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生きるためにがんばろうとしてはいけない…桑野信義が「抗がん剤に殺される」とつぶやいた真意

プレジデントオンライン / 2022年6月5日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gorodenkoff

ミュージシャンで「ラッツ&スター」メンバーの桑野信義さんは2020年に大腸がんが見つかり、現在は寛解に向けて治療を続けている。桑野さんは「抗がん剤治療の副作用は想像を絶するほどつらかった。がんとの闘いは『がんばろうとしないことが大切』と気づいた」という――。

※本稿は、桑野信義『がんばろうとしない生き方 大腸がんになって見つけた笑顔でいる秘訣』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■「ステージに立つ」を目標に治療中止を決断

オレは抗がん剤治療について何かを言える立場ではありません。実際に抗がん剤治療のおかげでうまく手術できた面もあるし、逆に抗がん剤治療を止めたことで早く復帰ができたと思っています。自分の医師たちとよく話し合って、3カ月後にみんなの前でステージに立つという目標のために中止を決断しました。

もし誰かの気持ちが楽になるならと思って包み隠さず書いたから、よかったら読んでください。けど、あくまでオレの場合の話です。いま闘病中の方は自分のお医者さんの意見をよく聞いてください。

2021年4月からのツアーには同行しないと決めたあと、病院で「これからどうするか」を話し合いました。それが3月8日のことです。

結果的には抗がん剤治療を再開することになったんですが、先に人工肛門をとる手術を行う選択肢もあることはあったんです。

だけど、「抗がん剤治療を行っているあいだは手術ができず、抗がん剤治療はあまり、あいだを空けずに再開したほうがいい」ということから、手術より抗がん剤治療の再開を優先したんです。

そのために入院したのが3月16日でした。

翌日、ステロイドとオキサリプラチンを点滴して退院。夜からはゼローダを服用するようになるという段取りはそれまでと変わりませんでした。

ですが……。

■「副作用がすごく強くて、ビックリしてる」

その翌日、マネージャーに対して、「副作用がすごく強くて、ビックリしてる」とLINEをしています。

その後は闘病記録ノートにもずっと「絶不調」、「体調不良」という記述が続くことになりました。この不調はまったく予想していないレベルのものだったんです。

オキサリプラチンを点滴した直後から異変は起きていました。

それまでよりもずっと手が冷たくなってしまい、強烈なしびれが出てきたので、熱いタオルで温める応急処置をしてもらっていたんです。

抗がん剤の点滴を打つと血管が硬くなるんですが、このときは「本当にオレの血管なの⁉」ってくらいの違和感がありました。

そのため、退院する際には先生も「次のセットは点滴をやめてゼローダの服用だけにして様子を見てみましょうか」と言っていたくらいだったんです。

帰宅後も不調が続いていたなか、23日にはテレビ用のちょっとした撮影がありました。朝の情報番組で、がんについて話すことになったんです。大腸がんだったことを公表するのに合わせた企画でした。

「がんだとわかり、治療を始めた頃は本当にきつかった」という話をしたんだけど、実際はこのときのほうがもっときつかった。

どう説明すればいいのかな……。ひと言でいえば、それまでとは違って、精神的にまいっていたんです。

ツアーに出られなくなったから落ち込んでいたとかいった話ではなく、抗がん剤の副作用だったんだと思います。うつ状態に近いような感じでした。

■自分の中で何かがキレかけていた

このときを入れて、抗がん剤治療は残り4セット。こうした状態が続くのであれば、7月の復帰どころの話ではなくなってしまう……。大げさでなくそう感じられるほどの異常が起きていたんです。

精神的にも肉体的にも、追いつかなくなっていました。こういうことは本に記すべきではないかもしれませんが……。

「オレは抗がん剤に殺される」とも口にしていたほどだったんです。

闘病記録ノートを見返してみると、この頃は毎日、飲んだクスリの名前や体温や血圧、何時にストーマを交換したか、何を食べて、家では何があったか、といったことのあいだに「不調」「横になっている」と書き込まれることが増えています。

