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やがて自民党に吸収されるだけ…国民民主党がまんまとハマった「提案型野党」という毒饅頭

プレジデントオンライン / 2022年4月18日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/coldsnowstorm

国民民主党が、2022年度の政府の予算案に賛成したことが、政界で波紋を広げている。ジャーナリストの尾中香尚里さんは「野党への『批判ばかりで提案がない』という批判を受けて、国民民主党は『提案型野党』と自称している。だが、この手法で成功した野党はない。野党性を失った国民民主党が今後このままの形で存続するのは難しいだろう」という――。

■トリガー条項を条件に予算案に賛成した国民民主党

2月22日に野党・国民民主党が政府の2022年度予算案に賛成した。高騰する原油価格を引き下げる「トリガー条項の凍結解除」を検討するよう岸田文雄首相に取り付けたことが、同党が賛成に回った表向きの理由だ。

もっともトリガー条項の凍結解除は、自民党内では早々に見送りの公算が強まっており、現状では国民民主党が何のために予算案に賛成したのか、よく分からない状況になっている。玉木氏は17日になって「『トリガー』を全くしないという話になったら(与党との)協議から離脱する」と発言したが、後の祭りである。

政界にはそこそこの波紋が広がっているが、筆者には率直に言って「いずれこうなるだろうと思っていた」という印象しかない。

玉木雄一郎代表は2018年の結党以来、自らこそが「野党の盟主」であるかのように振る舞おうとしてきた。かつて政権を担った民主党の後継は自分たちだ、との意識が強かったのだろう。だから、同じ民主党出身者が多くを占める立憲民主党が野党第1党となり、国民民主党との勢力に差がついていくことを認められなかった。

そのため国民民主党は、日本維新の会など「立憲以外の野党との連携」をあれもこれもと模索し「立憲より上の立場」を目指そうとしたが、何一つ奏功しなかった。それどころか、国民民主党の所属議員の多くが今や立憲民主党に移り、かつて国民民主党で政調会長として自分を支えた泉健太氏が、いま立憲の代表になっている。

■野党の「与党化」という禁断の果実に手を出した

こんな状況に玉木氏が耐えられるわけがない。だが、野党の枠組みのなかでは、もうどうやっても「立憲民主党の兄貴分」にはなれない。八方ふさがりとなった玉木氏は、禁断の「与党化」に手を出すほかはなくなった。ただそれだけのことだろう。

この問題は自民党による「野党引き込み戦略」の一環として語られがちだが、筆者はそこにはあまり興味はない。自民党の戦略がどうであろうと、上記の理由から国民民主党がいずれ「与党化」することは容易に想像できたからだ。しかし、そう言ってしまっては身も蓋もないので、ここでは玉木氏を含め、旧民主党出身の議員たちの「世代による野党観の違い」という点から、この問題を振り返ってみたい。

■旧民主党系議員の「第一・第二・第三世代」

何かにつけ「バラバラ」と揶揄(やゆ)されてきた旧民主党系の議員たち。そこには「保守かリベラルか」といった政策的な対立とは別に「当選時期の違いによる対立」があった。政策の違い以上に、政治そのもの、つまり「求める政策をどう実現するか」についての考え方が、当選時期によってかなり違っていたように思えるのだ。

旧民主党系で最年長クラスのいわゆる「第一世代」は、菅直人氏や小沢一郎氏ら、55年体制時代から国政で活動していた世代だ。1990年代の政界再編、つまり非自民の細川連立政権の誕生前後の激しい政治の動きの先頭に立ち、新進党や旧民主党など、新たな小選挙区制度に対応して政権を担うべく誕生した新党の創業者やその側近だ。

これに続く「第二世代」は、細川政権誕生前夜から小選挙区制の導入の前後に国政入りした世代。立憲民主党の枝野幸男前代表、同党の野田佳彦元首相、国民民主党の前原誠司代表代行兼選対委員長らが該当する。3人はいずれも、細川氏が率いた日本新党の出身。新人議員として90年代の政界再編の空気を肌で感じながら、前述した新進党や民主党に結党メンバーとして参加した。

政治スタンスに差はあっても、この第一、第二世代までは「新しい政権を自らの手でつくる」という、ある種の「創業者マインド」を強く保持していた。小選挙区制導入の意義は「政権交代で政治を変える」こと。こうした意識が当然のように身についていた。

