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「鉄道が普及したから」は誤り…都市ごとに時刻の違ったイギリスから"標準時"が生まれた本当の理由

プレジデントオンライン / 2022年6月7日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Moussa81

世界標準時のグリニッジ天文台を擁するイギリスは、19世紀まで都市ごとの時刻がバラバラだった。なぜ時刻を統一することになったのか。イギリスの技術史家、デイヴィッド・ルーニー氏の『世界を変えた12の時計』(河出書房出版)より、一部を紹介しよう――。

■社会生活を効率化させた電気時計

電気は未来なのだと、私たちはつねに信じてきた。電気自動車、電車、屋根のソーラーパネル、風力原動機(タービン)、ポケットのなかの携帯電話。これらはみな有害物質をあまりださず、よりよく、速く、安全で、より(ネットワークで:訳注)結びついた未来のシンボルとして受け止められている。

電気は光速で伝わり、世界は電線を通じて、あるいは天空を突き抜けて拍動する広大な信号網なのだ。電気は近代性を定義するものとなった。電気こそモダンなのである。

世界各地の数え切れないほどの町や都市に設置されたような電気時計は、ただ私たちがより効率よく動けるように役立つ、ありふれた実用的な技術のごとく見えるかもしれない。職場の壁や、鉄道の駅などの公共の場に設置された時計は、背景に溶け込んでしまい、私たちがそれらを二度見することはまずない。

だが、そのことは公共の時計が19世紀後半に発達し始めて以来、私たちの社会の行動――道徳そのもの――をいかに効率よく変えてきたかを証明するのに役立つばかりだ。これらの時計はありふれているどころか、最も高尚な道徳的目的のために使われてきたのだ。

150年のあいだ、これらは大衆の行動を、権力の座にいる人びとが正しい行動だと考えるものに即して標準化する道具となってきたのだ。そして、それは電気時計設備が時間そのものの標準化を可能にしたからなのである。

■19世紀のイギリスは都市によって時間がバラバラだった

グリニッジ標準時は、グリニッジ子午線の時間だ。この王室特別区に1675年に創立した王立天文台の建物を南北に通る線である。これはグリニッジの現地時間だ。それは、グリニッジ天文台より177キロほど西にあるブリストルの時間ではない。太陽に準じたブリストルの地方時は、グリニッジよりも10分遅い。1675年は、どちらの町もそれぞれの地方時で動いていた。

だが今日ではブリストルは、イギリスのその他の地方と同様に、グリニッジ時に合わせている。19世紀に世界の人びとが時間を標準化することにしたためである。

標準時は市や地域や国や大陸にいるすべての人びとが、自分たちの時計を、グリニッジなどの一つの場所の時間に合わせることに同意する制度で、それが標準となる。その場所よりも東または西に位置するところはどこでも、太陽に即した本当の時間――地方時――が標準時とは異なるが、ひとえに道徳と善悪の行動原理にもとづく理由ゆえに、そんなことは問題ではないと人びとは決断したのだ。

グリニッジ天文台
写真=iStock.com/majaiva
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/majaiva

■時刻の標準化は鉄道の建設によって成されたのか

イギリスでは時間がどのように標準化されたかについて語られる際には、誰もがかならず鉄道の建設について言及する。旅客用の鉄道が1830年代から40年代に最初に建設されたとき、鉄道の全線にわたって時間を標準化する必要がすぐに明らかになった。さもなければ、ブリストルとロンドン間を走るグレートウェスタン鉄道のような東西の路線を、どうやって運行できるだろうか?

駅を通過するたびに、時計を合わせなければならなくなる。乗客が理解可能な時刻表を必要とし、鉄道網の安全が単線を共有する列車を区別するために時間に頼っていたとなれば、誰もが合意する一つの時間の尺度というものは便利であるだけなく、命にかかわる問題でもあったのだ。

そのため、グレートウェスタン鉄道沿いの各駅の地方時は廃止されて、1840年にロンドン時間を選んだ鉄道独自の時間に取って代わられた。そして、ロンドンで正しい時間を知る唯一の方法は、それをグリニッジから得ることなのだった。

これはまた、鉄道沿いに(文字どおり)建設された別の新しいネットワークのおかげで可能になった。つまり電信である。電信はモールス信号のトン・ツーでメッセージを送っただけでなく、時報も瞬時に送ることができた。世界各地の沿岸に築かれた時報設備は、近くの天文台からの電気信号によって調整され、測位用のクロノメーターの時間を合わせるのに一役買ってきた。同じ原理が、鉄道の発達と繁栄にも役立ったのである。

グリニッジのたった1台の時計が、電信線沿いに自動で送られた電気インパルスを使って何百キロも先まで午前10時の瞬間を告げることができたのだ。同じ電気の時報は路線沿いのすべての主要な駅で受信することができたし、各地の運用しだいで時間は支線網のずっと先までも伝えることも可能だった。