24日に「とにかくだるい」「抗がん剤治療はつらい」「止めたい」「止める」となぐり書きをしていました。

当時のことは思い出せない部分も多いんですが、自分の中で何かがキレてしまっていたんだとも考えられます。復帰できるかできないかという以前の問題として、がんとの闘いを続ける気力をなくしかけていたのかもしれません。

26日になって病院に相談の電話をしています。そのときに、とりあえずゼローダを飲むのはやめて、4月5日に病院であらためて今後の方針を話し合うことになりました。

その後も不調は続いていましたが、闘病記録ノートは再開しています。志村けん師匠の一周忌にあたる3月29日から闘病記録ノートも3冊目になりました。この日から不調という記述はなくなっているので、本当のドン底からは、なんとか抜け出せていたんだと思います。

■時間が空くと抗がん剤治療は再開できないが…

病院には予定どおり4月5日に行きました。採血やレントゲンのあと、先生と話をしました。その場にはマネージャーと妻にも同席してもらいました。

このときは、「抗がん剤治療は打ち切りたい」という気持ちを伝えるつもりで行きながら、「オキサリプラチンをやめて、ゼローダだけ続けませんか」という話になったんだったと記憶しています。

自分としてはオキサリプラチンに対して恐怖心にも似た感情を持つようになっていたので「ゼローダだけにするならいけるのではないか」という気になりかけて、その日は先生の提案にうなずきました。

でも、結果的にはやはり、ゼローダも含めて6セット目以降はやらないことに決めたんです。

先生からは「7月のコンサートに出演したとして、その後に抗がん剤治療を始めることはできないですよ。時間が空きすぎるからです。それでも本当にいいんですか?」と念押しされました。

■がんは治癒効果が患者によってぜんぜん違う

先生の立場からすれば、抗がん剤治療を続けたほうがいいというのが基本的なスタンスになるんだと思います。それでも、こんなふうにも話してくれました。

「抗がん剤治療を続けたからといって絶対に再発しないとは言えません。やらなかったからといって再発するとも限りません」

そして先生はこう続けられました。

「がんは、患者それぞれみんな違うので治療効果のエビデンスがとりにくいんです。あるクスリが大腸がんの患者に効果を発揮したとしても、別の患者にも効くかはわかりません。個人個人の結果を見るしかないので、治療をどうするかは最終的に患者さん自身が決めるべきだということになるんです」

日本だけでも新規のがん患者は毎年100万人を超えるようになっていながら、まったく同じ状態の患者はいないそうです。そのため、同じ治療を行っても効果のあらわれ方には違いが出てくるということです。

生存率などの数字にしても、あくまで参考レベルにしかならないそうです。

■「抗がん剤に殺される」とつぶやいた真意

そういう話を聞いたからってわけではないけれど、抗がん剤はやめようと決めてからは、気持ちは揺らがなかった。

それだけ5セット目の落ち込み方はきつかったんです。

痛い、苦しい……ということなら我慢できたと思うけど、このときは“二度と立ち直れなくなるんじゃないか”というくらい精神的に削られました。

つらくてうずくまってしまい、「このまま動けなくなるんじゃないか」という不安に駆られたこともあるほどです。

ベッドに寄りかかり、床に座って頭を抱える男性のシルエット
写真=iStock.com/Wacharaphong
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Wacharaphong

この段階では体の中にがんはなくなっていたのに、このまま抗がん剤治療を続けていれば、取り返しがつかない状態になってしまうのではないかと感じていました。それが「抗がん剤に殺される」という言葉になっていたんです。

だからといって、抗がん剤治療を否定するつもりはまったくありません。実際にオレは、途中までとはいえ、抗がん剤治療をやったことで、がんを小さくして転移を止めて、手術ができたんですから。

最初から抗がん剤治療を拒んでいたなら、いま頃どうなっていたかはわかりません。そういう意味でいっても抗がん剤治療を受けてよかったと思っています。だけどこのときは、あと3セットやるメリットよりリスクのほうが大きいんじゃないかと自分で判断しました。

そう判断せざるを得ない状況になっていたということです。

参考のために書いておけば、抗がん剤をやめる理由になったわけではありませんが、このときは髪の毛もずいぶん抜けました。吐き気とかもそれまでにないほどきつかったので、よく聞かれるような副作用が一気に全部きた感じだったんです。