第一、第二世代にとって、政権とは「自民党に選挙で勝って奪い取るもの」であり、彼らは総じて「非自民」志向だった。

投票箱に一票を投じる人の手元の背景に日章旗
写真=iStock.com/twinsterphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/twinsterphoto

■政権を選挙で勝ち取る意識の低い「第三世代」

ところが、この下の「第三世代」となると、様相は少し変わってくる。

第三世代とは、1998年に新「民主党」が結党(旧民主党と、前年に解党した新進党の出身議員の多くが合流し結党)した以降に政界入りした世代だ。別々の出身政党から集まって新「民主党」の結党メンバーとなった先輩世代と異なり、初めから民主党の議員として初当選した、という意味で、メディアは彼らを「ネイティブ民主党」などと呼んだ。

第三世代のリーダー格が、民主党政権で閣僚を務めた細野豪志氏や松本剛明氏(ともに2000年初当選)だった。玉木氏は彼らにやや遅れて、民主党が政権を奪取した2009年に初当選した。

父親が自民党政権で閣僚を務めていた松本氏のように、この世代にはその経歴からも、従来なら自民党から立候補した可能性が高い政治家が多くいた。小選挙区制は同一選挙区から同じ政党の人間が1人しか出馬できないため、自民党から出馬できずに民主党を選んだ人もいたし、近い将来の政権交代を見越して民主党を選んだ人もいた。

そんなわけで第三世代には、政治スタンスも上の世代に比べ保守的な議員が多いのだが、それ以上に上の世代と大きく異なっていたのは、政権を「戦って勝ち取る」感覚の薄さだったように思う。

第一、第二世代が当たり前に持っていた「野党として自民党と戦って政権を勝ち取り、目指す政策を実現する」という価値観に、第三世代はあまり重きを置くふうがない。むしろ、政府案への「対案」を策定して与党側に採用されることを良しとしていた。野党でありながら、はなから「与党っぽく」振る舞おうとしていたのだ。

つまり民主党には「自民党政権と対決して選挙で政権を勝ち取ることを目指すベテラン」対「自民党政権と協調してでも政策の実現そのものを目指す中堅・若手」という「野党のあり方」に関する対立軸が、世代対立と重なる形で長く存在していた。

そしてメディアはなぜか、野党ばかりに「世代交代」をせかし続けてきた。第一、第二世代を早々に退かせ、第三世代を野党のリーダーに据えることで「与党にとって都合の良い野党」に作り替えることを、暗に狙っていたのだろう。

そして同党の下野後も、この対立軸は尾を引いている。

■「わが党の政策」のアピールに躍起な国民民主党

さて、冒頭の国民民主党の予算案賛成の話に戻る。筆者が関心を持ったのは、国民民主党の前原氏が、玉木氏の方針に反対の意思を示し、採決で体調不良を理由に欠席したことだ。

前述した世代の分類に従えば、前原氏は第二世代。第二世代の中核として「選挙で自民党に勝ち、非自民政権の首相になる」ことを明確に意識していた政治家の一人だ。

前原氏はしばしば「自民寄り」という見方がなされるが、筆者はやや違うと考えている。前原氏は外交・安全保障のプロとして「外交・安保は政権交代があっても大きく変更すべきでない」という考えに立っているだけで、その大前提である「自民党と政権を争う」スタンスそのものは堅持されている。

前原氏が「希望の党騒動」(2017年)を起こしたのも、日本維新の会との連携を模索しているのも、その是非はさておき、目指したのは「非自民勢力の結集」であり「自民党政権を終わらせ、政権交代を実現する」ことだ。政策が近くとも、自民党と連立を組んだり、自らが自民党入りしたりすることを模索する発想はみられない。「非自民」という最低限の枠を壊す予算案賛成は、前原氏の頭の中には全くなかったと言っていい。

一方の玉木氏は第三世代。「非自民」という志向はもともと薄く、そもそも「野党的な批判的振る舞い」を好まない。「自民党の政策よりわが党の政策が優れている」ことをアピールできれば良いのであり、自民党と戦って勝負をつける発想は薄かった。

玉木氏は、この「第二世代」と自分たちの間に「対決型野党か提案型野党か」という、陳腐なキャッチフレーズで線を引いた。立憲民主党を「対決型野党」、国民民主党を「提案型野党」と位置づけ、立憲を「古い抵抗政党」と批判し始めた。