各駅の時計は、グリニッジ時に合わされ、移動中もすべての鉄道員のポケットのなかで懐中時計がグリニッジ時を告げていたのだ。中央にあるその1台の標準時計で、全鉄道網を時間どおりに運行しつづけることができるようになり、1850年代には、イギリスのすべての鉄道が同じ慣行を採用していた。

■鉄道が普及した後もイギリスの地方時は使われ続けていた

この物語は、ここまでのところは問題なしとしよう。だが、この時点で大半の技術史はもう一歩先まで踏み込む。一般に主張されるのは、1855年までには鉄道の時間だけでなく、イギリス自体の常用時――国民全体の日常生活における時間(市民時とも言う:訳注)――がグリニッジに合わせて標準化していて、各地のさまざまな常用時は放棄されていたというものだ。

これが通常、語られる標準時の物語なのである。そこで想定されているのは、日常生活も早期導入者――この場合は鉄道会社――の慣行に歩調を合わせるようになった、というものだ。だが、その想定は間違っている。

私たちの暮らしのなかで、鉄道時間と地方時という二つの時間を使い分けて、両者のあいだで換算するのは可能だっただろう。そんなことは面倒であるように思われるが、私たちは今日二つの時間システム(12時制と24時制)をどうにか運用しており、そのためときには少しばかり暗算をしなければならない。

私たちは度量衡でも同時に二つの制度(ヤード・ポンド法とメートル法や、摂氏と華氏)を使用している。なかにはこうしたことはすべて廃止すべきだと考える人がいるのは確かだが、その議論はまた別の機会にすることにしよう。

肝心なことは、私たちが複数の度量衡制度を並行して使いながらなんとか生活しているという点だ。地方時と標準時でも同じ状況だった可能性があり、鉄道の物語を語る人が見逃しているのは、事情は同じだったということだ。地方時は実際に残りつづけたのであり、しかも1880年代まで、鉄道が走り始めてから半世紀後まで残っていたのである。

鉄道は時間を標準化するうえでは役割をはたしたが、日常生活で標準時がどう普及したかについてはもっと広範囲にわたる物語があったのだ。そして、それはヴィクトリア朝時代の道徳と電気時計設備をめぐる物語なのである。

■1886年のロンドン一帯の時報配信先リストは何を語るか

2007年に私はスタンダード・タイム・カンパニー(STC)に関する研究プロジェクトで、電気による計時の歴史を専門にする同僚の歴史家ジェームズ・ナイと一緒に仕事をしていた。STCは1876年に創立され、電気によるロンドン一帯の自動時報配信網を推進していた。

私たちのプロジェクトの途中で、ジェームズがSTCの1886年の配信先リストを見つけたほか、ロンドン一帯のどこにその電信網が設置されていたのかがわかる手書きの配線図も発見した。そして、彼が金脈を掘り当てたことが私たちにはすぐさまわかった。その書類から私たちが発見したものは、電気と時間の標準化についての私たちの考え方だけでなく、ヴィクトリア朝時代の世界について、その道徳や近代性への飽くなき探求についての考え方も変えることになったのである。

■300以上の登録客がSTCから正確な時刻を享受していた

私たちは配信先と配線図をじっくり眺め、ヴィクトリア朝時代のロンドンの古地図で細部をたどった。古い道路のレイアウトが現在の道路とどう重なるのか確かめ、STCの電信線が実際にどこを通っていたのか、数え切れないほどの市街図を調べた。市場の規模についての手がかりを求めて、通りを歩くことに時間を費やし、各会社がどれほどの大きさで、1886年にはその店舗がどれほど近代的に見えたであろうかも推測した。

そうして、数週間ほど調べ、検討したのちに、私たちはどんな事態が起きていたかを理解し始めた。

1886年には、366の別々の地点にいる300以上の登録客がSTCの電気時報ネットワークに接続され、1時間ごとに電流の急激な増加を受け、自動的に店舗内にあるすべての既存の時計の時間を自動修正してもらっていた。

これらの建物の壁に掛けられた何千台もの時計は、ロンドンのシティにあったSTCのコントロール・センターの時計から、毎時、電信網で流れてくる電気同期信号によって、秒単位で正しくセットされていた。何万もの人びとが同社の標準時を頼りに、行政、金融、通商の仕事を調整していたのだ。

■配信先の4分の1がロンドンのパブやレストランだった

配信先の人びとの多く――銀行、取引所、手形交換所など――に関しては、彼らがなぜ正しい時間を知る必要があったのかは容易に想像がついた。だが、同社の配信先リスト全体の4分の1を占めていたのは、別のタイプの職業だった。

ロンドンの80カ所以上のパブ、カフェ、レストランが、STCの電気時報ネットワークから有料で配信を受けていたのだ。

パブ
写真=iStock.com/Enes Evren
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Enes Evren