■3カ月装着した人工肛門にもさようなら

抗がん剤治療を5セット目でやめたので、人工肛門をとる手術は5月に前倒しすることになりました。そうすれば、6月いっぱいはリハビリと準備にあてられるので「7月のコンサートに間に合わせられる」と考えたんです。

何回か検査に通ったあと、5月18日に手術することに決まりました。決定したのが4月19日です。入院までの1カ月は、特別なことは少なく、比較的穏やかに過ごせました。

入院を機に闘病記録ノートも4冊目になり、1ページ目には「ストーマさよなら 復帰大作戦」と書いています。

この頃には人工肛門に愛着が湧いてきたというか、扱いも手慣れたものになっていました。

3日に1回のペースで装具を換えるストーマ交換を行いますが、人工肛門をとるまで一度の失敗もなく29回の交換をこなしていました。人工肛門のことを「ジュニア」と呼ぶようにもなっていました。

「悪いけど、もともとの肛門に戻すから、これでさよならだ。3カ月の付き合いだったけど、ありがとう」

手術前にはそんな気持ちにもなっていて、手術室へ行く10分ほど前にはジュニアがよく見えるようにして自撮りで記念撮影もしました。他人から見れば少々、グロテスクなはずなので公開はできないですけどね。

■最初はあまり人に話したくなかったけれど…

最初は、人工肛門をつけたことはあまり人には言いたくなかったし、世間に公表するつもりはなかったんです。

いまも大々的に公表しているわけではないけど、ラジオで話したこともあるし、こんな本を出したりしているくらいだから、隠すつもりはなくなりました。

最初に話したのは何かの取材だったと思うけど、その前にマネージャーから「もう、人工肛門はふさいじゃったんだし、そのあたりのことも話していいんじゃないですか」と提案されたんです。

積極的に言い回ったりはしなくても、隠しはしない。そういうスタンスでいこうかと思いました。もともと自分の中で抵抗があったのは確かです。

誰だってそういう反応になるはずだとはいえ、「一生、人工肛門になるのは絶対に避けたい!」って思っていたわけですからね。

実際のところ、人工肛門をつけたばかりの頃は本当に大変でした。便が水っぽかったこともあり、3時間おきくらいにパウチの処理をしなければならなかったんです。ゆっくりと眠ることなど、できません。

そういうところから始まっていながら、少しずつ慣れていったんです。もちろん、人工肛門がとれたことに関しては、よかったと思っていますけどね。

■人工肛門を隠しているのはかえって恥ずかしい

自分自身が人工肛門をつける経験をしなければ、オストメイトがどのような生活をしているのかといったことを考える機会もなかったはずです。身をもってそこにふれられたのはいい経験だったと思っています。

桑野信義『がんばろうとしない生き方 大腸がんになって見つけた笑顔でいる秘訣』(KADOKAWA)
桑野信義『がんばろうとしない生き方 大腸がんになって見つけた笑顔でいる秘訣』(KADOKAWA)

いろいろと調べましたが、普通に仕事をして、普通に生活しているオストメイトはたくさんいます。

旅行などができるのはもちろん、気をつけるべき点を気をつけて、マナーを守れば、温泉にも入れます。人工肛門をつけてから、恋愛して結婚や出産をしている人もいるようです。

そういうことがわかってくると、人工肛門をつけていた事実を隠そうとするのはかえって恥ずかしいことのような気がしてきました。

だからもう、人工肛門について話すことにためらいはなくなったんです。

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桑野 信義(くわの・のぶよし)
ミュージシャン、コメディアン
1957年生まれ、東京都大田区出身。76年鈴木雅之に誘われて「シャネルズ」に加入、83年に「ラッツ&スター」へ改名。『志村けんのだいじょうぶだぁ』出演から本格的にお笑い・バラエティでも活躍している。2020年9月に大腸がん(ステージ3b)が判明、21年2月に手術を受け成功。同年7月にシャネルズ(現ラッツ&スター)40周年記念ツアーの大阪公演で仕事へ復帰し、同年末には「NHK紅白歌合戦」に出場。寛解に向けて「がんばらない」生活を送っている。

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(ミュージシャン、コメディアン 桑野 信義)

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