■「提案型野党」は多くの政党が失敗してきた道

だが、玉木氏は気付いていない。「提案型野党」こそが、過去に失敗を重ねた「古い野党」であることを。

小選挙区制の導入以降、自民党と政権を争う野党第1党に対し「是々非々」路線を掲げたいくつもの「第三極」政党が生まれては消えていった。「与党寄りか野党寄りか」で党内対立を起こして分裂し、政党として長く存続できなかったのだ。

岐路に立ち、頭に手をやり悩む人
写真=iStock.com/francescoch
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/francescoch

玉木氏は「提案型」を標榜する国民民主党について「新しい野党の姿を問いたい」と語っているが、それは過去に失敗してきた「第三極」野党の焼き直しにすぎない。

小選挙区制の下、与野党が政権をかけて戦うことが制度上求められているなか、自民党から「戦って政権を奪う」という発想を持ち得ない政治家は、野党のリーダーにはなれない。「政府の予算案に賛成する」姿勢と「野党の盟主である」ことは、決して両立しないのだ。

■「政権を選挙で奪取する」という野党の役割を見失ってはならない

第三世代と言えば、立憲の泉代表もそうである。2003年初当選で、玉木氏より少し先輩だが、同じ世代に属する政治家と言っていい。その泉氏は3月4日の記者会見で「国民民主は行き場がなくなっている苦しい状況だ。野党からは野党とみられず、与党からも与党とみられていない」と、かつて自らが所属した政党の苦境を嘆いてみせた。

泉氏も代表就任直後、メディアの「対決型野党か提案型野党か」という愚かしい喧伝に惑わされたか、若干「提案型」に触れそうな雰囲気があり、筆者もやや懸念した。実際、枝野執行部の時代に比べ、国会での「戦闘力」がややおとなしくなった印象はなくもない。

しかし、国民民主党の行動に対する泉執行部の強い怒りを見るにつけ、やはり野党の盟主の役割はしっかり自覚していたかと安堵している。

筆者の長年の懸案は、いつか第三世代が野党の中核となった時に「政策実現」を重視するあまり「政権は選挙で奪い取るもの」という野党本来の役割を捨ててしまわないか、ということだった。玉木氏は捨ててしまったが、泉氏は捨ててはいない、とみる。財務官僚出身の玉木氏と、第二世代である立憲民主党の福山哲郎前幹事長の秘書を務めた泉氏の「在野感」の違いなのだろうか。

かつての旧民主党第三世代の中で、細野氏らリーダーの多くが自民党に流れ、玉木氏が「与党化」の兆候を示す中で、野党第1党のリーダーに躍り出たのが泉氏だったというのは、ある意味必然だったのではないか。泉氏には、菅直人氏や枝野、福山氏ら第一、第二世代がどのように「政権を担える野党」をつくるために苦心してきたかを十分に引き継いだ上で、自分なりのリーダー像を構築してほしいと願う。

■政権を担い得る野党勢力の構築のために必要なこと

そして筆者がもう一つ関心を示しているのは、第二世代たる前原氏の今後の動向だ。

前原氏は「希望の党騒動」を起こした張本人だ。現在の野党多弱の状況を作った責任もある。多くの野党政治家やその支持者に、言うに言えないわだかまりをもたらしてもいるだろう。

しかし、前原氏が今回の予算案をめぐる国民民主党の行動を機に、自らの「非自民性」を改めて強く自覚したのなら、もう一度「政権を担い得る野党勢力」をしっかりと構築するために、自分のなすべきことが見えてくるのではないか。少なくとも、現在の所属政党が前原氏自身の想いを体現できる政党だとは、筆者にはとても思えない。

旧民主党系議員の「第二世代」「第三世代」の違いは、ある意味「保守かリベラルか」といった政治路線以上に大きな溝となっているように、筆者には思える。玉木氏と前原氏の間に可視化された溝が、今後の国民民主党、そして野党全体にどんな影響を及ぼすことになるのか、見守りたい。

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尾中 香尚里(おなか・かおり)
ジャーナリスト
福岡県生まれ。1988年に毎日新聞に入社し、政治部で主に野党や国会を中心に取材。政治部副部長などを経て、現在はフリーで活動している。著書に『安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ』(集英社新書)。

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(ジャーナリスト 尾中 香尚里)

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