初めのうち、ジェームズと私にはそれがなぜなのか見当がつかなかった。そこで、ヒントを探すために、私たちはこれらの標準時利用のパブのうち何軒がまだ残っているかを確かめるという目標を定めた。それはつまり、大いに歩いて、うまく見つかれば、飲めることを意味していた。期待したほどは飲めなかった。

大半のパブは、STCが株式市場で活躍した時代から、閉鎖されて久しいか、2度の世界大戦で破壊されていた。戦後の再建のなかで、パブの多くは一掃されていた。それにもちろん、私たちは開店時間である正午から夜の11時までのあいだしかパブを訪ねることはできなかったのだ。

■アルコールに取りつかれた人々を救うための“標準時”

アルコール飲料の販売の制限は、イギリスのヴィクトリア朝時代の規範的法律のうちで、最も論議を呼んできたものの一つだった。禁酒史家のアンソニー・ディングルは、「ヴィクトリア朝時代の人びとはアルコールに取りつかれていた。知識人や能弁家のあいだでは、社会のなかで飲むのにふさわしい場所が熱心に、徹底的に討論されており、現代のわれわれには理解し難い」と書いた。

1872年の免許法が、大衆へのアルコールの販売時間に全国的な制限を導入した最初の事例で、それ以前や以後のあらゆる法律は言うまでもなく、この法律をめぐる討論だけでも、長くつづき、苛烈(かれつ)なものとなった。そこには階級、自由、公衆衛生、国家権力の問題がすべて密接に関係しており、ヴィクトリア朝時代の道徳と、人間の行動を取り締まるための時計の利用に関する、またとない事例だったのである。

ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、一時性(テンポラリティ)は抑制(テンペランス)を可能にしていたのであり、酒類販売認可時間を導入することで、国家は飲酒にタイムを宣告していたのだ。

■パブでアルコールを提供していいのは「どの」時間までなのか

だが、どの時間(タイム)なのか? 1870年代には、鉄道はあったにもかかわらず、地方時はまだイギリス全土で使われており、健在だった。「カーティス対マーチ」と呼ばれる1858年のきわめて重要なある判決が、イギリスの法廷で公式時間はグリニッジ時ではなく地方時だと裁定を下していたのである。

これは抑制・禁酒(テンペランス)の法律を制定しようとしていた人びとにとって問題だった。アルコールの販売に時間制限を設けたいのであれば、二つのことが必要になる。まずは、どこのパブでも地方時、標準時のどちらで営業するのかについて合意することだ。二つ目は、誰もがその時間を正確に入手できるということだ。認可時間を過ぎてアルコールを販売していたとして、パブの経営者を告訴するつもりであれば、時間そのものが非難の余地のないものでなければ、勝ち目はないからだ。

■グリニッジ時がイギリス全土の標準時になった

1874年に、議会は1872年の免許法がどれだけ実践されているかを検証し、議論は厄介な時計の問題に向けられた。討論のなかである下院議員が、すべてのパブを王立天文台と接続させ、それによって時間がわからなかったという言い訳ができないようにすべきだと提案した。そのわずか2年後に、STCが創業した。このことは、同社の時報配信をそれほど多くのパブが有料で受けていた理由を説明する。

だが、二つ目の問題を解くのはもっと難しかった。それぞれの町や市の酒類販売認可時間は、地方時にもとづいていたのか、それともグリニッジ時だったのか?

デイヴィッド・ルーニー『世界を変えた12の時計』(河出書房出版)
デイヴィッド・ルーニー『世界を変えた12の時計』(河出書房出版)

ある下院議員は「この措置の実行に関連して時間を確実に統一させることには、大いに利点がある」ので、公式な酒類販売認可時間を「グリニッジの王立天文台で計時される時間に従って考えるよう」法律を改正すべきであると主張した。

その6年後の1880年8月に、グリニッジ標準時をイギリスの全法律の公式な標準時とし、アイルランドの法律ではダブリン標準時とすることを明記した法律がイギリスで可決されたことで、問題はようやく解決を見た。

地方時が過去のものとなったのは、鉄道がそれを使った(ことで混乱を招いた:訳注)ためではなく、1870年代に節酒を勧める改革者が時計を使って自分たちの道徳的十字軍運動を維持したかったからなのである。

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デイヴィッド・ルーニー 技術史家
時計の製造と修理を専門とする両親のもとで育つ。ロンドン科学博物館の技術担当キュレーターや、グリニッジ王立天文台の計時部門担当キュレーターなどを務め、現在はフリーで著述活動やキュレーションを手掛けている。著書に、『Spaces of Congestion and Traffic: Politics and Technologies in Twentieth-Century London』(Routledge)などがある。

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(技術史家 デイヴィッド・ルーニー)

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