに転向し、プロフィギュア選手権等多くの大会で優勝。表現力に磨きをかけ、プロとしても評価されている。現在は日本国内外の選手のコーチや振付師として活躍中。

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(プロフィギュアスケーター 佐藤 有香)

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